5月25日 ~「沖縄新報」の運命 ~ 壕内新聞 (琉球新報・首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕)

 

「沖縄新報」とは

沖縄戦直前の緊迫した情況を伝える沖縄新報の記事 : 那覇市歴史博物館

1930年代に入り、政府・軍部の台頭とともに言論が圧迫されるようになり、沖縄の新聞も毎日のように特高課を通して記事の差し止めを受けていました。1937年(昭和12)の日中戦争開始以後1945年(昭和20)の敗戦までの間は、政府・軍部の統制下におかれるとともに、取り締まりを容易に行うことを目的として全国的に新聞社の統廃合が進められました。沖縄では1940年(昭和15)12月、『沖縄朝日新聞』『沖縄日報』『琉球新報』が『沖縄新報』に統合されました。 

琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ | 近代沖縄と新聞

新聞は、第32軍司令部壕に隣接する壕で、そこから外に出ることなく軍からの情報を活字にした。

『沖縄新報』は、1945年(昭和20)4月1日の米軍の沖縄島上陸後も首里城内の留魂壕隣りの壕で「砲煙弾雨をくぐって」発刊が続けられました。

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「壕内新聞」 ~ 琉球新報首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕

わすかな明かり頼りに印刷 ~ 弾の降る中、命懸けの取材

 沖縄戦の最中、沖縄新報は住民にとって数少ない情報源の一つだった。沖縄新報は1940年(昭和15年)12月末に創刊され、沖縄戦突入後の45年5月末まで発行された。最後の2カ月は壕内での発行だった。創刊から5年半足らずの短い生命。県民と共に戦争にのめり込み、戦火の中、多くの犠牲者と共に消えた。

 

 壕内で発行を始めたのは45年3月下旬。鉄血勤皇師範隊の造った留魂壕の左端を師範学校に提供してもらった。当時の記者だった大山一雄さん(78)は「高嶺さん(沖縄新報社長・高嶺朝光氏)たちが師範側と相談なさって、入れてもらったんでしょうね。ありがたいことだと思います」と、今でも感謝の念を忘れない。

 

 うっそうと茂るアカギの大木。壕入り口を守る堅固な岩盤。大山さんの同僚、牧港篤三さん(80)は留魂壕を見て「この壕ならカンポー(艦砲射撃)がきても大丈夫だ」と思ったという。

 

 狭い壕内に活字ケース、印刷機が並び、30人の社員とその家族が寝起きした。印刷機は大量印刷ができる輪転機ではなく、足踏み式の平板印刷機。豆電球とろうそくのほのかな明かりを頼りに活字を並べ、印刷機にかける。時折、壕内を襲う爆風はろうそくの火を消し、活字ケースをひっくり返した。

 

 戦火を駆けめぐる記者は命懸けだった。大山さんは繁多川にある那覇警察署の壕、識名の県庁の壕を担当した。警察は住民の動向を知るための重要な取材先だった。「金城町の石畳をいっさんに駆け下り、弾の降る中、走って走って。壕を出るときから命は無いものと思っていた」

 

 第32軍司令部の担当だった牧港さんは、軍情報部報道班員でもあった。朝6時ごろ、朝食のため米軍の攻撃が収まるころ、留魂壕から司令部壕に向かう。「石垣が全部崩落していて、石垣の間に足がはまり込み前に進めない。あくせくしてようやく司令部壕にたどり着いた」という苦しい取材だった。

 

 米軍の艦砲射撃は容赦なく留魂壕を襲い、壕を隠していたアカギは一夜にして消え去った。壕入り口も爆撃で崩れた。「入り口の岩盤にカンポーが当たると辺りに変なにおいが漂った」と牧港さんは語る。後年、牧港さんは「死の石」という詩でこのことを表現している。

 

(32軍司令部壕取材班)1992年7月8日掲載

 

紙面で戦意を高揚 ~ 今も残る“戦犯意識”

 沖縄新報は1940年(昭和15年)12月20日、当時、沖縄で発刊されていた沖縄日報、沖縄朝日新聞琉球新報の3紙が県警察部の指導で統合し、創刊された。言論統制をもくろむ新聞統合は宮崎に次いで全国で2番目だった。それから約1年後、太平洋戦争がぼっ発する。銃後の戦意高揚は新聞の使命となった。

 

「玉砕「軍神」の創造

 43年2月、ガダルカナル島で戦死し「軍神」としてあがめられた与那国出身の大舛松市中尉*1 は、戦意をあおる格好の材料となった。沖縄新報や朝日、毎日の全国紙沖縄版も競って軍神大舛の人となりを掲載した。

 

 戦意高揚を担った紙面構成について、当時、朝日新聞沖縄支局員だった上間正諭さん(76)は「戦意を高揚させるような記事を書くことに、当時はいささかの疑問も感じていなかった部分があった」と振り返り、「戦争の中に入るとものが見えなくなる」と省みる。

 

 沖縄新報も同様だった。大山一雄さん(78)は「戦争になっても報道の任務を遂行するという記者魂があった。県民一致、戦意高揚のためにわれわれも頑張った」と言い、「戦争のお先棒を担いだという戦犯意識が今もある」と悔いる。

 

 戦意高揚の新聞は出すべきではなかった―牧港篤三さん(80)は言い切る。「発行を止めることはできたかもしれない。しかし、金縛りにあったみたいで、それができなかった」

 

 44年の10・10空襲で、十貫瀬にあった沖縄新報の輪転機が焼けたが、あらかじめ松尾に避難させていた輪転機で印刷を続けることができた。この日の、那覇の街から立ち昇る黒煙の向こうに沈む異様な夕日を上間さんは見ている。「この世の終わり」を思わせる光景だった。

 

台湾ではなく沖縄

 翌45年2月中旬、上間さんは軍司令部の薬丸兼教情報参謀から、硫黄島に侵攻した米軍が、台湾でなく沖縄を攻めつつあることを知らされる。「お互い覚悟を決めようということだったと思う。しかし、沖縄が全滅するという悲壮感はなかった」と上間さんは語る。

 

 そのころ、首里城地下では司令部壕建設が急ピッチで進められていた。

 

(第32軍司令部壕取材班)1992年7月9日掲載

 

 

戦果、美談、激励で埋まる ~ 新聞としての機能失う

 壕内で発行される沖縄新報を配るのは、警察、兵隊、大政翼賛会沖縄支部、そして鉄血勤皇師範隊の千早隊であった。配布されたのは、首里一帯や南部地域に限られた。

 

 米軍上陸後の沖縄新報で現存するものは4月19日付の1部のみ。「一万八千余を殺傷」の見出しが躍る。この新聞のコピーが大山一雄さん(78)の手元にある。

 

 「もう、戦果、戦果の記事だけですよ。それに、県庁や警察の壕に行けば『戦争美談』というのがあるし知事や警察部長のコメントは県民激励だけなんです」と大山さん。戦果、美談、激励で紙面は埋まっていたという。

 

 牧港篤三さん(80)は当時の紙面について「新聞としての機能は無くなっていた。戦争の中で新聞が生きるために、やむなくああいう形になった」と語る。

 

 戦況の悪化は壕内の人間を変えてしまう。兵士の士気が低下する中で、住民に敵対心をあらわにするものもいた。情報部の益永董(ただす)中尉もその一人だった。

 

 「最初のころは良かったが、後に『沖縄の住民はスパイ行為をしている。警察、新聞記者でもやってないとは言い切れない』と言うようになった」と上間正諭さん(76)は証言する。

 

 5月23日、大山さんは担当外の司令部壕にいた。壕内の様子が慌ただしい。気になる大山さんに顔見知りの兵はこっそり教えてくれた。「実は撤退ですよ」。

 

 そのころ情報部では益永中尉と新聞記者が押し問答をしていた。

 

 「何で僕らに知らせないんだ」「軍の機密だからだ」「協力させるだけさせといて、自分たちだけ逃げるのか」

 

 5月25日、沖縄新報の解散が決まり、活字を地面に埋め、社員は月夜のなか壕を脱出する。戦争という時代の要請で生まれた沖縄新報はこうして第32軍撤退の混乱の中、廃刊になった。

 

 それから約2カ月後、米軍の指導でウルマ新報(現在の琉球新報)が作られる。沖縄新報の壕に埋められていた活字を利用しての発行だった。

 

 戦後、那覇市の波上に「戦没新聞人の碑」が建てられた。沖縄新報の犠牲者12人の名が朝日新聞の宗貞利登、毎日新聞の下瀬豊の両名とともに記されている。

 

(第32軍司令部壕取材班)1992年7月10日掲載

 

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*1:1943年1月13日、ガダルカナル島で、部下14人とともに敵陣に突入、戦死する。