『座間味村史下巻』(1989年) 「米軍と住民のパイプ役」

 


座間味村編集委員会座間味村史下巻』(1989年)

米軍と住民のパイプ役 ~ 戦時下の父・繁信を語る―

知念繁夫(知念当時十五歳)

 

那覇での十・十空襲

昭和十九年七月七日のサイパン玉砕のニュースに接した時、我が家は悲嘆の重苦しい空気に包まれていた。繁兄夫妻が、学校教員として、二年前にサイパンに渡っており、その安否を気づかっていたからだ。それから数日政府外務省の係官二人がやってきて、正式に繁兄夫妻の死亡通知書を父に渡した。小さな机を白い布で覆い、仮の祭壇を急造し、位牌を立て、線香を捧げた。線香の煙が立ち込める我が家は、朝から夜まで、連日母の泣き声や恨みがましい独り言が絶えることがなかった。父が泣く姿もはじめてみた。

 

ところで、やがて気を取り直した母は、長男夫妻が死んでしまったということにはどうしても納得が行かず、その頃からユタ・サンジンソウ(三世相易者)に通うようになった。その結果、「死んでない人をどうして弔う必要があるか」と、母は祭壇を取っ払い、位牌も人目のつかぬ所へ片づけてしまった。ところが、このことが、父と母のいさかいの種となってしまったのである。父としては、母のいうユタのお告げと、また、「軍人でないのに死ぬはずがない」という言い分に対して、「軍人でなくとも、国威昂揚に尽力した教員である。生きて囚の辱めを受けず。の精神を持っている日本人だ。最早、生きているはずがない」ということだった。しかし、封建的で、典型的な亭主関白の父も、我が子を想う妻の狂気にも似た仕草と剣幕に対しては取りつく島もなく、ついには、母の振る舞いを黙認していたようである。

 

当時の私の家族は、那覇東町に居を構え、両親、次男の繁美姉の利四男の私、五男の後、繁友に改名)の六人であった。

 

十・十空襲

十月十日、あの昔懐かしい那覇の街が全焼するという運命の日がきた。朝食を済ませたところで、通堂の大阪商船ビルの屋上にある高射機関銃が鳴りだした。二階の屋根に登り、勇ましい我が軍の大演習見物と心を躍らせてゆうゆうと飛行する大編隊をみたら、翼や胴体にあるマークは、何とアメリカの星印ではないか。これは日本軍の演習ではなく、アメリカ軍による本物の空襲だと気付いた。空襲は、午前六時半の第一波から午後六時の第六波まで、米機にされるにまかせていたが、その間、空襲が中断していた正午頃、市街地は危険であるという情報で、郊外の松尾(現在の浮島通り)あたりに逃れた。午後からの空襲には、小さな橋の下にもぐり込んで、爆や機銃掃射からの難を避けていた。

 

艦載機が飛来してくるということは、沖縄本島のすぐ近くにまで、米機動艦隊が迫ってきていることを意味している。米軍上陸の恐れありと判断した軍や県の首脳部は、焼け出された那覇市民に対し、その日の夕方、即時国頭あたりに避難すべしと示達した。しかし、避難するにも、繁美兄の行方がわからない。当時繁美兄は、三井物産那覇出張所に勤めており、代理責任者として常時会社の宿直部屋で寝泊まりしなければならないという立場から、当日の避難場所が別れ別れになってしまった。緊急避難となれば、繁美兄を探す時間もない。家族五人は、美兄の安否を気づかいながら、燃えさかる那覇の街の火炎が赤々と焦がしているその明かりに照らされて、道を歩きだした。

 

国頭に行くにしても、なるべく海岸から遠くはなれた道を通るようにとの指示もあったので、松尾から壺屋への道を通り抜け、首里に上った。夜の闇の中を移動する避難民の大きな群れは、切れ目のない大河となって、普天間街道を北へ北へと流れていった。夜明け前、普天間のお宮に着き、その後、中城村の安谷屋に座間味のミーフメーの「しらがーおばあ」の知り合いが居るとのことで、およそ一ヵ月、お世話になった。その間、父は繁美兄をさがすため、家族はみんな無事で安谷屋にいる、という内容のチラシをつくり、首里、宜野浦添と、精力的に張りつけていった。また、兄は兄で、父とは逆の方向を探し回っていたらしい。空襲の日から二日後、普天間宮近くの松の木の根元に腰をおろして休んでいる人の前を通り過ぎようとしたとき、「あれ」と思って振り向いたら、その人が父だったわけである。
 

座間味へ引き上げ

私の家族はその後、那覇市街地でも延焼を免れた上泉の湧田地蔵堂の近くの家に移り住むことができたが、十二月下旬、上泉の仮住まいを引き払って、古巣の座間味に帰っていった。


島に来て、父がなによりもまっ先にとりかかった仕事は、家族みんなが避難できる防空壕を、山腹に掘ることであった。ムトゥヌンルチ小の宮平源吉さんの助けも借りて、田圃に面したシンジュの丘に、入口を北東向きにして壕を掘った。十日ほどかかっては完成し、父はにもどることになった。当時、父は、県立水産学校練習船海邦丸の機関長の職にあったものの、海邦丸が十・十空襲によって沈没し、学校も教育機関としての機能が全く麻痺状態にあったが、学校そのものが解散したわけではなく、父は一応出動しなければならなかったからだ。それに、私たち家族は、丸裸同然に島に来たため、農作物がなく、那覇で食糧を調達して島に送ってもらわなければならなかった。

 

ただ、その頃の座間味島は、海上特攻の秘密基地になっていたため、本島との往来には厳しい規制があって、すべて軍の許可を必要としていた。そんな中で、父は水産学校の職員という関係で、二回ほど許可されて往来できたようである。


翌二〇年二月、繁美兄に現地召集の令状が来た。ところが父は、長男の兄がサイパンで亡くなり、海軍航空兵に志願していった三男の一も生き残れる可能性はないからと、せめて次男の美だけでも本土に逃がして、「知念の血」を絶やさないようにしようと考えていた。つまり、繁美の召集解除をしてもらうよう、全精力を注入し、関係当局にあたることになったのである。結果的には、高江洲勲中尉(ウザンチメー・旧仲村渠盛栄)の尽力によって、三月一日、無事輸送船に乗り込むことができ、鹿児島にたどり着いたが、その詳しい経過については、紙面の都合で割愛したい。

 

兄が出発して間もなく、利姉が二高女の卒業見込証明書をもらって、座間味の家族のもとに帰ってきた。座間味出身の中学生(旧制)たちも、本島で下宿しなが学業どころではなかったので、続々、島にもどってきたが、中学三年生以上は、直ちに学徒兵として現地召集された。二年生以下の三人中村尚弘(旧小嶺茂水産学校)、中村清信(一中)、そして私(商工)は本部付通信隊に、軍属の身分で編入された。

 

国家存亡の危急のとき、何かの役に立たなければという意気込みから、軍への動員は当然の義務であると喜び勇んでいたが、それよりも増してうれしかったことは、軍の食事が玄米であっても、三度、三度、腹一杯食べられるという待遇であった。
 

米軍の捕虜になる

3月23日、艦載機グラマンによって座間味島が空襲に見舞われてしまった。これまでの海上船舶のみの攻撃と違って、民家にもロケット爆弾、焼夷弾、機銃掃射等、長時間にわたって、しつこく、繰り返し加えられるようになった。その日の徹底的な空襲で、我が家もロケット弾を受けて半壊してしまい、寝泊まりは松本の家族(叔母の八重、次男の忠芳、妹の栄子、それに石川好子姉とその長女のみちこ長男の勝彦次女宏子)とともに、シンジュに掘った壕の中でやらねばならぬ羽目となった。翌二四日も朝から空襲であった。私は米機の飛来が中断している間に軍本部に出頭しようとしたが、村役場内に設置していた本部は、すでに山中のに移動していた。その翌日、私はいったん、家に顔を出し、それから山中の本部の壕に出かけようとしたとき、上陸前ぶれの艦砲射撃がはじまった。島の山々のすべてが燃えている。

 

夜になると、その火炎は、まさに落城せんとする天守閣の上にも似て、いよいよ、悲痛な思いと死への恐怖を、いやがうえにも増大させた。

 

米軍上陸は必至となった。島の山奥深く避難してかくれようかという話になったが、「こんなちっぽけな島では、いくら逃げかくれしたってどうしようもない」ということで、自分たちの壕に留まることにした。

 

二六日、あれほど激しかった空爆や艦砲射撃が止み、時々、豆を炒るようなのどかな(?)機関銃の音が山中から響いてくるのをの中で聞いた。その音がびたりと止んで、しばらくすると、の下の田圃から、「OK」とか、何か合図をする口笛がしきりに聞こえてきた。息をひそめての外の様子に耳をそばだてていると、「デテコーイ、アテコーイ、シンバイスルナ」という、妙な発音の声が聞こえる。すぐにアメリカ兵だとわかった。そこの瞬間、ショックからと言おうか、あるいは「意識の空白」というのか、「死ぬ、殺される」という恐怖は、不思議とおこらなかった。

 

母がまっ先に、「ウリサイ」という掛け声とともにから飛び出したのに続いて、私も急いで飛び出した。母が大変な目にあってはいけないと思い、母をかばうために飛び出したのである。米兵の指図に従って村役場まで連れてこられたが、途中、壕に置き去られた足腰の弱ったおばあさんを、米兵が抱きかかえて運んだり、傷の手当てをしているのを見て、私は、米兵は住民を殺すようなことはしまいと判断するようになった。

 

村役場の建物は、爆風、砲弾の破片等による破損はあったものの、直撃弾は受けていなかったので、一週間ほど、難民の宿舎、負傷者の病院代わりとして用いられた。翌日の二七日、大翁長の宮里光明生親子が阿嘉の浜で捕虜になったとかで、米兵によって村役場に連れてこられた。その二人が、「知念のおじさんも一緒でしたよ。学校の先生をしていたというので、軍艦に連れて行かれましたが、大丈夫ですよ。じきにここに連れて来られますよ。」と、父の消息を知らせてくれたのである。夢のようなうれしいニュースであった。

 

どうして、父と大翁長の親子が一緒であったのか、どうも不可思議でならなかったが、話によれば、芳生君の沖縄師範学校への受験のために本島に行き、そのまま戦火に巻き込まれてしまったものの、たまたま那覇に来ていたマーレーラの宮平正春さんのおかげで、私の父も一緒に、無事帰ってきたというのである。それも、正春さんが、偶然、那覇の街中をふらふら歩いている父を見つけたことがきっかけであった。偶然というより、幸運にも、あるいは、奇跡的にという表現の方が正しいだろう。そのいきさつについては、宮平正春さんの体験に詳しく述べられているので、お読みいただきたい。
 

父・知念繁信の証言

反抗したため体毛を剃られる

阿嘉の浜で捕虜となり、大翁長の親子と引き離された父は、ひとり米艦船に連れていかれ、その日一日、船倉に閉じ込められたままであったという。以下、父から聞話を綴ってみよう。

 

阿嘉の浜から艦船までの間、上陸用舟艇から見た座間味は、想像を絶するほどの変わりようであった。山は崩れ、地形も壊れ、砕ける様を見て、自分の家族はもちろん、村の人たちや日本軍さえ、誰一人生き残ってはいまいと思い、いよいよ死への気持ちを強くしていくばかり

 

翌日尋問しようとする米兵たちの前に父は引き出された。父が本島から渡って来たということで、米兵たちは本島の日本軍の状況についてあれこれ質問するのだが、父はそれらの質問には答えず、「君たちがここまで来れたのは、君たちが強いからではない。それは日本軍の作戦なんだ。君たちをここに引き込んで、日本の全軍の総力をもって君たちを全滅させる作戦だ。そうならんうちに、早々にここを引き揚げて、自分の国に帰りなさい。」と逆に彼らを諭したりした。怒った一人の兵隊が、ピストルの銃口を父の頭や胸に向けたり、父を小突いたりし、いまにも発砲しそうになったのを、将校らしき者が押し止生き延びても、もはや何の甲斐もないと、死を覚悟した父には、死への恐怖はすでに失せ、妻子や村民を殺した米兵への憎しみだけが強く湧き起こっていた。「お前たちアメリカーは鬼畜だ。一般住民の家屋を破壊し、弱い女、子供たちまでも殺している。やはり、噂通りの鬼畜悪魔だ」死ぬ前に言うべきことは何でも言ってやるという勢いで、米兵たちにたてついた。そのうちに、父は所持品を残らず没収され、着けている服までも全部脱がされた。丸裸になった父の側には解剖台らしきものがあって、手にカミソリを持った米兵が、父にその台の上に寝るようにと指示した。その米兵は、カミソリ父の目の前でちらつかせたり、耳や鼻に当てて剃り落とすぞ、というような仕草をしたり、首に近づけては切真似をして父を脅かした。

 

父は解剖台に上って仰向けになり、大の字になって寝た。そのままカミソリで切り裂かれるものと覚悟していたら......···米兵は、まず父の頭髪を剃りはじめた。頭をツルツルに剃り終わると、次に顔の腋毛、そし陰毛までも体毛を全部剃り落としてしまったのである。その間、いつカミソリでグサリと身体を切り裂かれるのか、その瞬間のために心の準備はしていたものの、何事もなく、全部剥り終わると、「OK、トウジョウ(東条)」の掛け声で、父は解剖台から降ろされた。

 

カミソリを持っていた米兵は、父が解剖台に上がる前と後とでは、態度、表情が全く異なり、いたずらっぽく、父を見て微笑した。頭髪も、長年鼻の下に蓄えてきたチョ
も··········すべて剃られた父は、身体全体を清風が吹き抜けるようなさっぱりした気持ちになり、これまで死を覚悟していた自分が、生まれ変わったような妙な気分になった。

 

妻子との再会

米軍のダブダブのHBTを着せられ、煙草も与えられた。これまで見たこともないようなお菓子や、長い間口にしたことのないりんごも与えられた。食事が終わったあと、見るからに温厚そうな将校 *1 が、最初に取り調べを担当した将校とともにやってきた。「知念さん」
開口一番、その将校は父の名前を正しく言って話しかけてきた。父は、
「さては、私にスパイでもやれというのか」
警戒しながら耳を傾けた。ところが、父の疑心とは
全く別のことを言ってきた。「非戦闘員である一般住民の自害が多発している。そのような馬鹿げた行為をやめさまた、壕の中で、米兵を恐れて出てこない住民を救いたいので、協力してくれないか」という申し入れであった。

 

父は直ちに賛同した。「もしかしたら、自分の妻子も......」、目の前が明るくなり、新たに生きる希望と気力がわいて

 

米軍将校らに連れられて、父が座間味の避難民が収容されている役場に現れたのは29日頃ではなかったかと思う。照れくさそうに微笑しながら、自分のツルツル頭に手をやって撫でている父。顔の真ん中、鼻の下には必ず生えていなければならないチョビ髭のなくなった父の顔。これまでの父と全く違った奇妙な容姿の父との再会は、姿形はどうであれ、五体満足というだけで、この上もない最大の喜びであった。

 

阿真で戦後がスタート

村役場には、およそ一週間ほど収容され、全員、阿真に移動させられた。座間味部落の家屋はほとんど破壊されていたが、阿真の家屋はあまり被害はなく、ちょっと修理するだけで事足りる程度のものであった。一棟に七・八世帯が肩を寄せ合い、膝頭を抱えて、お互い譲りあいながら仲良く生活をはじめた。しばらくして、屋嘉比島久島の鉱山で働いていた人や、その家族も阿真に移動してきた。


米軍部は、逸早く、民家の石垣にニミッツ布告」を貼り出した。日本語で書かれた布告ではあるが、明治時代を思わしめるような口調の条文で、しかも、やたらと難しい法律用語の漢字が多く、意味はよく理解できなかったが、とにかく、日本帝国政府のすべての権限が停止された。したがって、沖縄の人たちは、米占領軍司令官兼軍政府総長、米国海軍元帥C・W・ニミッツの言うことに服従せよ、ということくらいは理解できた。

 

座間味村編集委員会座間味村史上巻』(1989年) p.

 


ところで、阿真に収容された村民は、全体の一部であり、残り大部分の村民は、日本軍とともに、座間味の山中奥深く潜んでいた。日本軍の逆上陸を期待し、祖国の勝利を信じている人たち。負けるにしても、アメリカ兵に捕らわれることを楽しとしない人たちであった。山中で飢え、風雨にさらされ、さらに、陸海空の三方から米軍の攻撃を受け、毎日死線をさまよっている人たちからすれば、阿真で「捕虜」になっている村民は、日本人の恥さらし、許されざる売国奴であり、スパイであると考えるのは無理からぬことであった。


「知念繁信はスパイである。殺すべし」、山中の軍人、村民にとって、父は処刑第一号とみなされていたようである。そもそも父は、米軍上陸以前の三ヶ月間は、座間味と本島を往復し、米軍上陸の時点では、常識的に考え本島にいなければならないはずのものを、米軍上陸と同時に座間味に現れている。疑惑に満ちた父の行動からは、どうしても生かしておけぬ国賊・スパイであるとみなされる一面もあったようである。

 

「死」が常時つきまとっている「戦場」という極限状況のなかでは、時として、自己保存の本能だけがすべてに優先し、正常な思考活動が停止するものである。「戦争」のもつ魔性に支配されず、正常な人間として行動することは容易ではない。否、むしろ、不可能ではないだろう

 

ところで、山中で頑張っていた軍人や村民も、日本軍が総力をあげて反撃してくるものと期待していた4月29日の天長節でも何の動きもなく、その日を過ぎた後も、海上を埋めつくしている米英連合軍の艦船が依然として健在であるという事実それらの実情把握から、「本当に日本の軍事力は地に落ちた」と、悲痛な思いで判断せざるを得なかったようだ。


天長節を境にして、村民はもちろん、日本軍の兵士は山中から続々下りてきた。戦争で、想像を絶するほどの壊滅的な打撃を受けた座間味村の復興の第一歩は、阿嘉、慶留間以外の村民のほとんどが収容されていた阿真でスタートした。そして、座間味村渡嘉敷村渡名喜村の三つを一つにした慶良間列島という新しい行政区ができ、父は列島長に任命された。列島長としての父の仕事内容については、上巻2-6で記述したので、ここでは割愛したい。

 

翌年の二月、兄の繁夫婦が突然帰ってきた。サイパン死亡したはずの兄夫婦である。母の「二人は絶対生きている」という信念が二人を救ったのか、サイパンでの戦火の中をくぐりぬけ、元気な姿を見せた。しかも、初孫を連れてである。母の喜びようは、おそらく生涯における最大のものであったろう。母は兄に近づき、両手で身体を触りながら「シゲル、シゲル」と喜びの声を震わせて呼び続けた。

 

阿真の部落全体が、何の前触れもなく、南洋から無事帰ってきた身内との突然の再会という劇的なできごとに、天喜地の舞台と化した。しかし一方では、生きていると信じていた身内の悲報にはじめて接し、悲しみにうちひしがれているという光景もあった。

 

その日の阿真には、人の世の、まさに悲歓離合の渦が巻いていた。

 

 

 
 
 

 

*1:語学将校と思われる。