「戦時下の郵便局」 ~ 琉球新報『戦禍を掘る』

 

戦前の那覇郵便局

那覇郵便局 那覇/久米

那覇市歴史資料室収集写真

 

「戦時下の郵便局」 ~ 琉球新報『戦禍を掘る』

国策で簡易保険奨励 ~ 証書類ほとんど灰に

 沖縄戦では、あらゆるものが灰燼(かいじん)に帰した。郵便事業も例外ではない。73年にわたって築き上げられた事業が、わずか数カ月の戦火で、無と化した。特に、昭和19年10月10日の大空襲では那覇郵便局をはじめ那覇市内の各郵便局が焼失した。

 

 当時、那覇郵便局(犬塚延雄局長、現在の沖縄郵政管理事務所在)に勤務していた大城清さん(70)=那覇市上間=が、その時の様子を語る。「朝7時ごろでしたか、自宅で空襲を知りまして、急いで局に行きました。爆風で局内はメチャクチャ、書類は飛び散り、散々たる光景でした」

 

 大城さんは昭和8年、通信事務員として那覇郵便局に入局し、18年には、貯蓄業務に携わった。各集落を回り、簡易保険や郵便貯金を奨励した。

 

 「あのころは国策として、国民の財産を軍事費に吸収しており、集落ごとに割り当てがありました。隣保制(隣組)が強化されていたので、一軒一軒訪ね歩くのではなく、一個所に集まってもらい、説明をしました。みなさん、とても協力的でした」

 

 「もちろん、当時は“一億火の玉”と叫んでいた時代ですから、当然なのでしょうが、それでも、カメに貯えていた老人がしわのよったお札を差し出した時は涙が出ました」。保険証書も、こんなになりました、と手を広げた。「保険とは名ばかりで、いわば財産没収ですが、戦争に勝つためなら、と協力してくれました。もちろん証書はほとんど灰になりました」

 

 仕事は早朝から深夜に及んだ。特に、上局(熊本通信局)書記の那覇郵便局勤務となってからは、沖縄本島の全郵便局の状況を随時、上局に報告しなければならず、仕事は多忙を極めた。

 

 10・10空襲当日、急いで局に行った大城さんだったが、手のつけようのない局内と激しさを増す空襲で、局長から自宅待機の命令が出たため、自宅に戻った。「私たちが帰るころは、それほどでもなかったのですが、私の後に帰った人が言うには『辺りは火の海、焼け野原に山形屋や円山号の二大デパートの残がいが立っているだけ』だったそうです。数日して、再び局に行ったのですが、局舎は焼失、那覇市内は廃虚の街になっていました」

 

 空襲以後の郵便業務は牧志の一民家、嘉数清嗣さん(89)=那覇市牧志町=宅を借りて行われた。局員は14、5人で、犬塚局長や幹部職の部屋もあったという。そばには憲兵の官舎も設けられた。嘉数さんは語る。

 

 「憲兵は2人いた。手紙はみんな開封して、検閲していた。防ちょうですよ。あやしいのを見つけると、出した人と受け取る人を呼んで、憲兵本部で取り調べ。本部は今の沖映の所にあったよ」

 

 琉球郵政事業史によると、電報の検閲は昭和17年7月那覇郵便局に小禄海軍通信隊派遣の通信武官が常駐して実施、郵便物の検閲は19年に入って行われた、とされる。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年4月16日掲載

 

解散で富里で避難 ~ 岩かげで40日ほど過ごす

 沖縄戦の直前、県内には普通局が3、特定局が90あった。そのほとんどが全焼や全壊し、本島で被災をまぬがれたのは宜野座局1局だった。

 

 10・10空襲以後、一層戦火は激しくなり、空襲は頻繁となった。昭和20年、臨時郵便局となった嘉数宅の庭先で行われた新年遙拝式には局長はじめ、局員が参列した。「その最中でした。空襲警報が鳴って、大さわぎになったのは」と大城さん、2月には首里山川の民家に局は移ったが、そのころには、業務はほとんど行われず、数日して那覇郵便局は解散となった。

 

 4月20日、大城さん一族(30人ほど)は玉城村富里に避難した。その途中、無数にころがるしかばねを見た。「一日橋の近くですよ。日本兵の死体が辺り一面にあり、恐ろしい光景でした。当時は、橋がよく狙われました。南部にいる兵が攻防の激しい浦添首里に行くには一日橋や真玉橋を通りますから。その通行路を遮断するためにも、橋が狙いだったのでしょう」

 

 富里では、岩山の岩かげで40日間ほど過ごし、その後、喜屋武に向かった。「富里の岩かげでは、何度か日本兵2、3人がやってきて、『この穴は軍が使用するので、出て行け』と有無を言わさず、追い出されました。私たちだけではなく、ほかの家族らも追い出されたようです。真っ昼間、敵機の銃撃を受け、死んだ人もいました」

 

 喜屋武へ行く途中は大雨。ぬかるみの道で大城さんは死体を踏んだ。

 「あの感触は今でも忘れられません。『助けて』『水をくれ』と叫ぶ兵は何人もいましたが、だれも手を出しません。みんな自分が生きるだけで精いっぱいの時代ですから仕方ありませんが、何ともやりきれない気持ちになりました」

 

 6月20日には喜屋武で捕虜にとられ、豊見城村の伊良波収容所へ。

 

 「よくあの戦火の中で生きのびたと思います。最初は、一日でも長く生きたいと思ってましたが、喜屋武では、だれか一人でも生き抜いて、だれがどこで死んだかを確認してほしい、戦が終わった時、このようすを伝える役目の人を選ばねば、と考えてました」。一族の中で亡くなったのは、2人。「運が良かったんですね」と大城さんはつぶやく。

 

 8月15日、南部ではまだ戦の激しかったころ、石川市では各収容所の代表128人が集まり、第1回仮沖縄諮詢委員会が開かれた。その時、代表者らから出された要望には、離ればなれになった家族の安否を確かめたい、との声があった。同月29日には、正式の諮詢委員会が発足、同時に通信部も設置、無料で、しかも安否照会の内容に限られた形で、9月4日、戦後の郵便業務が開始された。終戦からわずか20日目だった。

 

 そのころ石川の収容所にいた大城さんは、戦前郵便局員の経験があったため、通信部の職員採用第1号となり、9月10日から、中央郵便取扱所で勤務した。

 

 同取扱所で取り扱う郵便物は1日に300通から400通、11月になると4000通にも膨れ上がった。「手を合わせて拝むようにしてお礼を言う人もいるほど喜ばれました」と大城さん。狂喜の中での再スタートとなった。

 

 沖縄戦では郵便施設だけでなく、多くの職員が亡くなった。糸満市摩文仁の「逓魂之塔」には、505柱が合祀(ごうし)されている。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年4月17日掲載

 

参考

沖縄郵政資料センター|ご利用案内|郵政博物館 Postal Museum Japan

 

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