『沖縄県史』沖縄戦証言 慶良間諸島編 (2) 座間味島

 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/neverforget1945/20230507/20230507050037.png

 

沖縄県史』沖縄戦証言 慶良間諸島編 (2)

コンコーダンス用の書きおこしを便宜上公開しています。誤字などがありますので、必ず原典《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》 (PDF) をお確かめください。

 

座間味島の戦闘

座間味村字座間味宮里とめ 

十・十空襲

十九年の十月十日の空襲以前は、本土から来た兵隊さん達を中心に陣地構築が行なわれていました。それを見ると、戦争か、と思う気持ちはありましたが、ふだん私達一般農民は戦争とも思えないような雰囲気の中でせっせと野良仕事にはげみ、のんびりと生活を送っていました。また私の家族も、そのようなのんびりムードの中で分宿割り当てされた兵隊さんたちと、家族の事や出身地の事を語らいながら、楽しい日々を過ごしていました。

 

最初の空襲の日、つまり十月十日は、私は風邪をひいて床についていたため、私の代わりに母が屋嘉比島(無人島)の畑を耕やしに行き、家には私と子供三人が残っていました。

 

午前十時頃、爆音が聞こえてきたか、と思うと同時に突然、はげしい機関銃の音が聞こえたため、「そろそろ、演習も本格化してきたな」とばかり思っていました。ところが、近所の人たちが、「駆(沖縄本島から避難してきた海軍艇)から負傷者がたくさん運ばれてきたよ」と大さわぎしているのが聞こえます。その時はじめ空襲を信じ、大急ぎでふとん一枚をかかえ子供三人を連れて防空へ向かいました。その頃、ちょうど稲の穂が実っていたため、壊に行く途中、田んぼの中にはいっていって稲の間にかくれながらやっと目的のへたどりつくことができました。食糧はソテツと芋のおじやをもっていきましたが、不安のあまり食事をする気にもなりません。一晩は壕の中で過ごし、翌朝、何事もなさそうなので帰ることにしました。壕を出てみるとそんなに被害はなく、周囲の山があっちこち続けているだけで部落には大した被害がないため、戦争とは大体そのようなものだろうと楽観していました。

3月22日

翌二十年の3月22日、一人の兵隊さんから、

「あしたの情報は悪い気がするから、子供たちはなるべく早目に避難させなさい」
と言われました。しかし突然の事なのですぐ避難というわけにはまいりません。やはり翌日まで待つことにして、子供たちが学校から帰り次第連れて行くことにしました。幸いにも翌二十三日は、二十四日の卒業式の準備があって子供たちは午前中で学校から戻ってきたため、私は顔を見るなり、「きょうは情報が悪いから早目にに行きなさい」と追いたてるようにいった矢先、ものすごい爆音が聞こえてきました。そのあとはもう夢中で子供たちをひきずりながら、いちもくさんに壕へ向け走って行きました。

 

私の家族には小学校五年生の甥も加わっていましたが、彼は私達にはついてこないで、いつの間にか、とてもかわいがってもらっていた兵隊さんの後を追って、別の壕に行ってしまったのです。それが運命の別れ目になるのも知らずに......。

 

私達が壕に着いた頃からは、攻撃が本格化し、グラマンからは曳火弾がたて続けに放たれてきました。それが夕方まで続き、一機一機引き揚げて行った後、甥をさがしにいそいで壕をとびだして行きました。だれかが家まで運んできたらしく、横たえられていましたが、横腹をやられ、変わり果てた姿になっていました。

 

彼の避難していたは多くの家族が入っていたらしいのですが、村ではじめての犠牲となり、一人重傷を負いながらも生き残った婦人以外は全員爆風で死んでしまいました。後で知った事ですが、生き残った婦人は甥のすぐうしろにいたらしく、彼の横腹を買ぬいた弾がその婦人にも影響したため、死までは至らなかったそうです。二、三日で暮らしたと思います。どこにも行けず、もう生きることは考えられません。弾が飛んで行くたびに、あの弾にあたるのか、この弾にあたるのか、そしてどんな苦しい思いで死んでいくのか、ただそれだけを気がかりにしていました。

 

私達が避難している場所から部落の方は全く見ることができないため、父が畑の方まで行って部落の様子を伺ってきたらしく、「さまざまな人がいるけど何事だろうか」とふしぎがっていました。その頃、米兵が上陸しているとは、知るよしもなかったのです。

 

激しい攻撃で大砲が田んぼの中に落ちると泥がとび散り大きな穴があいたと思うと、急にあぜ道がなくなったりしました。兵隊さんたちは若さのためか、びくびくしている私達とは反対に弾が落ちるのを見て喜んでいました。その頃からは、兵隊さん達に対して、腹立たしささえおぼえてきました。


夜になると山の方は真赤に燃え上がり、不安は一層たかまってきましたが、相変わらずのんきにかまえている兵隊さんたちを見ていると、「山火事すら消しに行けないのか」と情けなくなり、もう、兵隊さん達には、まかせられないな、と一人、腹の底で考えていました。その時、二人の男の人が、毛布を腕にかかえ、蒼ざめた顔で壕にはいってきて、「島は敵に包囲された。上陸もしている」と息せききって言うので、私の家族は騒然となりました。


二人の話によると、米軍の上陸を知ってから自分たちのいる壕は何か危ないような気がしたため、他の場所に移ろうと、せっかく壕を出てきたのに忘れものをしたらしく、再び壕に戻る途中、私達がそこら辺にいることを知って知らせに来たということです。


彼らは、一応私達に話し終えると、再びの方に行ってみると言うので、私は二人に、壕に戻る途中でもし米兵にでもつかまり、帰れなかったら困るからその毛布は置いていきなさい。それに荷物があると敵に見つかった場合、逃げるのに不便だし危険だから」と毛布を置かせ、そして彼らが出かける前に、「忘れ物をとってきてまたここに来なさい。無事戻れたら、一緒に阿佐部落の方へ避難しましょう」と話を決めてから二人を行かせました。そして私達は二人が帰るとすぐを出られるように準備をして待っていることにしました。

 

ところが何時間待ち続けても、二人は一向に帰ってくる様子がありません。待てど待てどその気配がないので、我が身の安全を考えて先に出発することにしました。

 

八歳の長男を母がおぶり、私は次男をあさでおぶって十歳の長女の手をひきながら阿佐部落へ向け出発しました。

 

私達は、前々から阿佐部落への避難を予想していたため、万が一の事を考えて途中の道端に食糧をかくしていました。それを取ろうと立ち寄った所、ちょうど食糧をかくしている場所に二人の米兵が立っているのです。もう食糧どころではありません。いかに、気付かれないように逃げられるか、それだけを気にしながら冷や汗をかきつつ、やっとその場を逃れることができました。

 

あたりはすっかり暗くなっていましたが、まだ安心はできないので、休みなしにずっと歩き続けていると、突然、暗がりの中をゆっくり弾が飛んでいくので、私はすぐ、友軍だ、と察することができました。これまで、米兵の激しい機関銃の音ばかり耳にしてきたせいか、ゆっくり飛んでいくのは友軍の弾しかない、と直感したわけです。それを知ったせいもあってか、これまで張りつめていた気持ちが少し柔らいできたため、私はみんなの食糧をさがしに行くことにしました。

 

小川に沿って歩いていると釜を見つけました。さらに運のいいととには、手前の壕に米びつが置いてあり、中にはお米がいっぱいはいっているのです。

 

釜に炊けるだけのお米を洗い、大急ぎで炊いてからみんなが待っている場所に戻ってきました。しかし、食糧を手にしても、いつ何時、危険がやってくるか知れないので、すぐにはいただけません。早くどこか安全な場所を見つけなければいけないので、まだ完全にさめきってない釜を妹が頭にのせ、それぞれ持てるだけの荷物を持って内川山から番所を通り、阿佐部落へと再出発しました。山はほとんどが焼きつくされ、とても歩きやすい状態になっていました。

 

番所にさしかかった際、一人の兵隊さんに会ったため、私達は、阿佐部落へ逃げる途中だ、という事を話すと、
「そこは米兵がたくさん上陸しているので下の方に逃げなさい」と言うのです。しょうがないので、途中からまた下の方に方向をかえました。


中腹あたりまで下りてくると、先程忘れ物をしたから、と取りに行ったきり戻ってこなかったうちの一人が、女物の服を着て松の木の下にすわっているのです。月夜のため、すぐ彼だということがわかりました。彼の話によると、二人は壕に行く途中、米兵に見つかって発砲され、一人がふりむいたとたん、上くちびるに弾があたったため、彼はそれを介抱しようと立ち止まった所を、二人共、敵につかまったらしいのです。米兵は二人をつかまえると、どこへ連れて行くつもりなのかずっとひきずって歩き出し、途中、休んだ場所が偶然にも、彼の家族が避難しているのすぐ入口付近であったわけです。彼は、急に家族に会いたくなったと同時に、腹の具合がおかしいので、用足しという理由で米兵一人に見張られながら暗がりを求めて、やっと米兵の元をはなれることができ、そしてスキをみ少しケガした足をひきずりながら一生けん命逃げて来た、という事でした。


彼を含めた私の家族は、再び、安全な場所を求めて歩き続けました。座間味村で最も恐ろしい底なしの洞穴、通称「アブの穴」にさしかかったころは、海の方には敵艦が、私達が立っている場所の石ころさえはっきり見ることができるくらいに電燈をみたいに照らして、船から船へ渡れるのではないかと思うほど無数に島をとりまいていました。

 

軍艦ばかりを気にしていたせいで「アブの穴」の事を忘れていた私達は、誤まって、娘をその中に落としてしまいました。それからというもの、大さわぎをしてどうすればいいのか考えきれません。急いで父が手を中に入れてさぐるのですが、何の反応もなさそうです。ただ、泣声だけが洞穴の中から響いて聞こえてくるだけです。今度は、足を洞穴の中におろしてみると、少し長女の体にさわるらしく、麻縄をおろしてやっとひきあげることができました。娘をひきあげた後、何かの拍子に水筒が洞穴の中にころげ落ちたため、「コロン、コロン」といつまでも続く音で改めてみんなの言う、「なし」を感じさせられました。

 

いつまでも同じ場所でもたもたしているといつ何時米兵に発見されるかわからないのでさらに安全な場所を求めて歩き続けました。絶壁のふちを歩いたり、とげのある木の間を服を破られながらも歩いていると、避難するのに絶好の場所をやっと見つけることができました。その場所に着いてからはみんな安心した表情になり、「ここだとみんなの遺骨が散らばることはないし、死に場所にしよう」

 

とだれからともなく言い出しました。そして、持ってきた食事をおにぎりにして、みんなで腹いっぱい食べました。水の方は、ちょうど雨が降り出していたため、しばらく不自由することはありませんでしたが、雨がやんでしまった後は、とても困りました。さらに、そのような中に、どこからか一人のおばあさんがはいってきましたが、とうてい歓迎できたものではありません。


食事はきのう一食という状態なので、子供たちは泣き出すしまつです。しょうがないということで父は大切にふところにしまっていた砂糖を出して与えました。これで落ち着くかと思った所で、今度は水を要求する始末です。ところが都合いいことに、後からはいってきたおばあさんがそこらへんの地理に詳しく、水のあり場所を知っていたため、やかんいっぱいに汲んでくることができました。しかし、水をみつけることができても、昼間はやはり危険を伴なうため、夜、二、三回出かける程度でした。

 

翌朝、人の足音に目をさましたため、びっくりしてとび起き、恐る恐る外の方をのぞいてみると何と私の家に宿泊されている兵隊さんが立っているのです。なつかしさがこみあげてきたのですぐ名前を呼ぶと、彼も私の顔を見るなり、
「お元気だったんですね」と喜んで話しかけてきました。

 

彼は阿真部落へお米を取りに行く途中らしく、「もし成功して帰れるのだったらあなたの家族にも分けてあげるのでそこで待っているように」というような事を言われたため、その日の夕方までずっと待ち続けていましたが、彼はとうとう戻ってきませんでした。何か私達の家族だけがその場にとり残されているようで非常に不安になり、これからどうしたらいいものかまったく見当がつきません。ところが私達の心配をよそに、あとではいってきたおばあさんが、平然と、「座間味部落の人たちなら、ほとんどが阿佐部落の裏海岸に避難しているよ」と言うのです。それを聞いた後、少し心休まる思いをしましたが、どうして今までだまっていたのか、教えてもらってありがたいと思う気持ちより、恨めしい気持ちでいっぱいでした。

 

住民が大勢生きていると聞いて心は勇み、さっそくその場へ向け出発しました。
目的地の近くまで来た時、部落の人に会い、子供たちにと、おにぎりをもらいました。その人は、友軍が置いていったものをもらって来た、とたくさんのお米をかついでいました。それを聞いて、私達も取ってこよう、と教えてもらった場所に行ってみると、なるほど、川の水をせきとめるくらいにたくさんの米俵が川の中に積まれてあるのです。近くには兵隊さんが死んでいるため、それをみると死ぬのがいやになりました。


持てるだけの米を持ってみんなのいる場所に着くと、もう、なつかしさと心強さとで、これまでの疲れが一度に消えてしまいそうでした。


ところが、大ぜいの中で生活してみると、これまでは家族だけで苦しくても助け合いながらやってきましたが、他人となると、自分たちに不都合になるのであれば、助け合いの気持ちなんて少しもありません。むしろ、敵視してしまうようになってきました。

 

きれいな水がないため、オシメを洗ったり、豚や山羊をつぶした後洗ったりする汚れた水でさえ、早めに汲まなければすぐなくなってしまうので、戦争なみにケンカをしました。夜になると、それぞれお米を入れた釜を持ち出し、お米を洗うと水がもったいないので、洗うこともなしに適当な水を入れ、カマドを作ってごはんを炊きました。ところが、万が一、ごはんを炊きながら薪が足りなさそうになるものなら、拾いに行って帰ってくるまでには、もう釜がなくなっていました。それでどの家族も、必ず二人がかりでごはんを炊きにきていました。

 

そこに来て二、三日経ったある晩のこと、人の畑にこっそり行って近くにかくされている鍬をとり出して一生懸命、芋を掘っていました。しばらく掘ってから鍬を置き、掘っただけの芋を一方によせてから再び掘り出そうとした所、そばに置いていたはずの鍬がありません。「確かに置いたんだけど」とあたりを調べてみると、暗がりの中で兵隊さんらしい人が私の鍬 (実際は人様のもの) を使ってさかんに芋を掘っているのです。私は無断で兵隊さんが持ち出していったのに対して腹を立て、相手がだれであろうとかまわないという気持ちでたてついていきました。すると、

 

「何、お前たちだけ生きていればいいのか、俺たち兵隊は死んでもいいのか」
というので私も負けずに、
「兵隊だと言うけど、島を守りに来て山火事すら消すこともできないくせに、生きる、死ぬはこっちの知ったことではないよ。あなた方は自分一人生きることができればそれでいいはずだけど、私は親や子供にも食事を与えなければいけない。だから私が芋を持って帰らなければ何もないんだよ。そうなったのもみんなあなた方が島を守りきれなかったせいなんだよ」

 

と言ってやりました。すると、一人の兵隊さんが私の声を聞いて、「もしかしたら下宿のおばさんと違いますか」
と言うので、よくよく見ると、何と、私の家に泊まっている班長さんなのです。これまでケンカしに話をしてきたため、はずかしくなって黙っていると、班長さんが、
「ほんとにスミマセンね。食べ物の事となるとお互い戦争になってしまって...............。ところで子供さんたちはみんな無事ですか」と聞くので私も黙っているわけにはいかず、
「おかげ様でみんな元気ですが私が食糧をさがして持って行かなければ食べるのがなくて餓死するかも知れないんです。まだ死ぬ気にはなれませんから」

 

と言いました。それを聞くと、兵隊さんたちは、「じゃ、これは私たちが掘った分ですからみんな持っていって子供たちや御両親に食べさせて下さい」
とたくさんの芋をさしだしました。突然の事でびっくりしてしまい、何をどう話せばいいかわからないので、ただ頭を深々と下げ、お礼とおわびを言って、全部もらっていくことにしました。

 

夜は寝る暇もなく、かようにして食糧集めに懸命になっていましたが、夜だけでは十分とはいえないので、ある日、昼間から食糧さがしに出かけました。ところが運悪く将校さんに会ったため、「おばさん、どんなにあせって食糧さがしに出かけても、もし敵に見られて殺された場合何の意味もなさないんですよ。子供たちを逆に餓死させることになるんですよ。そんなに食糧が欲しければ私達の食糧から少し分けて持っていきなさい。でも、食糧が欲しいのはおばさん一人ではないのですからね」

 

と言われたので、私は、「すみません。母が一人で畑に行っているのでどうしても迎えに行かなければいけないのです」と言いました。すると将校さんは、

「米はないのですか」

と聞くので、私は少しのこっていることを思い出しましたが、しかし「全くない」と答えると、しょうがない、という事で食糧さがしを許してくれました。私はお礼を言ってさっさとその場を離れ、何も恐れない態度を見せながら歩いて行こうとしましたが、将校さんに言われるまでもなく、実際、内心では、敵に発見されて殺されてしまわないか、びくびくしていました。

 

その後、再び将校さんに見つかるとまずいので、芋をあきらめて今度は、潮が干くのを待って貝をとることにしました。どういうわけか、米兵の事より、友軍に見つかったら叱られる、という事だけが気になり、敵の事は、さほど気にならなかったのです。それがたたったせいか、貝を拾った後、一人の婦人と一緒に水汲みをしていると、突然、カメのような船(海も陸も走れる船が私たちをつかまえるためにやってきました。二人はびっくりして、ガケっぷちに沿って逃げようと走りましたが、やはり機械には勝てません。ガケの上へはい上がろうにも絶壁になっていて、女の力では登れません。どうしようかと迷っている時、今度は、上からも敵がやってきました。さらに、四方八方から私たちを取りまくように大ぜいの米兵が集まって、もうどうしようもありません。一緒にいた婦人が、「どうせつかまってしまうのだから、手を上げて降参しよう。」というので、手を上げて自分から米兵の方に進んで行きました。その時の気持ちといえば、みじめさと情けなさで、憤りをどこにぶつけていいものかわかりませんでした。ただ、自分に対して何かがあったことは否めません。

 

私たちが米兵につかまって船の方に行った時には、部落の人達はずいぶんつかまっていました。私は一人だけつかまっていくと、後に残った両親や子供たちがどうなるか、とても不安だったので、通訳している方に、

「私は子供たちや両親を残してきているので、連れに行かせて下さい」

とお願いすると、その人は、「あなたの家族をふくめて何人くらいいるのか」とたずねてきました。私は一〇〇人くらいだ、と答えると、二〇人くらいの米兵を従えて、全員連れて来なさい、と言われました。言われるままに、みんなのいる壕の方へ行って入口に立ち、「出てこないとみんな殺されるから、早く出てきてちうだい」

と大声を出すと、わりと素直に、ぞろぞろ出てきてくれました。米兵は、体の動かない年寄り達に対しては、板でつくったタンカでもって一生けん命、運び出していました。

 

二十五日の晩、全員自決するから忠魂碑前に集まるよう連絡を受けたため、一番いい服を取り出してきれいに身仕度を整えてから、子供たちの手をひきながら忠魂碑に向かいました。ところが途中まで行った時、照明弾がさかんに落とされ、激しい艦砲射撃に見舞われました。今まで「死」が私達の心を支配していましたが、どうしたわけか、本能的に近くの防空壕に飛びこんで行きました。この調子では、死にたくても満足して死ねないということになり、自分たちの壕にニコチンを置いてあるのを思い出してみんなひき返していきました。ところが、確かに置いていたはずのニコチンがなくなっているのです。母は、自分たちだけ死んでしまっては子供たちがかわいそうだ、どうにかして一緒に死ぬ方法はないのか、と連発していました。

 

すると、近くにいた兵隊さんが、「こんなに小さな島に米兵が上陸すると、どんなに逃げても袋のねずみとかわらないし、どうせいつかはみんな死んでしまうもんだよ」といいました。それを聞くと、前に友軍から、もし米兵が上陸してきたら、この剣で敵の首を斬ってから死ぬように、ともらった剣を知り合いの男の人に、敵の首を斬るのは男がしかできないから、と上げてしまったのを非常に後悔してなりませんでした。

 

座間味の集団自決

座間味村字座間味宮里美恵子

十九年の九月も半ば、兵隊さんたちの分宿配当に私の家へも役所から蔵田さんや荒木さんら八人の将校さんたちの民宿の依頼があったため、生活を共にすることになりました。その日から私達は家族同様に、お互い何でもうちあけて話し合う程の親しみで接していました。十歳を先頭に私の子供三人も、いつも「将校さん、将校さん」となついていて、食事時間には食ぜんを手伝い、「おかわり」と言えば、急いでおわんを取ってきて、「お母さん、はいおかわり」三人交代で運ぶなどしていました。

 

将校さんたちは、自分たちに与えられた白米のごはんは食べずにいつも私達が食べている玄米を召し上がっていました。

 

「出かける時、『いってまいります』のあいさつにおばさんが『いってらっしゃい』と言う時、『ただいま』と言えば『お帰りなさい』の声がかかる時、ほんとに我が家のおふくろさんみたいだ」と言ってくれる時もありました。

 

将校さんたちが突貫隊を連れて夜おそくから演習に行く時は、私は帰ってくるまでお風呂をわかして待っていました。

 

お正月には、将校さん達は私の提供した豚一頭をつぶし、トンカツやあらゆるごちそうを作り、私の家族を含めてテーブルいっぱいひろげたごちそうに手をつけながら、戦争中とも思えないようなんいきで楽しいお正月をすごしました。そして私は、みんなを仏だんの前にすわらせ、「勝ちいくさになるように」と合掌させたこともあります。

 

私の家に寝泊された将校さん方は、私が当時、産業組合の配給物資の係であったため、必要となれば、相手が将校さんでもありますから豊富に物資を手に入れることができ、その点では、全く、不自由することはありませんでした。


戦争とはいっても、十九年の十月十日以来それといったはげしい空襲もなく、そんなに不安のない日々を送っていました。

 

二十年、三月二十三日、翌日の卒業式に備えて事務所でガリ刷りの仕事があったため出勤していると、何かいやに飛行機が飛びまわっているので、「また港の船を攻撃しに来たな」とばかり思っていました。ところが午前十一時を過ぎた頃、突然、低空と共にすごい射撃に見舞われたため、みんな大さわぎしてしまい、それが止むまでは近くに掘ってあった事務所の壕に避難することになりました。避難していながら、家族の事が気になり「親子別々に死んでいくのか」とばかり思っていました。

 

やっと日が暮れて空襲も下火になった頃、それとばかりに壕を飛びだして我が家へ戻ってみると、家はほとんどこわされてしまい、みんな山へ避難したらしくだれ一人残っているものはいません。何を考えたのか、家族が避難している山へ行く気はせず、部落内をただ、ブラブラと歩き回ってみました。

 

所々、瓦礫が散らばり、人一人と歩くようすがありません。歩き続けていると山の方のへたどりつきました。そこの壕に避難していた人々は、全員爆風にやられ、ずいぶん死傷者を出していました。その中に健ちゃんという子が腹をやられ死んでいたため、私はその子を抱いて遺体を家へ届けてきました。再び壕へ戻ってみると助役さんがいたので、いろいろ事情を聞かせてもらいました。そして二人で学校の方の状況を伺いに行ってみますと、爆風で大ケガした人や、死人までいるのでかたづけてまわりました。その時、水谷少尉という方が私の行動を見て、
「おツルさん、(当時、私の名前はツルとよばれていたため、水谷少尉はいつも、おツルさんといっていました。)あなたは戦争が終わったら勲章がもらえるよ。頑張りなさいよ、おツルさん」と言って去っていきました。

 

片づけが済んで、私の家に宿泊している将校の長谷川さんが、爆風でケガをしているという事を耳にしたので、何かかわいそうになり、その人を夢中でさがしていると、私の近くに爆弾が落ちたため、いそいで通信隊のの中に逃げてみました。その時からは激し空襲で、長谷川さんをさがしに歩き回ることなんてとうていできません。ところがしばらくして気がついてみると何とその壕の中にさがし歩いていた長谷川さんがはいっているのです。やはり大ケガをしていました。

 

少し空襲が止んだと思った頃、「今だ」ということでケガした長谷川さんを同僚がかつぎ、私はひきずっている足をささえて医務室の壕に向かいました。逆方向からは敵機の来襲があるため、かくれては歩きのくり返しをしながらやっと医務室にたどりつくことができました。

 

長谷川さんを無事医務室まで運んで安心した頃、両親や我が子の安否が気になり出したため、それからは山へ家族をさがしに行きました。やっとさがしあてて胸をなでおろすや否や、父にさんざん叱られるはめになってしまいました。


しばらくして、私達が避難している壕は立ちのきを命ぜられたため、産業組合の嫁へ行くことになりました。

 

産業組合の壕はさいしょ、帳簿や食糧がたくさん保管されていたため、特別に公職以外の人ははいれませんでしたが、連れの老父母や子供たちがかわいそうなので、家族をつれてそこに避難しました。私達だけでなく、いざとなると帳簿や食糧をすみに片づけて大ぜいの人がはいってきたものでした。

 

二十三日から始まった戦闘は相変わらず衰えることなく、二十五日晩の「全員自決するから忠魂碑の前に集まるよう」連絡を受けた頃などは、艦砲射撃が激しく島全体を揺るがしている感じです。このような激しい戦闘では生きる望みもないから」ということで、命令を受けると、みんなは一張らの服を取り出して身仕度を整えました。私の主人は戦争前に亡くなっていたため、忠魂碑に向かう前に子供たちに、
「死んだらお父さんに会えるから、一緒にお父さんの所へ行こうね。」
と言うと、子供たちは目を輝やかせて、いじらしくもうなずいてくれました。

 

私はきれいな服も何もないので、そのままの恰好で帳簿と現金をもって娘をおぶり、父と母は上の二人の子の手をひいて、私の家族が先に壕を出て行きました。

 

阿佐道の方に出てみると、艦砲射撃が激しいので、私達は伏せながら歩き続け、やっと忠魂碑前にたどりつきました。しかし、そこには私の家族の他に、校長先生とその奥さん、それに別の一家族いるだけで他にだれも見当りません。死にに来たつもりのものが、人が少ないのと、まっ赤な火が近くを飛んで行くのとで不安を覚え、死ぬのがこわくなってきました。

 

ほんとに不思議なものです。「死」そのものは何もこわくないのです。けれども、自分たちだけ弾にあたって「死ぬ」という事と、みんなと一緒に自ら手を下して「死ぬ」という事とは、言葉の上では同じ「死」を意味しても、気持ちの上では全く別のものでした。その気持はうまく言えません。

 

結局、逃げようということで、産業組合の壕にひき返してきました。

 

ところが、私達が戻って来た時にはすでに組合の壕は閉じられて内鍵がかかり、はいれなくなっていたのです。先程まできれいに身仕度を整えていた人たちは、私の家族以外、だれ一人出てきていません。しょうがないので、どうせ死ぬのに変わりないからと、ちょうど向かいにあいていた壕を死に場所に決めることにしました。さて、いざその壕へはいろうとした時、父がいないことに気がつきました。あまり、足が丈夫ではないので歩くのが遅くてどこかではぐれたのでしょう。しばらくは心配で待っていましたが、しまいにはもう自分たちも死ぬのだからどうでもよいという気持になり、先に壊へはっていることにしました。


壕の入口には古畳が立てられていて、半間ほどは開けられていました。私はその半間から、持っていた荷物を中に押しやり、母と子供たちは奥に、私は入口の方に横たわっていました。寝つかれないままにじっと身を横たえていると、突然、畳が動き出したのです。

 

人の姿は見えないのに、ゆっくりゆっくり止まっては動きと、再三同じ行動を繰り返されました。

 

また、外に於いては機関銃の音がしたり話し声が聞こえるので、朝鮮人か友軍が応援にかけつけたのだろうと思いました。しかし、やはり安心できません。緊張し続けていると壁の間から、中の方へいきなり手りゅう弾ふうなものが投げ込まれ、私の足元で爆発しましたが自分の事より母や子供たちの事が気になり、破裂音と共に反射的に母や子供たちの名を呼んだものです。幸い、私はズックをはいていたため、また、あまり多くは投げとまれなかったため、だれもケガすることはありませんでした。その壕は私の家族だけとばか思っていたら、爆発音を聞いて奥の方から二、三の家族も出てきました。もう、壕の中の人たちも安心してはおれない表情です。おまけに、動き続けている畳も、やむ様子がありません。私は、最初は不思議だ、不思議だとばかり思っていましたが、外に出て、確めなければ気が済みません。思い切ってとび出してみました。

 

何とマア、外には米兵が壊の前から山のあたりまでずらっと並んで立っているのです。畳が動いていたのは、彼らが壕の中を確めるつもりだったのでしょう。

 

大ぜいの外人を前にして私は何を思ったのか急いで米兵の方にかけより、

「兵隊さん、こんにちは」

とあいさつをしたのです。そして手まね、足まねで、

「兵隊さん、私達はどうせ死ぬ身ですから、私達だけここで死ぬよりは、向こうの方の壕にはたくさんの人がいますので、みんなと一緒に死なせて下さい。みんなの所に案内しますから、さあ、ついてきて下さい」

 

言葉の相違なんて念頭にないものですから、夢中でゼスチャーたっぷりに語りかけると、一人の米兵が流ちょうな日本語で、「おばさん、心配するな。」

 

と言ってくれたので、何か、親しみがわいてくるようでした。彼らとのやりとりに一生懸命になって、母や子供たちの事をすっかり忘れていた頃、壕の中にかくれていた一人の婦人が私のそばからスッとでてきて別の方の嫁へと逃げて行きました。それに釣られ母や子供たちも婦人の後を追って走っていったため、「一人残されては......」と米兵たちをそっちのけに、私も後を追って行きました。

 

やっとたどりついた様の入口に、今度は、一人の日本兵が倒れていたので最初に逃げた婦人が、「ここに人が死んでいる」というのでびっくりしてしまい、今来た道をさらにひき返したため私達もその後を追って内川の嫁の方へ走り出しました。前に、内川の壕に手りゅう弾を持っている人がいると聞いていたので、とっさにひらめいての行動でした。その壕の中には校長先生はじめ、学校の職員がはいっていたので一緒に入れてもらうことにしました。そこで、私の姉が校長先生に向かって、「先生、たくさんのアメリカー達が上陸してきました。産業組合のではみんな自決しています」と言ったので、もう、みんなびっくりした表情です。

 

私は校長先生に一緒に玉砕させてくれるようお願いしました。すると校長先生は快く引受けてくれ、身仕度を整えるよういいつけました。

 

天皇陛下バンザイ」をみんなで唱え、「死ぬ気持を惜しまないでりっぱに死んでいきましょう」と言ってから、一人の年輩の女の先生が、だれかに当たるだろうとめくらめっぽうに手りゅう弾を投げつけました。その中のニコが一人の若い女の先生と女の子にあたり、先生は即死で、女の子は重傷を負いました。

 

私は校長先生に、「先生はみんなが死ぬのを見届けてから死ぬようにして下さい。」と頼んでから、みんながのどがかわいたというので、蝶の前を流れている川へ洗面器や、やかんをもって水をくみに行きました。

 

外では月が壕の中の悲劇を無視するかの如くこうこうと照り、その光りで米兵が鉄帽をかぶって立っている様子がはっきり伺えます。

 

水をくんで壕に戻ると、重傷を負った女の子が、「おばさん、苦しいよー、水、水............... 」水を要求してきました。傷口からは息がもれて、非常に苦しそうです。その子とかかわっている最中、突然、校長先生が、奥さんの首を切り始めました。すると奥さんの方は切られながらも、「お父さん、まだですよ。もう少しですよ」と言っています。

 

そこら一帯は血がとびちり、帳簿などにも血がべっとりとくっつきました。

校長先生は奥さんの首を切り終えると、先程最後に死んでくれるようお願いしたにも拘らず、今度は自らの首を切ったため、「シューッ」と血の出る音と同時に倒れてしまいました。私達はびっくりして校長先生の名前を呼び続けましたが、もう何の反応もありません。私の着ている服は返り血をあびて、まっ赤に染まってしまいました。

 

未すいに終わった奥さんは私に、「お父さんのそばに寝かせて手をくませて下さい」「もし私が死んだら、故郷(佐敷村)に連れて行って下さい」だとか、後々の事を要求してきました。最後には、重傷の女の子も息をひきとりました。

 

二、三の家族は死ぬのがこわいということで別の壕へ行ってしまいましたが、私達や残った家族は最後まで死ぬ覚悟で、いつまでも壕の中にいました。

 

さて、どのようにして死んだらいいものかと、武器を調べてみると、手りゅう弾一コとカミソリしかありません。手りゅう弾では失敗するかも知れないと、年輩の女の先生は、カミソリを取り出して自分の子供たちの首を切り、最後に自分の首をきりましたが、みんな未遂に終わりました。私はそれを見てかわいそうになり、「どう死んでしまうんだから」と水をくんできて与えようとしましたが飲みたがる様子もありませんでした。

 

私達のいた様は入口が二つになり、中の方で一つになっていたため、米兵をごまかす意味である作戦を考え出しました。つまり、二つの入口のそれぞれに、自決ですでに息をひきとった人を一人ずつ出して横たえ、「中の人間はすでにみんな死んでしまった」と米兵に思わせようという、今から考えれば、ほんとに単純な考えなのです。ところが、実行に移ろうか、どうしようかという所へ、父が私や子供たちの名を呼びながらやって来ました。「これは大変な事になった」と思い、しばらくは返事をしてやらなかったので、父はさかんに呼び続けています。

 

あまりにもただならぬ様子なので、声のする方へ出てみると何とうしろにたくさんの米兵を従えて来ているではありませんか。今まで行方をくらましていたのは、どうやら真先に米兵につかまっていたようです。父は子供たちを連れて出てくるように言うので、私は断わりました。すると、「役所の人や村の人たちはみんな出てきた。お菓子やたばこ、毛布もたくさんある。ここで子供たちを飢えさせないで早く連れてきなさい」と言うのに対して、私はさらに断わり続けると、「お前はいいから子供たちだけは出しなさい」と言う。

 

私は父が言っていることがほんとかどうか確めたくて、一応中にいる人たちに断わってから役所まで見に行くことにしました。米兵につきそわれて通りを歩いていると、カメラを向けている人がいるのには、機関銃を向けているのと間違てびっくりしました。役所に着いてみるとなるほど、村民はみんな集まっています。それを確認した後、帰ろうとした所へ米兵が、ケガをした人がいるかどうかたずねてきました。私が「いる」と答えると、その状況をいろいろ聞かしてくれるよう言われたので、ありのままのことを話しました。話し終えると米兵は急いでタンカを持ち出して来たのです。私は、壕の中にいる人たちをみんな出さざるを得ない立場になってしまいました。しょうがないので、壕に引き返すと、さっそく中にはいっている人達に、

「みんな捕虜になってしまった。私達も一緒に出て行きましょう」と誘ったが、

「いやだ」とだけしか答えてくれません。

 

未遂で終った校長先生の奥さんは「私はお父さんの後を追って死ぬのです。どんながあっても絶対出て行きません」というので私

「どうせ私達も生き延びようとは思っていません。出てから一緒に死にましょう」

と説得した上で、やっと壕から逃れ出して病院へ行きました。病院とはいっても、焼け残った家を使用したものです。

 

その奥さんは、校長先生を失なってからは身内がいないため、一切、私が面倒を見なければいけなくなってしまいました。その上、若い女性が少ないため、看護婦の仕事まで引き受けなければいけません。幸い、私の家族は役所に収容されていたので別に手をやくほどでもなく、私は与えられた仕事に専念することができました。普通でも忙しさに追われているにもかかわらず、校長先生の奥さんの病状が悪化したことと、さらに座間味村の多くの病人の他に、渡嘉敷村や阿波連部落からも次々病人が運ばれて来るのとで、目の回るほどの忙しさです。

 

渡嘉敷村の人たちは、鍬や、ナタを使って自決を計ったらしく、体の一部分に鍬のたてられた跡が残っている人もいます。私は後から運ばれてきた患者に対しても、外人から食物をもらってきて与えたり、水や、さがしてきたカツオ節などを与えたりしました。しばらくしてから、伊江島からもたくさんの病人が運ばれてきたため、私の忙しさは、さらに輪をかけられる状態になりました。

 

渡嘉敷から来た重体患者の中に、一家玉砕し、一人だけ未遂に終わり、米兵に救われた女の子が運ばれてきていました。名前は房子と呼ばれていました。

 

房子はあまりにも残酷な父母の玉砕を見せつけられたため、米兵に対してひどい敵がい心を持ち、その上、生きる気力を全く失っていました。私はその子がかわいそうに思えてならないので、ずっとつきっきりで看病していましたが、顔色は悪く、食事を与えれば、すべて吐き出してしまうといった始末です。

 

その日の晩は大雨が降ったため、「自分の家族はこの大雨でみん流されてしまうに違いない」と房子は家族の事が気がかりらしく泣き通しでした。精神的な負担も重なったせいか、彼女の片肺は内出血がひどく、手術を受けなければ三日ともたないという状態にまでなってしまいました。そして、その頃からは呼吸も正常ではな酸素ボンベを使用していました。

 

通訳を通して房子を手術室に連れてくるよう言われたため、すかして連れて行こうとするのですが、「死んだ方がいい」の一点ばりで言う事を聞いてくれません。「あなたが死ぬのだったら私も一緒に死んであげるから」とやっとすかすことができ、手術を受けさせました。

 

手術室には、一緒に入れてもらって立ち会う事にしました。手術する時、まず最初に背中の方にメスを入れると、突然、内部にたまっていた膿が、ビュッとふき出し、手術を担当していた医者の顔にまともにかかってしまいました。ところが、何一ついやな顔せず、今度は、切口からゴム管を通して、膿が外に出るしかけをしました。医学の発達ぶりには、目をみはることばかりでした。その後、入院中は、ずっと房子につきっきりで、我が子同様の事としてめんどうをみてやりました。

阿佐部落と阿真部落

捕虜となって座間味部落で生活していた住民は、阿佐部落と阿真部落の二か所に分かれて生活することになったため、私達家族は、阿真部落へ行かなければなりません。私は、房子を手放すわけにはいかず、我が子として育てようと思い、一緒に連れて行きました。

夜、寝る時は私の子供たちをおしのけて、必ず私のそばに寝るのだと、せまい中を割りこんで来る時もあり、それを見ていると、とても愛らしくなって、このかわいそうな子をどうしても一人前に育て、私の家から嫁に出してやるのだと決心までしていました。

ところがその決心も束の間、座間味部落の人が阿佐部落や、阿真部落で生活することになってから、渡嘉敷村の人や、伊江島の人々は全員帰されることになり、部落の一か所に集まるよう、呼びかけている様子です。それでも、私はこの子だけは帰すまいと頑張っていましたが、一人集まり、二人集まりで人数が増えた頃、何と玉砕して死んでしまったはずの房子の父親と祖父がその中に加わっているのです。自分の娘として育てようと思っても、肉親があらわれた以上、そうはいきません。帰るのをいやがっている房子を説得してやっと父親や祖父と共に帰してやりました。

 

これまで他人のために懸命になり、家族の事を両親にまかせたきということで、悪口を言われた事も度々でしたが、自分は決してまちがった事はしてきてないつもりだ、という確信があったため、そのような悪口に屈するような事はありませんでした。

 

その甲斐あってか、現在では兵隊さんの奥さんや御両親と文通し面会したりが続いていますし、また、三月二十六日の慰霊祭には役所宛や私個人宛に、毎年のように戦死された方々へのお供物や衣類、たまには、学校宛に書物が送られてきます。

 

そして、渡嘉敷の子とは、今でも親子のようなつき合いが続いています。亡くなられた兵隊さんたちに対しては、今後、惜しむととなく供養を続けていきたいと思っています。

 

集団自決

座間味村字座間味宮平初子(十六歳)

昭和二十年三月二十三日、その日は空襲があるのも知らず、午前中は家族で畑に出かけていたため、空襲が始まってから死にものぐるいで家に帰ってきた。私達が山道を下りてくる時には、学校は焼け、近くの防空壕にかくれていた人たちはほとんどが爆風でやられたらしく、掘り出している所だった。私達は、その日から壊での生活が始まった。

 

二十五日の晩、忠魂碑の前で玉砕するから集まれ、との連絡を受けたため、今日は最後の日だから、と豚を一頭つぶしみそ煮をして食べたが、なまにえであったにも拘らずひもじさも手伝ってか、あの時の味は何とも言えないおいしさでした。食事を終えてからきれいな物をとりだし身づくろいをしてから、忠魂碑の前まで家族で行ってみるとだれもいない。しょうがないので部落民をさがして近くの壊まで行ってみると、そこには部落民や兵隊らがいっぱいしている。私達の家族まではいると、あふれる状態でした。それでもむりにつめて、家族はまとまってすわれったが適当にあっちこちにすわることにした。中にいる兵隊が、

「明日は上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい」

と手榴弾わたされた。その頃から兵隊たちは頭に日の丸のはちまきをしめている。しかし例え手りゅう弾を手にしても、こわくて死ぬ気になんかなれない。その時の時間は午前四時頃と思われた。私達はいつでもここに残っていてもどうしようもないので自分たちので玉砕しようと再び引き返していった。私達姉弟三人は父母の後をただ言われるままについていった。

 

夜明け方、何となく外が騒々しいので、朝鮮人でもいるのかな、と思って耳をすませてみると言葉が何となく違う感じがする。もしかするとフィリピン人かも知れない、と思い入口をあけてみると、米兵がの前にずらりとならんでいる。あまりの数に私達はびっくりして、さっさと死ななければ、と思い、まず父がかたいで私達四人の首をしめたが、なかなか死ぬことができない。これではだめだと思い、今度は父が南洋から持ってきたカミソリがあったため、それで首を切ることにした。まず初めに、母の首を切り、次に私の首を切った。私は、何かノド元をさわったかな、と思うと同時になま暖かい血が胸を流れはじめたため、その時首が切れたんだな、と思った。そして次には、弟、妹という順で切っていくと、母が、「まだ死ねないからもう一度切ってごらん」というので父は、それでは、と再び母のノド元を切りつけた。その時に弟は、「おとうさん」という一声を出してそのまま倒れてしまい出血多量で死んでしまった。最後に父も自分の首を切っていた。

 

昼に近い時間と思われた頃、米兵と父の友人が私達の壕の中にはいってきて、その人が父の名を呼びながら「どうしてこのような事をしたのか」というのが、夢うつつに聞こえていた。それから私と弟の二人は死んだものと思ったのか、二人を嫁の前の道に引き出し父母と妹の三人を運び出していった。それから夕方頃、何かあたりの騒々しさに気が付いたので、私はまだ生きているのだな、と思っていたが起きる気力もないため、そのまま目をとじて道に投げ出されたままになっていた。

 

二、三日過ぎただろうか。ふと気がついてみると、米兵がやってきて目をあけたり脈をとったりしてさかんに私の体を調べている。私はそのまま連れて行かれると大変だ、と思い、せいいっぱい死んだふりして息をとめたりしたが、それだけでごまかせるものではない。生きていると思ったのか私をむしろに包み病院に連れていった。そこについて、あたりを見回してみると、すでに母や妹が治療をうけていた。やはり意識はもうろうとしているため、あっちこちから声がかかるが何を言っているのかさっぱり聞きとれない。私は重傷だということで別の病院に移され、リンゲルの注射をされた。入院して二週間程で傷はなおっていたが、人と話しができるくらいの声はでてこない。今まで、兵隊たちと一緒に働いていたところが病院になっていて、

 

「一体どうしてこんなことになったの」というのに、答えようとすると声にはならなかった。母の場合は二回切られたせいか米兵がひきあげるまで入院していたが、傷がなおるにつれてのどがしめつけられるため息ができないということでのどの方に穴をあけ、そこに管を通してやっと息ができるようにしているが、現在でも十分に声を出すことができずのどにはいつもハンカチをあて、話しをする時には、手でハンカチをおさえながら、穴をふさぐ恰好にして話しをしなければ空気がもれて、聞きとれない状態である。

 

壕生活

座間味村字座間味宮里ナへ(四五歳)

親せきが病気で亡くなってから四十九日の日、私は焼香しに出かけていた。その日は朝から戦争の気配が漂い、外へ出るにも家族の事を気にしながら出かけていった。

焼香を済ませた後、何かしら飛行機の爆音が激しいため、その家のおじいさんが、様子が変だから、と帰るようにすすめてくれた。空を見ると敵機が島の前をさかんに飛び続けている。急いで家にひき返すと、娘がふろ敷包みをかかえて避難しようとしている様子が見える。その頃からは空襲が激しくなり、島全体が爆撃に包まれてしまった。あっちこちでいきずりの人がかくれているのが伺える。途中、知合いに会った所、危ないからさっさとかくれるよう注意されたため、言われるまま陰に身をひそめていた。私の前には孫を連れたおばあさんがかくれていたが、数分後、真っ赤に焼けた弾が私のすぐそばの木をかすってそのおばあさんにあたってしまい、その場で死んでしまった。連れの孫は、さかんにおばあさんの名を呼び続けているがおきるはずがない。それを見ていた人たちは泣き声になり、どうしよう、どうしようとあわてふためいている。しかし空襲がはげしくては遠くに逃げることはできない。それでも近くに壕があることを聞かされ、やっとかけつけていくことができた。そのからは部落がさかんに焼けているのが見えるため、不安になって出ようとした所、一人の男の人がはいってきた。その人は私の顔を見るなり、
「おばさんは飛行機に見られてしまったから今を出ていくとここに弾がとんできてよけい危くなる」
という。それでも私は家族の事が気になるため、無我夢中で自分たちの所へ走っていった。壕に着いてみると、私の子供たちと一緒に日本の兵隊がはいっている。私はそれを見て、
「兵隊さんがこんな所にはいっていたら、部落民はどうなるのですか。兵隊さんは外に出て戦って下さい」
というと、
「おばさん、どうもないですよ。」
と口実をならべて出て行こうとしない。みんなが文句を言いだしたが、申し分けなさそうに壕のすみにちぢこまっているため、みんに何も言わないよう注意した。

 

その晩、役所の職員から、産業組合の壕で米の配給があるから取りに来るよう、連絡をうけたため、娘二人を行かせることにした。その時、艦砲射撃で真っ赤な砲弾がとんでくるため、とうてい出られそうにない。これでは危ないから娘たちにしばらく待つように言おうとしたら、すでに出ていった後であった。もうあきらめの気持で娘たちを心配していると、やっと帰ってきてくれた。しかし、このにいるのも危険な気がしたため、別の壕をさがしにすぐさま、出かけていった。

 

やっとある壕の前まで来た時、中から知人が、早く中にはいるよう、すすめてくれた。子供たちも一緒に中にはいってからごはんをみんなで炊いて食べることにした。配給にもらった米を壕の前の水たまりに行って、暗がりなので水がどのようなものかさっぱりわからないが一度だけ洗い流し、土でかまどを作ってごはんを炊き始めた。その時、突然、飛行機から照明弾が落とされ、あたり一面が昼のように明るくなった。急いで火を消し、場所を移動してちょっとしたくぼみにはいった。そこはあまりにも小さすぎてすわることもできないし、また危険でもあるため、娘に弟を連れて別の壕に行くようすすめた。ところが、自分たちだけで行くのはいやだというので、私が息子を連れて出ていくことにした。


私達が行った壕は壁が材木で作られ、床まで敷かれた立派なものであった。そこには二、三の家族がはいっていたが、私が息子を連れて中に歩みよって行くと、六か月の赤ちゃんを背負った一人の主婦が私の方に寄ってきて、「おばさん、生きられるだけ生きるようにして下さい。絶対死なないようにして下さいよ」と涙うかべて何度も言う。私ははげましの意味で、
「何も言わずにだまっていれば殺されるような事はないから安心しなさい」
というが、防衛隊に行っている主人もきっと殺されているに違いないと涙ばかり流している。その時、婦人の弟がはいってきて、「おまえたち、何しにここにはいってきたか」とどなりちらしている。私は頭を深々と下げて、息子一人だけ、入口にでもいいから入れてくれ、と何度もお願いしたが、でていけ、の一点ばりでききわけてくれない。さらには私達をなぐるしまつである。それをみて姉にあたる婦人が、
「あなたの命も、おばさんたちの命も同じ命だから、かわいそうに一緒に中に入れてあげなさい。そんなにいじわるをしなくてもいいでしょう」
と言ったために、やっと何も言わなくなっていた。

私はお礼の意味で手ぬぐいに包んで持っていた黒糖を少しずつわけ与え、子供たちの手ににぎらせた。

 

しばらくしていると、近くの壕の主たちの話し声が聞こえる。どとからか移ってきたのだろう。私達と一緒に壕の中にいた人たちはそれを最悪の状態と思ったのだろうか。カマを首にあてながら、

「サーどうしようか。これで首を切ろうか」とあわてている。私はまだまだ大丈夫だから、となだめるが言うことを聞いてくれない。しまいには少し上の壕にいる人たちを呼びながら猫いらずをくれ、と叫んでいる。
「もらしかたないからこっちにいっしょに来てくれ」
という。上にいる人たちはそれに答えて下の方に来て、みんなに猫いらずを手渡した。そして一升びんの水をまわした。いらずをなめては苦しみながら、早く水、水、とさかんに水を求めている。例の赤ちゃんをおぶった婦人は猫いらずを手にして口に入れる前に先言ったように私の方にやってきて、
「おばさん、ほんとに生きられるだけ生きていて下さいよ」とくり返しいいながら薬を飲もうとするので、私は、
「あなた方だけ飲まずに私達にも分けて下さい」
とお願いしたが、その婦人は、ゆのみをひっくり返しながら、もうない、ということで自分の口に入れてしまった。すると、婦人の弟が入口の木に火をつけはじめた。しかし壕は土であるため、全部は燃えることなく入口だけをこがした程だった。

 

上の壕からおりてきた人たちは、猫いらずを口にすると、自分たちので死ぬんだ、ということで急いで走っていった。
私達は薬ももらえないし、どうして死んでいいかわからないのでそこらへんをブラブラしていると、となりの壕におじいさんがはいっている。私はその人に、
「おじいさん、あそこの家族は死ぬといって泣いていますよ」と話した。するとその人は、


「オランダーは男は殺すが女は殺さないから心配するな。あなた方はこっちに入っていなさい」
と言ってくれたので、しばらくそこで休むことにした。
その時、忠魂碑前で玉砕するから、ということできれいな着物を着た人たちが出てきたため、私達もついて行くことにした。ところが忠魂碑前にはだれもいない。しかたないのでそのままひき返すことにした。
後で聞いてみると、先程、猫いらずで自決した人たちの中で簡単に死なない人はカミソリで首を切ったり、カマで腹を切ったりして死んだという。
私達が壕に戻った頃、自分の壕で死ぬといっていらずを口にしながら戻っていった人たちはまだ死なないため、父親がそばにあっ丸太棒で奥さんや子供たちをさんざんになぐりつけて殺した後、小さな男の子が薬のためか下痢をして苦しんでいるのをみて手をつかまえ、まるで猫の子をふり回すかのようにふりまわした。そして何回か石にぶっつけ、最後に丸太棒でなぐりつける。「ぐあっ」という一声で下痢をしながら死んでしまった。
私達はそれをみてびっくりしたため、別のところに逃げることにした。その頃からは米兵が上陸しているのが見えるので見つからないよう逃げるだけであったが、内心あきらめきっていた。途中、一人の年寄りが、
「おまえたち、今ごろから逃げてもどうしようもない。こっちに並べ、すぐ殺してやるから」
とさかんに呼び続けているが、私達はそれを無視して夢中で逃げていった。

 

山が焼けているため船からはっきり見られるのでできるだけ小さくなって歩き、やっと川原の方にやってきた。そこはあまり焼けてないため、四、五十人の人たちが集まっていた。しかしあまりの人でそこにおちつけそうにないので、鳥の裏側の自然壕に行くことにした。途中道が悪いため、石と一緒にころがりながらやっと目的地にたどりついた。中にはふとんを持ちこんでいる人もいる。私達が行った頃、はいっぱいして、入口にしかすわれない。雨が降って雨だれでびしょぬれになるがどうしようもない。しばらくすると、娘が、上に敵がいる、というのでよくみると、部落民が子供をおぶっての上をウロウロしている。蝶がせまいと知って煽りょしているのかなかなかはいろうとしないのでやっとすかして中に入れてやった。

 

人がいっぱいしている中で子供たちはあまりいい気持ではないのか一人の女の子が泣きだしてしまった。ただですら声を出すのも禁じられているのに大声を出したため、母親はびっくりしてなだめようとするが言うことをきかない。周囲の人たちの中には、敵に見つかるから殺せという声がきこえた。しかし、その日は運がよかったのか敵に見つかることはなかった。

 

壕での生活は昼になると、少しずつ食糧をさがしに出かけたりした。途中、兵隊さんたちに会うと、わずかの食糧から私たちにわけてくれる人もいた。

 

何日か壕の生活を送ったが、みんなが捕虜されていることを知ってからは、ほとんどが部落の方におりて行った。

 

爆弾を受けて

座間味村字座間味中村春子(二五歳)

昭和二十年三月二十日は彼岸のため、家ではごちそうをこしらえていたが、その日に沖に停泊中のダイハツが敵機にやられたため、一時は避難さわぎができるほどであった。


二十三日は朝から戦争の気配が漂い、午後になると学校を中心に多くの民家がやられてしまった。

 

午後三時頃、私達は遠くまで行く余裕がないため、部落の西の方の山ろくに十一人程でかくれていた。そこは壕のようになっているが、安全なものではなかった。
私は一番奥にはいり、すぐとなりに十歳の男の子、そして数人の年寄りや親子づれがはいっていた。

 

翌日の午前十時頃、爆弾がおち、ものすごい爆風に見舞われた。私達のはいっていた防空壕というのが、地面にあなを掘り、すぐ上にわらや何やらいろいろかぶせたであったため、爆風によってそとが埋まってしまった。そのため、私達は生き埋めになり、ものすごく息苦しくなり出した。私は全身埋まった恰好であったが、少しだけすきまがありやっと息ができるくらいの穴があいているためそこから出ようともがいたが、どんなに頑張っても自力ではい上がることはできない。そこで何人かの人たちが私達を助けるため、さかんに穴をほり始めた。その頃からは息をするのがやっとで、すでに破片でうなじをやられて大ケガをし、髪の毛はちれて砂まみれになっているがそれにも気づかず、ただ息をしようと懸命になっていた。


やっとの思いで助けてもらい、穴からはい上がってみると、その頃からはうなじからさかんに血がふきだすしまつである。ほんとにすごい出血なので上着やモンペまで血でぐっしょりになったため慰いで診療所へかけつけていった。そして服をすべてハサミで切って治療をうけたが、頭の中にもはいっている破片やゴミはとり去ることができないらしく、ただ、うなじの止血のため応急処置として注射しただけであった。したがって傷口にこれといった手当をすることもなく、少々の薬を傷口にぬりつけ、包帯をたくさん巻き、あとはほったらかしたままであった。その後は知人からかすりの着物をもらって身につけ治療に二、三度通っていた。


私が何度か治療をうけている間に、私のかくれていた嫁の近くの山羊小屋にかくれていた母や姉が見つけ出されたが頭がなく、骨もさんざんにくだけて皮もつかず、ヌルヌルしていてつかまえられない。それ以上に私は目をむけることができなかった。母と姉の遺骨は親せきの人が家に持ち帰り、その日のうちに葬式をして下さったという。私が再び行った時にはすでに埋葬した後だった。しかし葬武といっても、一人のおばあさんをのぞいてはみんな箱に入れることもなくそのままふとんに寝かせて穴を掘って埋めたようだ。


私達のはいっていたからの生き残りは二人で、母たちと一緒にいた人たちは一人だけが生き残り、あとは全部死んでしまった。私の隣にすわっていた男の子は、あとで聞いてみると横をやられ、内臓がとびだしていたらしい。

 

私の傷口は出血が一向に止むようすがないためおじに診療所に連れていってもらったが、その時からは診療所には多くの死んだ兵隊や、大ケガをしている兵隊がいっぱいしている。私は順を待ちながらあまりの出血に水を請求して飲んだが、水を飲んだ量だけ血もさかんにふき出すしまつである。それでも気分が悪くなると水を請求して飲まなければ今にも死にそうな気がしてならなかった。しかしやはり若さのせいなのか、多量の出血でもまだまだ元気であった。二十五日からは艦砲射撃がはげしいため部落にはおれず、ケガを負ったまま山に逃げ出しはじめた。最初は近くの山のまで行ったがそこはとても安全とはいえず、さらに島の裏側に険しい山道を歩いて行った。やっと安全といえそうな場所にたどりつくと、壕をさがして中にはいっていった。その壕の中にはたくさんのふとんが積まれていたのでそれに横たわって休むことにした。しかしその頃からは傷口からの出血がはげしく、いても立ってもいられない状態になってしまった。来る前に何日か雨にうたれたのも手伝ったせいだろう。もう足元もしっかりせず飢えも増してくる。動けない状態で十日近く傷をほったらかしふとんに横たわったままでいた。その頃からは傷口がくさりかけたため、赤チンキをぬり、知人からもらった三角巾を首に巻きつけていた。しかし、悪臭があたり一面にただよい、自分でもくさくてどうしようもない。その時から叔母が私の傷口にあてている三角巾を海で洗ったり、くさった傷口を水でふいてくれたりした。その部分は、ちょうど冬瓜が腐った時の状態とそっくりであった。傷口をおさえると化したうみがとびだすほどであった。それだけ腐った頃からは蛆もわきだす始末である。

 

何日か終って現在の場所では不自由を感じるため、別に移っていくことにした。しかし目的の場所についてみると、たくさんの敵が上陸しているためまたまた別の壕をさがさなければいけない。やっと適当な場所をみつけると、そこに落ちつくことにした。私もずいぶん歩きまわったが、傷を負ったまま、どんなに逃げても平気であったことにはわれながらびっくりしていた。他に友人や兵隊らも私の行動には目を見はる始末で、どのような目にあっても死ぬことはないよ、と冗談をとばす程だった。私の気持としてはどうせあとあとは死んでしまうものだからという気持が強かったため、何もこわいものはなくただ息が続くままに動いているに過ぎなかった。

 

旧の三月四、五日になると、潮干がりにはもってこいの日とばかりにみんなで海にでかけていってたくさんのさざえを取ってきた。何日も食事らしい食事をしてないため、さっそく火をたいて貝をやいて食べることにした。ところがその所を日本兵に見つかってしまい、敵に見られたらどうするつもりか、という事でさんざんになぐられてしまった。しかしその頃からは敵機は低空してくるが、けむりをみても民間人だとわかると決してうつようなことはしなかった。一か月程してから場所をかえようと、別の壕を求めて歩いていくそこには米兵が立ってさかんに何やら調べている。私達は久留米がすりを着て学生帽をかぶった朝鮮人と一緒だったため、呼びとめられ、米兵は朝鮮人日本兵だといってつかまえてしまった。朝鮮人はたくさんいたが、彼らは自分たちのことをいつも日本人だ、といっては朝鮮人といわれるのをきらっていた。

 

私達は四月二十日頃、ほとんどの人が山をおりていった、というのを耳にしたため全員おりていくことにした。部落に着いた頃には私の傷口は中から少し赤い肉がとびだしてきていた。その時からは米兵に治療してもらったが、米兵の治療のしかたが非常に難であるため、
「いたい!」
という声を出すと米兵が沖縄の方言で、
「少ししか痛くないはずだ」
と相手にしてくれなかった。

 

治療に来た人たちの中には皮ふ病をおこした子供たちが多く、つかまえてきてはタワシで子供たちの体をゴシゴシこすり、びっくりさせて泣かしていた。

私の傷口には何やら白い粉をふりまいていたようだが、それのためか一か月ほどではすっかりなおってきた。しかし、左肩にはいまだかつて破片がはいっているが、何の痛みも感じないのでそのままにしている。しかし体には大きな傷あとが残り、頭の中にはいっている破片は現在でも痛みが感じられ、特に最近は後遺症がひどくなってきている。

 

あの当時、穴に埋められた人をほり出してみたり、死人の上をとびえて歩いても何とも思わなかったが、今はすぐ目の前にいるように思い出され、こわくてならない。

 

山の中へ避難

座間味村字座間味宮平(四十歳)高良(八歳)

三月二十三日から空襲と艦砲射撃が始まった。その日、私は午前中は学校に行っていたため、空襲の恐ろしさに大声で泣いて帰り、家族と一緒に屋敷の壕にかくれていたが、これでは危ないと思い、午後からは山の髪に逃げていった。その日の三時頃から空襲も一段とはげしくなり、学校を中心に部落全体が攻撃されていったが、その時、私達のすぐ前のに爆弾がおちたため、近くの山羊小屋とそのにはいっている人たちの中から、山羊小屋からは兄一人、壕の中からただ二人だけがそれぞれ大ケガのまま生き残り、残りは全部爆風でやられてしまった。

 

二十五日の夜、母は私と弟の二人を残して、空襲のスキをねらっては家に戻り、二人の姉と妹をつれておにぎりをつくりに帰っていた。ちょうどその時、全員忠魂碑前で玉砕するから集まるよう私達の蝶に男の人が呼びにきたため、小学校一年生である私は、母はいないしどうしていいものかわからないため、ただみんながむこうで死ぬのだというので、六歳の弟を連れて忠魂碑へと歩いていった。そして母たちの方にも、おにぎりをもって集まれ、との連絡があったらしく、別行動で忠魂碑へ行っていたのである。

 

弾が飛ぶ中を弟をかばいつつ歩いていく途中、多くの人たちが戻ってくるのに出くわしたため、そのまま元の壕に戻っていった。やっと壕で母たちと一緒になり、ここでは危険だから、ということでまた別のを求めて歩いていった。ところが部落民のほとんどが島の裏や山奥に逃げていったのに対して私達は小さな子供達と、おまけにケガ人が一緒だったため、どうしても遠くまで逃げることができない。しょうがないので安全な壕を求めて弾の間をくぐり夢中で山をはい上がっていった。ふしぎなものであんなに真赤に焼けた弾が火花を散らしながら顔のそばをスッとかすってとんでいっても体にあたることはめったにない。


どれだけ歩いていただろうか。途中、役所の職員と会ったため、その人が私達の壕に行こう、というので産業組合の壕に行った。その壕は主に役所の職員の家族がはいっていたがしだいに安全な場所を求めてやってきた部落民で壕はあふれる状態になってしまい、私の家族までは到底入れてもらえなかった。しかたがないのでからあふれた人たちと一緒に別のへと歩いていった。


私達の行った壕は産業組合のすぐ下にあったため、子供たちが多くてはそう遠くまで行くのは危険なので近くがいいからと、その壕に入れてもらうことにした。ところが中にはいってみると、壕の主は遠くに逃げていったのかだれもいない。私達はこれ以上逃げることができないので許可なしにそのまま居すわることにした。しばらくすると二、三の家族もはいってきた。はいってきた人たちはこれ以上逃げることのできない年寄りと子供たちばかりである。その壕にはたくさんの砂糖がはいっていて食糧には心配ないが外の方はものすごい艦砲射撃である。後で知った事だがちょうどその頃に私達がはいれなかった産業組合にいる大ぜいの人が集団で自決をとげたのである。つまり、産業組合の壕は常に役所の職員が銃剣をもって入口を警備しているため、兵隊とまちがえてそのに攻撃を加えたのであろう。そこで助かる見込みがないと知り自決したのではないかと思われる。その壕からだれ一人生存者がいないためはっきりしたことはわからない。

 

私達は三日間、壕を移ることなく居すわっていたが、二十六日頃から私達の壕の上を米兵らしい者が往き来しているのが聞こえる。の前を水がチロチ□流れているがお腹がすいていてもごはんを炊いて食べることもできないし、砂糖ばかりなめていると水が欲しくてどうしようもない。その時、米兵は私達がいるのを知ったらしく入口の方でさかんに出て来い、と言っている。私達がしばらくだまっていると、入口をふさいでいた木を全部はぎとってしまい中がまるみえになってしまった。こうなってはどうしようもないので手まね足まねで手りゅう弾で私達を殺してちょうだいというと米兵はだまって見つめてばかりいる。母が両手を上げて米兵の前に近よると米兵は、「カマン、心配するな。あっちに水たくさんある」といって私達がなかなか出ていこうとしないので一生懸命説得する様子である。


もうどんなに頑張っても水が欲しいのとお腹がすいているのとはどうもガマンできないので、米兵がぶら下げてもっている水筒を指さして「これ」というと、親切に水筒をわたしてくれた。水筒の水をやかんに入れて飲んだわけだが、そのやかんというのが、子供たちが大ぜいいるため、あっちこち大使した上にころがっているやかんであるため、全体に大便がくっついている。それでもしかたないのでそのまま飲むことにした。しかし飲んでみると消毒薬がはいているせいか現在のカルキのにおいがするため、毒がはいっているのだと思い、一人ではたくさん飲まないように、全員一緒に死ねるようみんないきわたるようにして飲みなさい、ということで毒を飲む思いで少しずつ口にして手わたしていった。しかし、なかなか死ぬ気配はない。さらに私の姉妹にガムやチョコレートをわたすためこれで殺すつもりだな、と思い、子供たちの持っているチョコレートから母が三分の一ほど割って口にしたが、やはり死なない。

 

このように長い間、出て行かない、と米兵をてこずらせている時米兵の一人が手りゅう弾を投げようとした所、他の米兵が、少しまて、ととめてから壕を出ていき、通訳のできる人を連れてきた。その人の話しでは、ほとんどの人が出てきて、まだ出てこないのは私達の家族くらいのものだというので私達も出ていくことにした。空には偵察機が飛んでいるため、米兵は私達をつれて歩きながら偵察機をみるとふせたり、かくれたりして私達もそれにまねながらついて行った。みんなが集まっているという役所に行ってみると一○○人くらいの人たちが集まっていて、私達でも出ていくのは早い方であった。

 

米兵は捕虜民をかこむように五メートルごとに銃をかまえ、みはりをし、部落民が用足しにいくにも、いちいちついてきた。役場の外には一メートルごしほどに立ちやはり銃をかまえて立っていた。これは友軍が夜、捕虜民を殺しにくるかも知れない、という予想かであった。

 

朝起きると、子供たちにおかしやチョトをわたしたりして非常に親切にし、また母親たちは毎朝おにぎりをつくり、みんなに二、三コずつ配ってあるいていた。

 

時々、焼けた山を、友軍が背のうをかつぎ逃げていくのを、米兵が四方八方から銃をうつのがよく見られた。私達がびっくりしてそれをみていると、米兵は、なるべくそういったものはみないように注意していた。

 

防空壕に忘れものをして取りに行きたい時は、班長のパスをもらって、そのパスを上に掲げてみせながら出ていかなければならなかった。

  

女子青年団 宮城初枝

自決に追い込まれたのは米軍の攻撃で死ぬのが怖かったばかりではない。様々な「デマ」を真に受けていたから、という。その「デマ」とは。日本軍に、もっとも近い場所にいて、(途中まで) 日本軍と密接に行動を共にしていた「女子青年団」。当時、若い女性が語ることもはばかられるような、その「デマ」の内容とは、そしてそれがどこから流されてきたものなのか、ここで語られることはない。

 

座間味村字座間味宮城初枝(二四歳)

昭和十八年から十九年初頭にかけて、私達青年団や婦人会が中心になって村当局の命令により防空訓練や防空壕掘りが行なわれていたわけですが、その頃はまだ戦争が始まるのだという実感はだれも持ち得ていませんでした。それだけに島はのんびりとして、しばらくは平和そのものの生活が続いていたわけです。

 

ところが、情勢はいつまでも島の人々が望むような平和な生活を続けさせてはくれませんでした。

 

昭和十九年の十月十日の空襲でその歯止めが暗示され、二十年の三月二十三日には早くも、それが最も手荒な方法で強いられてきたのです。無抵抗のままに私達はただただ逃げるより他に選ぶ道は何一つ残されていませんでした。その時から部落民の生活が始まったわけです。

 

その日の空襲で村中ほとんどの家屋が全半壊しているか炎上するかし、部落の二十数名の人は運悪く砲弾から逃れることができず死んでしまいました。

 

翌日もその翌日も空襲は熟しく、それに加えて艦砲射撃までが手伝ったため、島全体が揺れ動き、人々の不安を一層かきたてていきました。その頃から軍に手伝いできない老人子供の玉砕が呼びかけられ、青年団は軍の手伝いのため山へ入り、私たち、友人三人と妹の五人は村長命令で重要書類を忠魂碑前に運ぶことになっていたため皆とは別の行動をとっていました。しかし、それも艦砲射撃の烈しさのあまり思うように行かないため、一弾でも多くの弾薬を運び、軍に協力してから自決しようということで整備中隊の壕へ向かいました。その頃、玉砕するはずだった老人子供が、沈黙のまま何処へともなく私達の目の前を通り過ぎて行ったのです。死を覚悟してはいたものの艦砲の熟しさに胆を冷やし死の恐怖と共に生への本能的な執着がよみがえったのでしょう。

 

二十六日、米軍の上陸が知らされ、その時から白兵戦が始まったようですが、圧倒的な敵に迎え撃つことはできず、後退のやむなきに到りました。そのため晩には部隊命令で軍民男女全員が斬り込み隊となって夜襲を敢行することになったのです。私達五人は斬り込み隊の生存者が集まることになっている稲崎山へ追撃してくる敵を迎え撃つための弾薬運びが命令されました。ちょうどその頃、部落民が各所で自決をはかり、私の家族を含めて惨事が繰り広げられていたことを私達には知るよしもありませんでした。

 

私達はあの重い弾薬をやっと目的地まで運び、斬り込み隊の生存者が来るのを待ちわびていましたがだれ一人として姿を見せるのはいません。急に不安と淋しさに襲われ、私達のとるべき道が口には出さずともそれぞれの胸のうちですでに決まっていました。自決です。弾薬箱を受け取って出発する間際に、軍曹から万一に備えての手榴弾を一個手渡されていたのでそれを使用することにしました。焼け残りの椎の木の生い繁る深い谷間を死に場所とし、岩つつじの花束をつくって自決の準備をととのえ、『君が代』を合唱しなが各々家族や友人に別れを告げていよいよ決行となったのです。五人が肩を寄せ合って輪をつくり、中央につつじの花束をそなえ、私が手榴弾の安全装置を解きました。

 

ところが、一分たち二分たっても手榴弾に何の変化もないため、今度は別の一人が私のやり方がまずいということでそれをとり上げ強く叩きつけましたがそれでも破裂しません。皆が交替で思うままに叩きつけてもだめだと知ると、新たな不安と胸さわぎで、ただた顔を見合わせるばかりです。その頃、米軍のスピーカーがわけのわからない言葉で何やらしゃべっているのが聞こえたため一層不安になり、今度は海岸の絶壁をめがけて無我夢中で走っていきました。そこから一思いに飛びこんでしまえば私達は希望が叶えられるはずなのです。しかし裏海岸に着いてみるとすぐ目の前に敵の空母や巡洋艦、輸送船と大小さまざまの無数の艦艇が浮かび、艦上の米兵の姿まではっきり見えるではないですか。万が一、そこで失敗したら捕虜にされるかも知れません。私達は投身自決もあきらめ、とにかく生きてみようということになりました。

 

その後、斬り込み隊の生存を確認し、私達五人は軍と共に行動しながら、何人かの友軍の最期を見届けてきました。何度空しい思いをしてきたことでしょうか。

 

それから数日、相変わらず敵の攻撃は続けられ、友軍は完全に包囲されてしまいました。私たちもいつの間にか兵隊さんたちとは離ればなれの行動をとるようになっていたのです。そんなおり、懸命に逃げかくれを続けていた私達のそばに突然、飛来してきた迫撃砲弾が炸裂すると同時に私は右の大腿部を棒で叩かれたような気がしました。破片があたってしまったのです。しばらくはケガの痛みをおさえながらモッコでかつがれ逃げまわっていましたが、心身ともすっかり疲れ果ててしまった五人は、これ以上逃げまわるには限界を感じていました。

 

山を降りると私は負傷しているためすぐ米軍の病院へ運ばれましたが、そこへ着いてみるとカミソリで自決に失敗し米軍に収容された養母が声帯を切断して声も出せずベッドに横たわっていました。弟は経過が悪く、すでに死亡した後でした。

 

とにかく、私の方は手術を受け、破片を取り出し、ようやく元通りの体に戻りましたが、米軍がこんなに住民を保護し親切にしてくれるとは夢にも思いませんでした。今まで懸命に逃げまわり、或いは自決まで試みたのは何も弾にあたって死ぬのがこわいということばかりでなかったのです。万が一、米軍につかまれば••••••、さまざまなデマが脳裏を離れない事が最初の要因だったように思われます。そのデマがどこからどうして、まことしやかに伝えられたのか不思議でもあり、またそれを真に受けてきた日本の人たちを哀れに思わずにはいられませんでした。

 

軍と共に

軍と行動を共にしていた炊事班の女性の証言。

座間味村字座間味吉田春子

当時、私は軍の炊事班の任務を負わされていたため、十九年の十月十日の空襲の日から軍と共に行動をしていました。

 

二十年の三月二十三日の空襲の時、ちょうど軍のにかくれていました。部落中が攻撃に見舞われていて、昼中は家族の事を心配しながらも、出て行くことは全く不可能な状態でした。やっと日が暮れて、米機が引き揚げてから、急いで家に帰ると、家は散々に荒らされ家族はだれもいません。ただ病弱の弟だけが歩行困難のため、近くの屋敷に避難していました。

 

弟と連れだって家族をさがしに恩納の方へ行ってみると、私の家族の他に、二、三の家族が一か所に集まって、かくれていました。そこに着いてしばらくしてから、再び、激しい艦砲射撃がはじまったので、一緒にいたおじいさんが、別のへと移っていってしまいました。それからというもの、わずかの残された家族は不安で、びくびくのし通しです。どうせ死ぬものだから、私は妹を連れて、照明弾の中を縫いながら、突貫隊の三中隊の壕へと走っていきまし兵隊さんと一緒におれば、いざとなっても大丈夫だと思ったからです。

 

私達が着いた頃、三中隊の壕ではにぎりめしに梅ぼしをつめて出かける準備をしていました。兵隊さんたちは、「自分たちは出かけるから、あなた方は残っていなさい」と言われたため、私達は壕に残ることになりました。その壕には、足に傷をうけた長谷川さんという兵隊さん一人に、他に民間人が四、五人残っていました。さらに、その壕は奥で二つに分かれていたため、奥の方にケガをした人を含めて四人の人たちがはいっているのを私達は知りませんでした。二、三日してから、私達の壕の前を、だれかがしきりに往き来している様子が伺えたので「こんなに危険な状態なのに」と隙間から外をのぞいてみました。仲間とばかり思っていたのに、いつのまにか米兵が上陸してきていたのです。


あんなに敵が歩き回っているのに、どこからか水谷少尉が入ってきました。私達の蝶は米兵の上陸に備えて機関銃をとりつけていたため、水谷少尉は、「相手が撃ってこない限り、こちらからは絶対に撃ってはいけないぞ」と命令を下しました。

 

ところが言い終わらぬうちに、中に残っていた兵隊さんたちが、さかんに壕の前を歩いている兵隊におびえて銃を発してしまいました。それからというもの多量の手りゅう弾が投げられ、入口ふきんでは、あっちこっち「ポコ」「ポコ」と破裂音が聞こえ中の方からは銃を発し、しばらく撃ち合いが続きました。

 

そこで水谷少尉が、「もうしかたないから玉砕しよう」と言いだしました。

私達女性群は、しばらくすみの方にちぢこまって「きょうまでの命か」と思いつつ戦闘の様子を伺っていましたが兵隊さんたちが玉砕しようというのを聞いて、「私もお願いします。私も」と我れ先に、伏せている兵隊さんたちの上におおいかぶさる恰好でとびついていきました。ケガした長谷川少尉は、傷が痛みだしたらしく、早く死んで、楽になりたいといった様子です。それを、「がまんして下さい。兵隊さんたちだけ死ぬような事をしないで、私達も一緒に死なせて下さい」と女の人たちは頼みました。

 

「これだけ大ぜいいては、手りゅう弾一個では全員死ねないな」とどうして死んだらいいかうちあわせている所へ、米兵からガス弾が投げこまれてきたのです。急に白い煙がたちはじめたので、兵隊さんたちが、「ガスだ、ガスだ」と叫びました。すぐさま、むしろなどを持ってガスをあおぎたてながら兵隊さんの毛布を大急ぎでかぶりましたが、急に目が見えなくなり始め、のどがかわき、息苦しくなってきました。

 

その時兵隊さんたちは、「今のうちだ、自決しよう」とあわてましたが、どういう心変りか、水谷少尉は今度は、「自分が命令を下すまでは絶対に自決をしてはいけない」といいました。水谷少尉は防毒マスクをかけていながらも非常に苦しそうです。

 

煙がしだいに薄れてから各自の生存を確認しあい、そして水谷少尉手持ちの酒があったので、それで少しずつのどをうるおしてやっと落ち着きをとりもどしました。ところが、最初は全員無事だと思っていましたが、後で気がついてみると奥の方にケガしてはいっていた人は死んでいました。

 

その晩、「場所を敵に知られた以上、早めにここを出なければいけない」ということになりました。一緒にいた突貫隊の兵隊さんか「三中隊に連絡をとるため自分たちはこれから出かけるが、お前たちはここを動いてはいけないぞ」と命令を受けたので、私達だけ不安ながらも残っていなければなりません。まもなくすると大雨が降り出しました。
敵が外にいる上に大雨に見舞われたため、小用をたすにもそれができなくなってしまったのです。がまんしようにもがまんもできずしかたがないので、各々、入口ですませることになりました。


しばらくしてのどがかわいたため、さき程小用をすませた後流れていったものが、溜まった水と一緒になって逆に流れてきたのも知らず、それを飲んでしまいました。何という味でしょう、それでもがまんできないので、いやな顔をしながらもみんな、お腹いっぱい飲んでいました。


その後、これまで私達だけが残されているとばかり思っていたものの、私達の話声を聞いたのか隣の穴から久しぶりに顔を会わせる友人がでてきたので、お互いびっくりするやら喜ぶやら、感激の対面をしました。それと同時に、仲間が増えた事で、心強くもなりました。

 

仲間が増えた事も手伝って、きょうこそ、私達もを出て行こうと準備をしている所へケガした朝鮮人がはいってきました。「私達はこれから出て行こうと思っているのに、ここに何しに来たの」と腹だたしさも混じえて言うと、「もうどこにも逃げることはできない。敵は完全に上陸してしまった」と言うのです。そうしているうちに、兵隊さん達もみんな帰ってきました。やはり壕を出るのは無理なようです。しばらくは動かないことにしました。ところが、壕に留まることに決まってから少し気持ちが落ち着いたせいか、みんな水を要求してきました。無理もありません。先程から水らしい水を飲んでいないのです。がまんできないという事で、梅干しの壜が空いていたので、将校が朝鮮人に水をくんでくるよう命令して、いやがっているにも拘らず反発することなく水をくんできました。水がくると、みんなは飛びつかんばかりに水を飲みはじめました。ところが、容器が梅干し樽なので、すっぱくてかないません。それでも、飲まないよりはましだ、とみんながまんして飲んでいました。腹いっぱい飲んで終わった所へ水谷少尉が、「もう、みんな腹いっぱい飲んだのだから」と残った水に手や顔を洗ってしまいました。その後、やはりすっぱい水では水を飲んだ気がしないということで、手や顔を洗った後の水を、再び飲む人もいました。

 

何時間かしてから、やっとその蝶を出ることになり、手りゅう弾を一個ずつもらって自由行動をとることになりました。手りゅう弾一個あれば、五人家族は充分死ねるのです。

 

女の人達四、五人は高月山の方へ登っていきました。下の方を見下ろすと戦車やジープが走りまわり、それに鉄帽をかぶった兵隊が行き通っている様子です。もう、いくさは勝ったので友軍はまっすぐ歩いているのだなと思いました。

 

ある程度楽観の気持ちで歩いていると、防衛隊として参加している村の青年達と会ったため、大和馬の整備中隊の豪へ行こうと相談しました。そして、「手りゅう弾は男が持っている方がいいから自分たちによこしなさい。君たちは自分たちの後を追ってくればいい」と言うので、それに従うことにしました。ところが、私達が歩き出そうとした時、上の方で話し声が聞こえるため、顔を出してみるとちょうど私達を撃つのに都合のいい場所に、米兵が銃剣をかまえて立っているのです。団体で行動すると感づかれる恐れがあるため、別行動をとろう、と相談した所、いつの間にか男の人たちは姿を消していました。それからというもの、心細くても弾の中を縫っていかなければいけません。

 

途中、山が深くて避難に絶好の場所まではいりこんできたため、目的地の整備中隊の壕に行かずに、そこで一休みすることにしました。しばらくすると、番所の山から大ぜいの住民が下りて行くのが見えるため、何があったのだろうと、ふしぎに思っている所へ、今度は、阿佐道の方からたくさんの米兵が銃剣をかついでずらっとならんでおりてきました。そして、私達のいる方を向いてすわりこんでしまったのです。私達は、全く逃げる手段を失なってしまいました。しばらくは、沈黙の状態が続きました。

 

何時間か経過してから、彼らが移動を始めたため、私達もひき返すことにしました。
大急ぎで山道を歩いていると、三中隊ので一緒だった水谷少尉や、ケガした長谷川少尉らと会ったため、今までの状況を話すと、三中隊の壕へ全員、引き返すことになりました。暗い坂道をケガし兵隊をかついで夢中で登り、やっと壕にたどりつくことができました。あたりは真やみで入口が見えないため、マッチをつけてみると、せっかくやってきたにもかかわらず、入口は、開けられないようにしっかりと閉じられているのです。しようがないので、また引き返すことになりました。山を登って行く途中で、夜が明けてきたため、明かるくなってからは、自由に道を出歩くことはできません。敵に発見されるからです。


竹やぶをかきわけ、安全な場所を見つけて、昼中はそこに隠れていることにしました。
あたりが暗くなりはじめた頃、月がでて、道をあかるく照らしてくれました。安全だから、と出かけようとした時、水谷少尉から、水をくんでくるよう言われましたが、不安なので、断わってしまいました。それからというもの、少尉はカンカンに怒り出し、別の人に言いつけてから、私に向かって、
「お前は、俺たちについてきてはいけないぞ」
と言うのです。そうは言われても、一人だけ置いてきぼりにされては心細いので、こっそり、うしろからついて行きました。ところが見られてしまったため、
「おまえは来てはいけないはずだ」と日本刀をふりまわしてきました。私は、
「どうせ、いくさで死んでしまう身です」と逆に反抗して行ったので、とうとうおどかすだけで、斬りつけてはきませんでした。


そのような事がありながらも、水谷少尉は、自分の手元にある食を、兵隊や私たちに同じように分けてくれ、「食糧はもう心配ないだろう。さて、どこへ行こう」
と、案内してくれるよう言われました。ところが、みんな、自分の家族の壕一帯だと、地理的にも詳しいが、その他の所となると、全く皆無の状態です。さっぱり見当がつかないので、全員、自由行動をとることになりました。その頃からは、みんな疲れが出たということで木かげにすわったまま、だれも立てません。しばらく休んでいると、いつの間にか仲間の一人がいなくなっていることに気がつきました。あわてて彼女の名前を呼んだり、あっちこち調べてみると、ゆうゆうと大和馬の方からやってくるのです。どうしたのかたずねてみると、一人で大和馬の整備中隊のに行こうとした所、水の豊富な場所を見つけたので一人で飲んではもったいないと思い、私達をよびに来たとの事。さっそく、その場所に向かうことにしました。なるほど、着いてみると、水は豊富な上、山が深いため、敵に発見されることはありません。みんな思うぞんぶんに水を飲んでそこで一夜を明かすことにしました。

 

ところが、やっと水が飲めたと安心しているところへ、ケガした長谷川少尉が破傷風になったらしく、「何か首すじが変だ、どうしたんだろう」
とくり返し言っています。少しずつ水を飲ませてやると、あの大の男が水を飲み込むのにもがきにもがいてからしか、飲み込めません。彼は自分の持っている日本刀でさし殺してくれるよう頼んでいましたが、生きのびられるだけは生きてくれるよう、私達は逆にお願いしました。しかし、あまりにも苦しそうなので、一緒にいた兵隊さん達も最初は断わり続けていたのに、見ておれなくなったのかどうせ死ぬものだから、と念願をかなえてやることにしました。残されたわずかの時間を同僚たちとあれこれ話しをしてから最後に、「私が死んだ後、上から何も見えないように土をかぶせてくれ。そしてあなた方は私の死ぬ姿を見ないように上の方に行っていなさい」と言葉を逃しました。私達は言われた通り彼の見えない場所に行き、銃声が聞こえた後、戻ってきました。長谷川少尉はすでに事切れていました。その後、遺言どおり、土をかぶせてから、銃声がした以上、そこに留まるのは危険だとして移動することになりました。そろって歩き出した頃、みんなまともに食事らしい食事もとってないので、少しでもつまずくとすぐひっくり返ってしまう状態になっていました。

 

月夜の道を、夜通しすべってころんでははい上がりとくり返しながらガケを登っていくと、稲崎山の中腹までやってきました。つまり、島の裏側に着いたわけです。海岸は軍艦がぎっしりと埋めつくしていました。これまでの疲れが一度におおいかぶさってきたせいか目もあけてはおれません。みんなも黙りこくっています。

 

いつの間に寝てしまったのか目をさますと、またまた先程の女の人がいません。どこへ行ったのだろうとみんなでさがしていると、夕方になってから戻ってきました。話を聞いてみると、山のふもとを二、三人影が往き来していたため、何事だろうと、一人でさっさとおりていったという事です。彼女の話では、こんなに逃げ回って歩いているのは私達だけで、民間人は大ぜい一か所に避難しているということでした。なるほど山の上からみると住民が壕の中を出入りしている姿が伺えます。一週間近くだれにも会うことがなかったため、住民はみんな死んでしまって、自分たちだけが生き残っているとばかり思っていたものが、こんなに大ぜい生きているとは、夢みたいな感じもします。そこでは、だれぞれは捕虜になったとか、だれは玉砕したとか、あらゆる情報が聞かれたとの事でした。私達も仲間に入れてもらって山をおりて行くと、やはり顔見知りの人たちが大ぜいいます。その時から私達は住民と共に生活することになりました。

 

みんなは夜になると芋を人の畑からこっそりとってきたり、なべがないため、ちょっと大きめのゆがんだ空をさがしてきて、それ一つで、芋を洗って炊いたり、水をくんできて飲んだり、野菜を洗ったりしました。

 

芋がやや炊けたと思った頃、大急ぎでつぶしますが、だれか来る気配がすると、それをやめ、火が残っているかまには水をかけて急いで消し、煙をかくそうと、一生懸命あおぎたてたりしました。そのような生活が二日も続いた頃、敵にばれそうになったため、阿佐部落の裏海岸へ行くことになりました。食糧がないため、何か流れてくるのをさがしながら行とうと海岸ぞいを歩いていると、いつの間にか部落民の避難しているユヒナの壕へたどりつきました。そこでは、この壕にいただれだれは出ていってしまったと話をしていましたが、そう言いながらも、やはり自分たち自身、食糧もないし、島全体は軍艦に囲まれているし、先が見えて不安になったのでしょう。だれからともなく、自分たちも出て行こうという話がもち上がりました。私もこれ以上抵抗しても・・・と、やはり決心を固めました。みんなが支度している所へ、まるでうちあわせていたかのようにタイミングよく大発がやってきて、私達を座間味部落の方へ連れていったのでした。

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■