琉球新報『戦禍を掘る』 1人で始めた収骨作業 球部隊第14170独立歩兵273大隊

琉球新報『戦禍を掘る』 1人で始めた収骨作業

身銭切り毎年訪沖 ~ 兵庫県の高津さん 生存者の義務痛感

 厚生省沖縄戦没者遺骨収集団の作業が進む伊江島。初日の14日と15日の両日、自衛隊や作業員に混じって丹念に土をすき起こしている旧日本兵がいた。「戦後39年も経た今となっても、まだ暗い土の中に残されている戦友のことを思うと」と毎年、この時期に来県、かつての激戦地で収骨を続ける高津彦三郎さん(72)=兵庫県神戸市=がその人である。

 

 高津さんが沖縄戦当時、所属していたのは球部隊第14170独立歩兵273大隊。宜野湾市嘉数の台地。現在、「京都の塔」の建つあたりを守備し米軍の上陸を迎えた。以後激しい戦闘を継続、南風原町津嘉山、具志頭村と転戦したところで沖縄戦が終わった。同大隊で生き延びたのは972人中わずかに37人にすぎなかったという。

 

 27年にも及ぶアメリカ統治後、昭和47年に沖縄が返還され、高津さんは翌年、戦後初めて沖縄を訪ねた。南部の戦跡地を中心に各慰霊碑を参拝した時、「いたる所から今でも遺骨が出る」ことを聞き知った。「あの戦争で生き残った者の義務として、遺骨だけは掘り出したい。遺族に喜んでほしい」と考えた高津さんは、以来、身銭を切って毎年足を運び続けてきた。

 

 当初は一人っきりの“収骨団”だったが、今では仲間も増えた。東京を中心に沖縄戦の生存者で結成している「那覇の会」の戦友らが高津さんに共鳴。高津さんの同会入会後の55年からは、水町平吉さん(65)=横浜市在、中村清さん(60)=東京都在、石原正一郎さん(69)=同、それに現地応召し、高津さんと知り合った沖縄市の仲本潤宏さんらが加わった。今年は7日に来沖。折から始まった金光教の収骨団に合流し、12、13の両日、糸満市でおよそ50柱を拾い集めてもいる。14日からは伊江島の厚生省の作業に加わった。

 

 パワーショベルでドンドン土砂が掘られていく作業を見守り、土をくま手でかき分けて骨のかけらでも集めようとする高津さん。収骨を始めた当初は「山野に分け入れば、どこでも拾えた。手堀りでさえ何体分もの遺骨が出てきたのに」と話すが、証言者の記憶も薄らぎ、作業の困難な壕にしかもう遺骨は眠っていないのだろうか。

 

 「いずれは機械力に頼らなければ、集めることはできなくなると思ってはいたが―」と語る高津さんだが、「元気なうちは来続けたい」と言う。「神戸の周りの人がいつもいうのですよ。いつもこの時期になるとどこに行くんですかって。いつも来年はどうするか―と思いながらも2月になると戦友が呼んでいるような気がして、きてしまっているんですね」

 

 高津さんはこれまで12年連続して来沖。最初に戦闘を交えた宜野湾市嘉数や南部の各地15カ所で、収骨作業を行ってきたが、「参けいを欠かさないところがいくつかある」という。「京都の塔」「魂魄之塔」「悲風の丘(南風原町陸軍病院壕跡)」などだが、「白梅之塔」もその一つ。忘れようとしても忘れられない一女学生との思い出があった―と話す。

 

 「当時、17、8歳だったか、比嘉さんという第二高女の学生が看護婦をしてました。戦闘に出る前、食糧の入った雑のうを預けたのだが、2週間ほどして同僚がその子に会い、持ち帰ってきてくれた。あの食糧に乏しかったころにですよ。食べもしないで、私を捜してくれた比嘉さんの優しい心根が忘れられなくてね。生きておれば合いたい―と県の資料を探したけれども白梅部隊に3人いた比嘉姓の子は3人とも戦死していたんです」「忘れもしません、ホタテ貝の缶詰でした」と話す時、高津さんの口もとはほほ笑んだ。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月27日掲載

 

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