琉球新報「戦禍を掘る」韓国人戦没者

戦禍を掘る 韓国人戦没者

死の状況いまだ不明 李さん 40年分の悲しみ一気に

 寒風の11月、韓国人戦没犠牲者慰霊祭が、糸満市摩文仁の同慰霊碑前でしめやかに催された。韓国からも20人からなる遺族団が参列した。読経、主催者らのあいさつの後、遺族を代表して、司会者に紹介された老婦人は、祭壇に一礼したのち、忘れかけていた日本語で、ゆっくり「ありがとうございます」とひと言いっただけ、後は涙で言葉にならなかった。体をふるわせおえつするその姿に参列者は同情した。突然の号泣が一層悲しみを誘った。

 

 老婦人は李発生さん(71)=釜山市。李さんの夫・高仁普さんは昭和18年10月ごろ、日本から南方に向かう途中、沖縄近海で敵軍に撃沈され、死亡した。

 

 「海が好きで、おとなしく、正直な」高さんが、日本の軍属として海軍に入隊したのは昭和15年。日本本土と南方を結ぶ、輸送船に乗り込み、兵や物資を運搬していた。

 

 当時、まだ5歳の息子と3歳の娘を抱えた李さんの楽しみは高さんから送られてくる手紙だった。「いずれ一緒に大阪に住もう。今は苦労かけるけど我慢して待っていて」、そう書かれた手紙だけが心の支えだった。

 

 しかし、日本から来たのは「昭和18年10月、沖縄近海にて戦死」と記された1枚の紙きれだけ。戦友に聞き歩いて分かったことも「お昼ごろ、敵軍にやられた」程度の話。いつ、どこで、どんなふうに死んでいったのかさえも分からなかった。

 

 話を聞いている時も、「魚雷にやられた」「機銃だったかも」と内容が変わる。そして「すみません」と何度も言う。こんあふうに死んでいった―と想像を身ぶりで表すが、それがよけいに痛ましく感じた。

 

 「あのころは子どもたちとともに、これからどうしようか、うろたえるだけでした。とてもとても困りました。でも今はみんな大きくなって、何の心配もありません」

 

 この夏、韓国のテレビ局は戦争で離ればなれになった肉親らの出会いを願ってキャンペーンをした。涙して抱きあう何万組もの人を見ながら、李さんも「もし、生きていたら」と何度も思ったという。「でも、もう天国で待っているから」と笑った。

 

 11月、初めて沖縄の土を踏んだ。初めて見る夫の眠る海と慰霊碑を前に、40年分の悲しみが一気にこみ上げた。「あの時はただ、悲しくて、すみません」と語った。

 

 「戦争で負けたから、韓国は切り離されました。親子で路頭に迷いました。でも、沖縄の人も、数万の方が亡くなったそうですね。同じ悲しみを背負っている人がたくさんいると思います。戦争は世界中に広がります。それだけ悲しみも広がります。平和が一番尊いものです」

 

 遺族団の一人、宋■1■2さんは言った。「軍の偉い人だったら、どんなふうに死んでいったかも記録に残る。一方では、いつ、どこで、といったことさえ分からないで死んでいった人も多くいる。おかしな話です」

(「戦禍を掘る」取材班)1983年12月9日掲載

■1は左が「金」で右が「玄」
■2は上が「火言火」で下が「又」

 

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