琉球新報「戦禍を掘る」ハワイ・幻の墓標

 

戦禍を掘る ハワイ・幻の墓標

「遺骨はどこに」兵舎の拡張で墓地撤去

 ハワイ諸島の一つ、オアフ島―。州都ホノルルのあるこの常夏の楽園は年中、バカンスを楽しむ人たちでにぎわいをみせるが、一方では、いまだに遺族のもとへ帰らない遺骨を求めて島を訪れる人が後を断たないという。

 

 沖縄戦のあと、捕虜になり、オアフ島・ワヒアワーのスコーフィールド(基地)に強制収容され、間もなく死亡した県出身者の墓標を撮った写真を持って、同島に住む儀間朝誉さん=奉仕団体所属=がこのほど来沖した。

 

 写真は1946年5月19日に儀間さんが、当地で牧師をしていた故・城間次郎氏とともに墓参りした際、記念に写したものである。約半年後、基地の兵舎拡張で墓は掘り起こされ、その墓標は消えてしまっている。貴重な“証拠”となったこれら6枚の写真を城間氏は大切に保管していたらしく、夫人に頼んで儀間さんが来沖に当たって預かってきた。

 

 ズラッと立ち並ぶ墓標を写したその中の1枚を11月30日付本紙に掲載すると、遺族からいくつか問い合わせがあった。復員してきた人の話では、死亡した捕虜の墓は62くらいあり、半分は県出身者だったという。写真の裏にはこのうち10人の氏名と死亡年月日が書き写されている。

 

 「アフソ・タイヘイ(安富祖泰平)は私の父です。栄養失調で死んだが墓地にちゃんとまつられているから心配しないでいいよ―と帰ってきた捕虜がいっていたのを覚えていたので、10年ほど前にハワイへ遺骨をもらいに行ったら墓がなかったのです。墓地管理人は知らないし、日本領事館も資料がないとのことで途方に暮れています。遺骨はどこかに移され今でもあるような気がするのですが」。安富安次郎さん(51)=那覇市国場=はこう話し、行き詰まっていた収集作業の手がかりを求めてきた。

 

 「クデケン・ケンポウ(久手堅憲保)は私のおじです」と言ってきたのは嘉陽キクさん=那覇市与儀。「戦後3、4年たってから佐敷町役場に呼び出された祖母は、自分の息子が帰ってきたと喜んでいたが、受け取ったビニール袋には遺品のみで遺骨はなかったようです。おじはどんな最期を遂げ、遺骨はどうなったんでしょうか」

 

 また、渡口彦信さん=嘉手納町字嘉手納=からは写真に記されていた2人を含む計4人の死亡証明書のコピーが届いた。「トグチ・マサオ(渡口正雄)の親類です。一昨年と昨年の2回ハワイへ行き、元州下院議員のピーター伊波氏や弁護士のジョージ高根氏の協力で州衛生局から手に入れたものです」

 

 カルテには肺結核による病死のほか、事故死と思われる死亡原因の人もいた。また、亡くなった病院名や埋葬墓地名などが記されている。

 

 しかし、遺骨が移された記録はない。墓撤去で掘り起こされた遺骨はいったいどこにあるのだろうか。儀間さん、渡口さんのほか、調査に協力しているハンセン病予防教会の仲真良哲さんも加わり、遺骨の行方を推測してもらった。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年12月12日掲載

 

遺骨 日本に帰還?  厚生省へ引き渡し 引き揚げ船で浦賀

 日本人捕虜を埋葬した墓地の管理人は長年の間に次々と変わってしまっていたが、うわさでは、遺骨は日本政府に全部返したという。が、県出身者の遺族のもとには遺骨は届いていない。代わりに送られてきたのは毛髪、ツメ、ハワイの土などであった。

 

 「もしかしたら、遺骨はハワイのどこかにあるのではなく、日本に帰還してるのかもしれない」と渡口さんが視点を変えた。「確か、ハワイから神奈川県の浦賀に引き揚げてきた時に同船していた上間久一さんが、港で米軍に遺骨を引き渡してくれと頼んでいたような気がするんですが」というと、「その可能性大いにありますね」と儀間さんと仲真さんが身を乗り出し、その時の模様を聞いた。

 

 渡口さんの話によると、ハワイで死亡した今帰仁村与那嶺出身、上間松栄さんの遺骨を、仲尾次出身で顔見知りだった上間久一さんが引き取りを申し出たという。久一さんは兵舎拡張による墓撤去の時、発掘作業を手伝ったことも話していた。

 

 1946年の暮れも押し詰まったころ、最後の引き揚げが行われた。城間牧師や儀間さんをはじめ、多くの2世、3世が渡口さんらを見送ってくれた。今、県出身者の遺骨収集問題で対策を話し合っている渡口さんと儀間さんの2人は「37年前のあのシーンで、一緒にいたことになるんだなあ」と感慨もひとしお。

 

 翌1947年正月、船は浦賀に入港。久一さんは「私が預かって沖縄にいる遺族へ持って行くから」と松栄さんの遺骨をもらい受けようとしたが、引き渡しは政府間でやるし、正式なルートで後ほど届けるからといって断られてしまった。米軍としては、厚生省に渡したことで責任は終了し、あとは国内で対処してほしいということだったらしい。

 

 「厚生省復員局に記録がないでしょうか」と儀間さん。「できるだけ“証言”などの証拠資料を集めて県から厚生省に働きかけてもらいましょう」と渡口さんも祈るような気持ちだ。「戦後処理は国の課題ですが、もっと積極的に活動してもらうためにも、関係者が集まって情報交換をすべきでしょう」と仲真さんが呼び掛けている。

 

 いずれにしろ、詳しい事情を知らない遺族にとっては、手元に届いていないから今でもハワイにあるだろうと思うのは無理もない。90代になってしまった上間松栄さんの母は、今帰仁で待ち続けている。「生きている間に、息子の遺骨を引き取りたいのに」。

1983年12月13日掲載

 

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