第32軍 (沖縄守備隊) ~ 首里の攻防ライン
首里の攻防: 沖縄守備隊第32軍は持久戦のための反斜面陣地で防御を固めていた。
反斜面陣地 (Reverse Slope Defense) とは
米軍を苦しめ激戦地となった反斜面陣地は、簡単に言うと、丘陵の反対側に陣地を築く。低地を通過、あるいは丘陵を登って前進してくる敵は、常にこちらの陣地が見えない。こちらからは常に敵の動きが見える。攻撃されても、壕に隠れることができる。
Caves in the Pacific War Optional Playtest Rules for Battlefront WWII by Bill Slavin From “The Second World War: Asia and the Pacific” by John H. Bradley, Thomas E. Griess, Jack W. Dice に日本語など加筆したもの。
沖縄の作戦参謀 八原博通は、沖縄中部の波打つような地形を利用し、戦略的に三線の反斜面陣地を構築した。無血上陸で米軍を引き入れ、これらの地上戦で持久戦に持ち込んだ。後方支援の乏しい沖縄守備隊にとって、陣地構築に住民の徴用と供出は不可欠であったため、住民を最大限利用したが、戦争が始まれば住民は足手まといとして壕から追い出しをかけられたため、多くの住民が命を奪われた。
浦添の住民は陣地づくりの作業にかり出されたり、弾薬を運ぶ役目を負わされたりと日本軍兵士の手伝いを強制的にさせられました。また、すんでいた屋敷を兵士に無理やり追い出されることもあり、その結果、多くの住民が逃げ場を失い命をおとしました。当時浦添の人口は約9,200人でしたが、そのうち戦争で亡くなった人は4,112人で実に44.6%の住民が犠牲になりました。
首里の攻防ライン
首里の攻防には三重に敷いた陣地ラインがあった。
沖縄戦のヤマは首里の攻防であった。この戦いには3つの線があった。
第1線は宇地泊ー牧港ー嘉数ー我如古ー南上原ー和宇慶の線だ。いまの宜野湾市が中心である。1945年4月8日ごろから24日ごろまでの主戦場。
第2線は城間ー屋富祖ー安波茶ー仲間ー前田ー幸地の線だ。4月24日ごろから5月5日ごろまで激戦が続いた。
第3線は安里の北ー沢岻ー大名ー石嶺ー弁ケ岳ー運玉森ー我謝の線だ。那覇、首里両市が中心をしめる(戦後、両市は合併した)。首里城の第32司令部を直接守る戦線だ。5月5日ごろから司令部が撤退する27日ごろまで。
《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 83頁より》
首里の攻防 第1線: 宇地泊ー牧港ー嘉数ー我如古ー南上原ー和宇慶
首里の攻防 第2線: 城間ー屋富祖ー安波茶ー仲間ー前田ー幸地
1945年4月24日頃から5月5日頃までの主戦場。
首里の攻防 第3線: 安里の北ー沢岻ー大名ー石嶺ー弁ケ岳ー運玉森ー我謝
1945年5月5日頃から司令部が撤退する27日頃までの主戦場。
首里陥落
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■