琉球新報『戦禍を掘る』 チビチリガマ

 

琉球新報『戦禍を掘る』 チビチリガマ

「あの時出たら…」 ~ 悔い残る住民82人の自決

 「さあ、出よう。この一言が言えたら、みんな出たと思う。今でも、この一言に悔いが残る」―昭和20年4月3日、読谷村波平のチビチリガマで起きた集団自決の貴重な生き証人、知念カマドさん(66)は意を決したように話し始めた。波平の区民146人が避難していた自然壕で米軍上陸後、3日目に82人が集団自決を遂げた。ガマは天然の鍾乳洞で、この悲惨な出来事がなければどことなくユーモラスな名称と洞内の随所に見られる美しい鍾乳石で、多くの村民に親しまれる名勝になっていたかも知れない。

 

 しかし、戦後39年経過した今も、この地を訪れる人は少ない。県道6号から農道に入り少し行くと、村農協の養豚場がある。養豚場の手前は役10メートルほどのがけになっており、草深い斜面を下りるとガマの入り口。幅は役12、3メートル。中に入ると洞は左へ曲がり、奥行きは約50メートルはあろうか。中は真っ暗で途中、数カ所で枝状に分かれている。起伏も激しく、鍾乳石が低く垂れている所も多いので、明かり無しでは進めない。

 

 当時、27歳だった知花さんは長男(当時5歳)長女(当時7カ月)はじめ姉2人とその子どもたち6人にしゅうとめの計12人で避難していたが、長女を除く全員を集団自決で失った。自決の方法はガマの中央付近にフトン、衣類などを集め、石油ランプの油を注ぎ、焼き、その煙による窒息を選んだ。

 

 集団自決した82人のほとんどが、窒息死したが、中には注射を選んだ人や、包丁を使って命を断った人たちもいたという。注射を使ったのは若い看護婦で、火をつける前に希望した足の不自由な身内に打ったという。絶命したその人を見て、周りの人たちは「こんなに早く死ねていいね」と言いながら、うらやましく思っていたとも。また、ある母親は目の不自由なわが子を横たえて、包丁でつつき始めた。集団自決は上陸した米兵がガマの入り口で投降を呼びかけるさ中に行われており、この子は米兵の手で助け出され、生き延びた。しかし、母親はガマから二度と出ることはなかった。

 

 戦後、2、3年してから最初の遺骨集めが行われ、ガマの中から頭骨だけが82柱集められ、火葬の後、遺族が分けて持ち帰った。また、その後、昭和35年には大きな骨を中心に収集、納骨堂を造って、その中に納めている。それだけに、今でもなお、ガマの中には足の踏み場もないほど、無数の小さい骨、歯にはじまり、眼鏡、足袋、クシなどの遺品、茶わん、油つぼなどの生活用品が残されている。フトンなどが燃やされたと思われるあたりは焦げ跡も生々しく、熱で変形した瓶が、自決日の修羅場を物語るように転がっている。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月5日掲載

 

最後にガマを出る ~ 知花さん キビ汁で長女息吹き返す

 知花さんは集団自決が始まってから、チビチリガマを最後に出た人だ。ガマにいた146人のうち自決した82人を除いた人たちのほとんどが、自決が始まる前にガマを出ている。煙の中から出た時、抱いていた長女は窒息状態で、知花さんはオッパイを口に含ませようとしたが、口は開かなかったという。その時、ガマの入り口にいた米兵がサトウキビの絞り汁を長女の口いっぱいに入れると「ゴクリ」と飲み込み、息を吹き返した、と。

 

 知花さんが語るチビチリガマの様子はこうだ。知花さんらがガマに最初に入ったのは昭和20年3月26日。米軍の艦砲射撃が激化、それまでの壕では危険との判断で移った。それでも4月1日の米軍上陸までは、夕方、ガマに子どもたちを残して家に帰り、1日分の食事を作ってガマに戻るという繰り返しで、不安の中にもガマでの生活はおだやかだった。

 

 しかし、米軍上陸後はガマから一歩も出られず、3月30日に持ち帰った食糧を少しずつ食べていた。4月2日午前9時ごろ、ガマの中にいた兵隊出身の男性2人と、独身の女性10人が竹ヤリを持ち、ガマから出かけたが、たちまち米兵に銃撃され、男性2人が負傷。

 

 傷を負って戻ってきた人たちをみて、ガマの中では「敵はそこまできている。あれらにやられるよりは自分らの手で」と、松の枯れ葉を集め、火をつけた。しかし、一部の人たちは反対して火を消し止めた。米兵が攻撃してこないので、知花さんが外に出ると、ガマの上の方からビラが多数、舞い降りて来た。ビラには「食べ物も着る物もたくさんある。安心して出なさい」と書かれていた。知花さんが「こんな物が落ちているよ」と、持っていくと、「これはウソだ。アメリカがそんなことをするはずがない」と相手にされなかった。

 

 そして、翌3日。午前8時半ごろに米兵3人と2世の通訳1人がガマに入ってきた。米兵らも緊張気味で中に日本兵がいないかどうかうかがう様子で、1人だけいた目の不自由な若い男性を見つけると慎重に目がみえないかどうか調べていた。日本兵がいないのがわかると通訳がビラと同じことを繰り返し話した。手に持っていたアメ玉を自分が口にいれながら「食べなさい」と勧めた。

 

 知花さんは「どうせ死ぬんだったら、アメリカの物を食べてから死のう」と思い、アメ玉を受け取り、家族全員で1個ずつ食べた。このために食べなかった人たちからは「アメリカーと同じだ」と非難された。米兵は弾で負傷した2人の男性を連れてガマから出た。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月6日掲載

 

注射で死ねれば楽 ~ うらやんだ人たちも

 当時のことを語る知花さんは時折、節くれ立った手先を見ながら、目をしばたかせる。つらい記憶に負けまいと闘っているようにも見える。

 

 「負傷した2人が連れ出されるのを見た時は、『きのう(銃撃された時)やられておけばよかったのに』と皆がそう思ってました。彼らも切り刻まれて死ぬんだ。今のうちに自分らもやろう」。こうして集団自決が始まった。ガマに持ち込んでいたふとん、衣類などがうず高く積まれ、石油ランプの油がかけられた。しかし「死にたい人は死ね。私は出る」と言う婦人もいて、火がつけられる前にガマを出た人たちもいた。またある人たちは注射で命を断ち「早く死ねていいね」と、うらやましがられた。窒息死するよりは注射が楽だと思い「注射、注射」と要望したが「量が少ないので身内にしかできない」と断られた人も多かった。

 

 3日午前9時半に火はつけられた。知花さんら12人も覚悟を決め、並んで座った。知花さんは長女を抱きながら、傍らには長男がすがりついていた。煙はガスの中に満ち、知花さんの意識も苦しみの中で薄らいでいった。「あまり苦しいので、手を伸ばすとだれかをつかまえていた。その人が立って歩き出したので、自分もついて行った。煙で一寸先も見えない状態だった。長男も腰の着物をつかまえて一緒に歩き出していた。どれぐらい歩いたか分からなかったが、何かにつまずいた時に長男の手が離れた。そのすぐ後に明かりが見えた」。

 

 外に出た知花さんは米兵のサトウキビ汁で息を吹き返した長女を米兵に預け、米兵が持っていた懐中電灯を借り「長男もそこまで来ているから、連れてくる」と、再び入り口に戻った。しかし、1個の電灯では何の役にも立たず、さらにもう1個の電灯を借りて入ろうとしたが、猛煙は知花さんが中に入るのを拒んだ。「あの時、もし中に入って出てこれなかったら、長女をどうするかと思い、あきらめるしかなかった」と言う。

 

 ガマの中でつまづいた時、だれかにつかまっていた手を離していたら、現在の知花さんも長女の良子さん(38)も3人の孫もいなかっただろう。

 

 知花さんは夫も沖縄戦でなくした。失意の中から立ち直り、6年後、33歳で現在の夫・平次郎さん(87)と再婚、2人の子をもうけた。3000坪ものキビ畑を自分1人でみる知花さんは「生き残った者は、死んだ人の分まで頑張らんと、生き残った意味がない」と言う。「当時のことは当時のこと。過ぎ去ったことをくよくよしても始まらない」とも。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月7日掲載

 

事実を後世に伝承 ~ 中学生が劇化し発表

 チビチリガマの本格的な遺骨収集、慰霊はまだ緒についたばかりだ。東京在住の絵本作家・下嶋哲朗さんが八重山でほかの取材をしている折に、波平出身の人たちから集団自決の話を聞き、現地で調査活動を始めたことで、その機運が高まった。7日に行われたガマの調査には下嶋さんに、波平出身の新垣秀吉県議、知花治雄、比嘉義雄両村議、陶芸家の大嶺実清さんらも同行した。調査後、ガマを何らかの形で保存、自決の事実を後世に残すことが確認された。

 

 集団自決の事実は一部の人を除いて、風化する気配すらあった。遺族の口は重く、堅く、波平の人たちのなかでさえ、そのことを知らない人も多かった。悪夢のような出来事で一瞬のうちに家族を失った遺族の口が重くなるのは当然のことだった。

 

 波平の老人クラブ会長、比嘉真吉さん(66)もその一人。比嘉さんは当時、満州にいてガマでは、両親、弟3人、妹2人を失っている。「酒を飲んで意地を出してやったと聞いている。あのころは自分も軍人だったので、むしろよくやってくれたと思っていた。しかし、ここにおれば、何か相談ができたかもしれない。今さら悔やんでも仕方がないが」と話す。

 

 また、当時別のガマにいて、母親と妹4人、祖母を失った天久昭源さん(当時14歳)も「私は警防団員で他の団員と行動をともにしていた。昼中はシムクガマ(チビチリガマよりかなり大きく、ここに避難した約1000人の人たちはほとんど無事だった)で待機して、夜になると夕ご飯を食べるためにチビチリガマに戻っていた。自決のことは親類の人から聞いたが、あまり思い出したくない」と、話したがらない。

 

 こうした遺族の心情から、チビチリガマの悲劇が語り継がれることがなかったのはむしろ、当然のこと。しかし、39年という時の流れが、徐々にではあるが遺族の心を変えつつあるのは確かと言える。当時、まだ生を受けてなかった子どもたちが、チビチリガマの悲劇を後世に伝え、「平和の尊さ」「人命の重さ」を考えようと、学園祭で劇にした。

 

 読谷中3年1組(伊波宏俊教諭)の与那覇育也君がチビチリの孫だったことがきっかけだ。チビチリで生き残った母親から集団自決のことを聞き、劇化を決め制作委員が遺族から直接、取材した。子どもたちのこうした動きに堅かった遺族の口もほぐれてきた。与那覇君らはガマにも入った。

 

 こうして、チビチリガマの悲劇は昨年12月3、4日の学園祭で部隊発表された。参観した多くのお年寄りは無論、若い親たちも劇が終わったあと、しばらく席を立てず、ハンカチで目を押さえる光景が会場のいたる所でみられた。

 

 劇のチラシにはこう書かれていた。「いかに正しい情報が大事か、世の中を正しく判断することが大切であるかを(チビチリガマは)教えてはいないだろうか」。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月8日掲載

 

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