引き揚げ者の村・住民の半数は南洋帰り
与那城村の平田集落 サイパンでは一家全滅のケースも
「ウワイスーコー(終わり焼香)は済んだが、生きている限り未練が残る」と、サイパンからの引き揚げ者の1人、長堂チヨさん(83)は、涙をふいた。
チヨさんの住む与那城村屋慶名の平田集落は、住民の半数近くがサイパン、テニアンの南洋群島からの引き揚げ者で、“南洋群落”とも呼ばれている。サイパンでは一家全滅したケースも多い。
チヨさんも3人の子供を失った。夫の京大の家族を含めると14人が死亡した。夫の弟の家族4人は避難していた壕の中で全滅した。
長男・正善さん(当時18歳)は、兵隊と見誤られ、撃たれたという。チヨさんの夫・松次郎さん(明治38年生、4年前に死去)は、収容所の中で、身内の死亡者のリストを克明に記しているが、長男の死亡は信じられなかったらしく、戦後1949年11月になってようやく葬式し、3年忌まで行ったと記録している。
松次郎さんがサイパンへ渡ったのは大正11年。南洋興発の従業員募集に応じた。機関車の仕事などに従事、後に長兄、弟2人がサイパンへ渡った。
チヨさんと結婚したのは昭和2年。チヨさんは生後3カ月の正善さんを連れ、義母のマシさんを伴ってサイパンへ渡航した。長堂家が母を呼び寄せたのはサイパンでの永住を決意したからである。
「サイパンはいい所、食べ物に不自由なく、生活はしやすかった。戦争がなかったら…」とチヨさんは語る。
米軍上陸前の昭和19年6月10日から、長堂家は避難を始めるが、食料、衣類の準備はなく、約1カ月半後、米軍に捕まるまで悲惨な逃避行を体験した。
「照明弾が上がると、艦砲が来た。弾に当たって死ぬことを願った」ことも。水を欲しがる子供に松次郎さんは小便を与えたほど。
兵隊による住民への脅迫も目撃、一家自決する現場も。
松次郎さんは戦後も残留することにし、慰霊塔を造っている。しかし、命令で引き揚げ、昭和22年7月、最後の引き揚げ船で久場崎に着いた。松次郎さんは沖縄の風習に従い、サイパンで亡くなった身内25人(戦争以外の死者も含む)の「ヌジファ」(魂を移すこと)をした。遺骨がない者は石を持って帰った。
戦後の新たな苦難の始まりでもあった。
(「玉砕の島々」取材班)1993年5月23日掲載
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