第32軍司令部壕 ~ 十・十空襲と前夜の宴会 ~ 琉球新報「首里城地下の沖縄戦」(1992年6月26日)

 

1944年10月10日 十・十空襲

 


首里城地下の沖縄戦 31軍司令部壕

空襲前夜に宴会 ~ 防衛の気概なし

 陸上自衛隊幹部学校の『32Aを中心とする日本軍の作戦』は32軍の作戦方針として「敵主力が我の放棄した中頭地区沿岸から上陸後南下する場合においては、首里北側地区の堅固な地形を利用して持久戦略をとる」ことを明かしている。

 

 何のための「持久戦」なのか。その目的は、できる限り沖縄で米軍を押しとどめて時間を稼ぎ、本土防衛態勢をつくるということにほかならない。沖縄は捨て石でしかなかったのだ。

 

 大本営によって精鋭の武部隊が台湾へ引き抜かれ、32軍にとっては「持久戦」しかなかったともいえる。天皇直属の統帥部である大本営にとって沖縄は、どうでもいい状況で、沖縄住民の命を守るということは二の次だった。32軍兵士の士気も沈滞していた。

 

 武部隊が台湾へ行く2カ月までの1944年(昭和19年)10月10日、空襲が那覇の街を焼いた。当時、首里第二国民学校1年だった堀川恭雄さん(54)は、その模様を首里城近くから見ていた。

 

 「グラマン首里城上空を旋回し、かなりの数が那覇の爆撃に向かっていた。操縦士の顔まで見えた。鉄砲で撃って当たる距離だったんだが…。兵隊は隠れて見ていた」。兵隊の中には間近の敵機に戦意を喪失している者もいたらしい。

 

 この日、那覇を中心に沖縄は朝7時ごろから夕方まで5回の空襲に見舞われた。米軍の記録によると、投入された航空機は1396機、投下された爆弾は541トン、ロケット弾652発。この猛烈な爆撃で那覇は90%が焼失。沖縄全域で住民と兵隊合わせて約600人が死亡、約900人がけがをした。

 

 球部隊獣医部に属し、牛島満司令官の馬の世話をしていた玉城正清さん(75)は10・10空襲の際、牛島司令官の漏らした言葉を覚えている。「いよいよ来たね」。あっさりしたものだった。

 

 沖縄守備隊第32軍司令部の最高責任者がこれだ。しかも、その前日の9日夜には「全軍の兵団長、独立団長らの招宴が(辻の)沖縄ホテルで賑(にぎ)やかに開催された。その宴会のあと、軍参謀全員で市内の料亭で2次会をやった」(八原博通著『沖縄決戦』)というのだ。

 

 沖縄防衛の気概は、そこに少しも感じられなかったという。

 

(32軍司令部壕取材班)1992年6月26日掲載

 

焦り、恐怖、絶望感漂う ~ 攻勢に出ては被害拡大

 1945年(昭和20年)4月1日、米軍は沖縄本島に上陸、南へと突き進む。32軍の将兵約8万6400人に対し、米軍第10軍は将兵23万8700人。縦横に展開する米軍に対し、32軍は洞くつ生活。焦り、恐怖、絶望感が漂った。

 

 攻勢を求める大本営や第10方面軍と、あくまで「持久戦」を主張した32軍との間で作戦をめぐって意見が対立。大本営などの意向をくんで起死回生をかけた攻勢に出ては被害が拡大、また持久戦に戻る―というような状況を繰り返した。

 

 鉄血勤皇隊員だった知念清さん(67)は言う。「何度か決戦作戦が決行されたが、劣勢はばん回できなかった。日本軍の特攻、夜襲など必死の反撃もむなしく、文字通りなすすべもなく、敗退に次ぐ敗退を余儀なくされた」

 

 5月4日、32軍は最大の反撃に打って出た。県出身将校としてただ一人32軍司令部にいた安谷屋謙さん(87)は「首里城の防衛線を死守するというのが方針で、反撃した時にはだいぶ楽観していた。しかし、実際には石部隊は八分通りやられ、山部隊はほとんど使えない状態だった」と言う。

 

 敗色濃厚な32軍は、作戦会議にも自然と緊迫感が漂い、野戦築城隊として壕掘りに従事していた沖縄師範学校の学生らにもそれはひしひしと伝わる。

 

 ある日、32軍司令部壕内の作戦室前の通路は左右20メートルが通行止めにされ、作戦会議が開かれていた。築城隊の作業監督で近くにいた宮城幸吉さん(81)は振り返る。

 

 「石部隊が壊滅状態になった時だから5月ごろ。朝10時ごろから夜の9時ごろまで会議は続いた。その後、夜10時ごろになってもう一つの作戦室で1人の大尉が大声で各部隊に電話で命令伝達しているのが聞こえた。『何部隊は安波茶へ』『何部隊が通過する橋は明日午前何時までに何部隊が修理しておくからその後に移動せよ』と、約40分にわたってわれわれにもはっきり聞こえる声だった」

 

 米軍にどんどん追い詰められ、窮地に立たされた32軍の姿が垣間見える。

 

(32軍司令部壕取材班)1992年6月27日掲載

 

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