1944年11月 第9師団(武部隊)の転出

 

決戦から出血持久戦へ 立ちこめる戦雲

 「米軍上陸なんて予想もしなかった。しかし、昭和19年3月に日本軍が駐屯し、たたならぬ雰囲気だなあと感じていた。疎開の話が出てからは大変でした」

 当時、沖縄県師範学校2年だった高良吉雄さん(64)は戦争に突入しようとする沖縄をこう語る。

 のどかな沖縄にも暗い戦雲は立ちこめていた。1944年5月から連日2000人以上の県民が動員され各地の飛行場建設が始まった。老若男女、小学生まで駆りだされた。44年8月には、学童疎開船・対馬丸が米潜水艦の魚雷を受け沈没。10・10空襲で那覇は焦土と化した。

 10・10空襲の当日、出身地の本部町備瀬に帰省していた高良さんは2日悟、日本軍のトラックで那覇へ戻り、灰じんのの街を歩いた。「人の焼けたにおいとか、異様なにおいに悩まされながら首里まで帰りましたよ。危機が迫っていると感じましたね」

 沖縄守備軍の第32軍が創設されたのは44年3月22日。42年6月にミッドウェー回戦で大敗したのを契機に戦局が悪化し、南西諸島の防衛は急務となっていた。沖縄戦突入時の第32軍司令官は牛島満中将。37年12月の南京攻略にかかわった経歴がある。

 参謀長は長勇少将(45年3月に中将)。豪傑肌で奇行に富み、多くのエピソードを残している。

 続々と到着する部隊。突然、決戦準備を進めていた第32軍を震撼させる出来事が起きた。11月に精鋭といわれた第9師団(武部隊)が台湾に転用されることになったのだ。軍の落胆は大きく、絶望的な雰囲気に包まれた。

 

 読谷村座喜味出身の照屋正吉さん(66)は44年10月、第9師団に入隊し、首里で訓練を繰り返していた。「12月27日、突然夜中に起こされた。隊列を作って那覇港に向かい輸送船に乗った。行く先は教えられなかった」

 

 台湾で壕掘りの毎日を送っているうち照屋さんは米軍の沖縄上陸を知る。「中隊で沖縄出身者が集められ酒を飲みましたよ。沖縄の人間で船を出して応援しようと思ったが、出られないんですよ。武部隊は台湾に避難しに行ったみたいなものだ」と当時を振り返る。

 

 第9師団を失ったことで32軍の作戦は根底から覆される。決戦主義から出血持久戦へ―

 

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