南城市『知念村史 第三巻 戦争体験記』(1994.07)

 

戦陣記

(知念誌より) 知念高校四年 安慶田 日出 (宮城)

夜も更けなん憩へりぬ、灯の下に果てなき吐息は歩みし道の晦日夜である。人々の寝静まった後の静寂さと時折冷たい風のガタピン揺さぶ 音が寂しく胸に響き應ふるのみ、 平和だ。 しじまだ。
此の一年間を振り返って見た、あの四、五月頃を想った。 学校も宿舎も忘れられないのが、逝きし人々が思い偲ばれて追想も涙に、吐 息に乱れる。乱れた思ひ出あるけれども五月の日誌などめくってみて懐かしく瞑想する。

 

四月二四日艦砲射撃の偉大な力を初めて体験し知る、二月に地方の井上隊に救護班員として通い教育をうけていたのに二四日の夕作戦中尉 より班員に命令が傅った。 午中あんなに激しかった凄音も晩になると遠のいて静かになった、恐る恐る外へ出てそこらを見廻したら半日にこん なにも凸凹に変わるものかしら、夢のようでぼんやり立った、あれきり弾は来ない。

 

二五日の早朝母と別れた。 もうお逢いすることは出来ないのだとは思わない。 死ぬしても、もう一度母に逢って優しい言葉もかけてもらえ る。そう思って互の無事を祈って駆けて船へついたものである。

 

その日から六月十一日までずっと軍と行動を共にしたが、 其の間たった一度だけ面会を許され母の無事な姿に安心した。

 

飯上げ、不寝番、病室係と治療薬局と適宜四十名の班員の勤務表が作られ表に現れぬ活躍が繰り返された。 家の人と一しょの時は非常に弾丸 を怖がったものであるが軍へ入って日がたつにつれてたやすく中々あたるのでもないと思った。 医務室には読物、オルガンも持ち寄せてあった ので暇々にはオルガンを教則本より練習したりで戦争ってこんなものかしらと狭い考えか呑気に構えた、患者といっても十名そこらなので忙し くない。死と言うよりか複校の訪れを待ち、どんな行動する前にも先づ「自分は学徒である」と自覚しその体面を失ってはならぬと緊張の下に 働いた。

 

四月に入ってから本部の副官が来られて四人の電話当番が要ると言われた。 国民学校の先生三名に私がやらされた。 オルガンを弾く機会を 失って隣り合っている本部へ移された。 六時間勤務で監視の怠たりない報知、 大本営の発表情報と各中隊、聯隊本部と午中忙しい情報は大 戦果を報ずるもので特に石部隊の肉攻には泣かされた。 特攻隊の火花が上る 「あゝ敵中に戦で散る方もある。 眠いなんておくびにも!」と 緊張の帯をきつくする。 夜半の勤務は眠くて寒く不気味で辛かった。 弾丸が近くに落ちるというのは稀で弾丸の空を掠め流れる音がダーンと 響く、兵は不寝番の他は寝静まって鈴のヂリヂリも殆どないあの空虚に響くダーン冷たい風が外の木の梢を一わたり波打たしたかと思うとダー と聞えて無気味なことったらない。

 

電話室の横上が大隊長さんの部屋で午に上から鈍重な声で(御苦労) の一言をかけて下さるのが常であり、数歩を隔てて通信室がありその係 りの人々の寝室でもあった。 電話係の兵二名情報係の下士官、数問離れて入口を異にする経理室の事務の人々十名近くの兵は専門学校卒だとの 事でまだ二、三の中途学徒兵も居て残る人々も大抵中学校出の人々で中隊の兵など話にもならず又悪い人もなくてよかった。

 

何時か「どうだ死ねる勇気はえたかね死ぬのが惜しい怖くて捕虜になりはせんか」と兵の言うたのを覚えている。 絶対捕虜になんかと固く 心に決めていた頃なので其の言うことが余りに冷たいのが心細く癖だったので「いいえ断じてあんまりですよ、私そんなにまでして生きようと は思ったことも考えたこともありませんですのに」ときつくつっ返したものであるが今になってやっぱり死ねなかった。 既に此の弱い心は見透 されていたのだと一人の時の憤慨を苦笑に紛らした。

 

二週間程働いたと思う頃情勢が悪化したから女ではいけないということになり、四人は医務室へかくされた看護部と言うのが出来たので女学 生の二人は言つけられてその部へ坐し兵の出入りを記し用の如何と帰りの遅い兵に注意を興えるも午前七時から午後の十時までランプをして 勤務した。

 

四月二八日午班員れなので場に駆せた若林より非状な伝達あり、続いて森岡中尉の訓話と今迄の様に安閑としていられない戦争である 今日で死を覚悟せよ小さい感情を廃して大義に生き死するのだ幾度も胸に誓った。 胸があつくなった、家も復校ももとより生命も顧みない死 は惜しくないと話しあったあとであるけれども「来るべき時が到来した」 と思うと急に怖いと身慄いがした、決して武者振るいではなかったの が今恥ずかしさ省みられる。 知念でさえ用以外は出たことのない者が必ず死すと思えといわれてみると怖気のつくものである。けれども強いて 強く思い直し意を固めた、日本の勝利のなら犠牲の柱となるのも何ぞ惜しむに足らん死ね学徒として国土防衛に殉国の女性としてその晩二四 時に様々の思いでこの知念の地を後に足どりも勇ましく従った。
戦いへの首途を祝して呉れるものは松の木々のみ、外へ出れば何時たおれるかわからない、幾枚もの上に校服をつけた邪心を拂った身のせめ もの欲望であった。

 

初めて強行軍の辛さが分かった、晩の道に弾丸背負い肩が堪らない、幾度か足が鈍くなって一勇して駆け前の人々に続いた。 見知らぬ地で一 泊し又壺屋目指して黙々前を追う。 どのあたりをどう歩いたか全然解らない。 津嘉山だと誰かが言ったがそこの弾丸の激しいこと、戦いという ものだと友と話した。それも伏すことなく馳けた、どんなに疲れていたとは言えまだまだ余力があったと見えて前のくるのに遅れじと必死に 足速くした。

四月二九日壺屋に着いた。岩窟のでみるからに堅固そうだ、安全だと思うと心が暖くなった。 畳敷の部屋に指定された、石高射砲隊の兵が 畳の上に蒲団枚も敷いてのんびりしている、外の騒々しさと相反した一景である。
四月二九日へとへとに疲れていても、其の日を忘れることはない、 うけた人にでも忘れることはないだろう。 今日の日を心よりきり必 勝の意を強くし、 敵愾心を益々募らせた。
今日も終りだ。 五月夏の訪れで壕の中でも又暑いので誰かが扇をばたつかせている、たった今先の作業にみんな汗だくだくである。夕方洗濯 に行った、生奴!!憎しいと友と話して此の沖縄の空を頭上速く我物類に悠々と飛び練っているであろう天狗が予想され、 之に反して友軍のこ んなにも惨めなのが惜しく思われる。

五月三日荷の少部を分け置き、全員総斬込みだといって出発した。 出発前に副官や作戦中尉の厳とした注意 心得、行動などを語り念を押し ただがいざ行軍になって歩いて見たがそんなに緊迫したものではなかったが、それでも泣き出したい位心細かった。

野畠道の田の近くとゆっくり進むのが前からの伝えで低い所へとしゃがみが起つなど、すべて前の人のなすままである。 安里の鉄橋の近くで 遠くで作裂した破片がバリバリとあたりへ落ちた、思わず首をすくめた、前が進むのでさっと立って一気に走った、石垣の塀らしい、 わかった
此処は炊事場のあたりなのだ懐しや恋しき学び舎の親しさ!いつ死ぬか知れぬ身だ、 希わくは此所で死にたい、直撃死、師、友のまぼろし が寄宿を思う間もあらばこそ、後の人の二、三名が先に行くのがみえた、はっとして校の方々よ、 学び舎よ、強く堪えてあれ、と心に叫び 五、六問駆けた。 前に進むにつれて弾丸は恋々はげしい、 松川のサンサルですぐ近くへ二発ほど炸裂、耳がガーンと鳴り気が速くなる、道がぬ かって水溜りも多く足袋の片側が水を浴び冷たい気持悪いどころでなく前へ前へと幾度か前のめりになり急いだ。繁多川のあたり、 識名かしら ん、其所へ発も・・・爆音が響く、黙々として近の砲弾の炸裂の間を縫うが如くに一行の無で山まで着いた時は疲れよりも乾きが苦しく喘 いだ。 汚水でもよいから潤るだけの水滴が飲めたらと思いそこらを見廻したけれども、どんな流れも見当らず消気た、班員を三分して壕をこし らえないといけないので空手で探した、 歩き廻る中に疲れも乾きも薄いだ、いい所がみつかり荷も進んだ。
やがて明けたので外に出て見廻した。 水溜りがあったあった、悦びはしゃいで吸みのんだ、あの時の水、水の有難さがつくづくわかり感謝し たが今では懸念も薄いだ、此処では弾が一層烈しい、兄も知らぬこの山に果てるのかと情なかった。
榴散弾が向うの頂にまかれ、濃々たる煙を噴き上げて物々しい、夕方に炊事をするのだが四面囲ってあるのでってゴホンゴホンと咳出し た。
昼と晩はへもダァッと爆風が襲いフワフワと今にも吹き上げられそうで昼でもおちおち眠れない。 でも直撃のないのが不思議だった。 呑気 知念へ母を残したのが何よりの悦び安心である。一日二日三日と総斬込みの命令を待った、凡人だ生への愛着執着心をどうすることも出来な い、死にたくない、死んだら何もかも終りで虫けらがたかって... 次から次へと厭な快くないことばかり予想される、いやもうこれ以上何も思う まい、この身は郷土の防衛に挺身で敵にぶつかりるのだ。

五月六日逆に後に送るという命に張りつめていたのが当てが外れてあるであろう行軍が... こんな苦しみが待っているであろうかと知って気懸かりになった、 二三時壺屋へ向って行軍、臭い臭い動物の肉の腐って家屋の焼けた異臭悪臭で息も迫りそうで何よりも苦痛だった。 一般の民か兵か、家畜か? 遠からず自分も此んなに変るであろうと思いぞっとして駆け出した。尽きるを知らない敵の兵器の多いのが癪だ。
壺屋で相当の活躍をした。 十一日には大隊本部も前線へ起った。 崇元寺のあたりへ各中隊も戦闘へ出たってことが後方まで伝った。きっと大戦果の上ります様両手を合わせた。勤務の辛いことったら幾度死を思いたったかわからない。 十三日から入り始めた患者の多いこと血みどろになって知った兵も続々収容された、その一人一人を見る毎に敵がうらめしく、宣伝ビラなど 「なんのそんなうまい手にのるものか」と話し合っ た。 便、尿の取更えだけで精一杯、食事はみんなで配った。

余り多くて収容の場がないので一回だけ担架で南風原まで私達で運んだ、行きの道を迷ったので往復では三、四日費やした、患者の多くは体 の自由の利かない兵で独歩患者は毎夜らせた、でも百余名は居たであろう。二十日頃に他の健全な部隊の兵が担架で幾十名も送らせた。日に 日に悪化して三方ある入口が一ヶ所に迫った。

二一日大隊本部包囲馬乗りされ、二三日遂に全滅だってはっきりした。 数人の患者を伴って二三日晩早く班員も全部退った、あの様な秀才揃 いの兵らがむざむざと死 生き埋め封じこまれる。 五人の救護員も先だったのだ。動けない患者の十余名に一人の衛生兵松井さん方を残し
良心がとがめたが患者橋本大尉の命令である。 万感の思いを抱いて雨の中へ出て真和志を経て津嘉山二泊の後一旦死を決して後にして 知念へついた。

道中荷を担いだ背負った民の連りが気の毒だった。 もし私の父母だとしたら・・・ 黄昏の道を行くと道の傍にころがっている死体の五、六人をみた、兵ではなく小母さんや子供らしくまだ腐っては居ないがやがて腐るであろうと思いやり嘆かわしく冥福を祈りぬくかるみを急いだ。 知念あたりはさして臭くない、此処も具志頭へ移動だとて外に出たがやめであるとのことであった。 すぐその足で一行に随いた、わがままで はあったが母に逢えるであろうとどんなにか勢込んだのを...。

五月二七日は具志頭だった。 でも医務室解散になり私は五中隊に加えられたのが幸いで知念へ退れた。 再び船へ舞い戻るとあの松井さんが 十名程の独歩患者と居る。 吃驚したが二三日の失礼を詫び一緒になれた。 この松井さんは白昼も鉢巻締めて花あたりへ出かけて薬品の交渉を 治療も毎日欠かさなかった。
六月の五、六日敵の近くに侵入したのがわかり、晩に逃れて小隊に散った。 雨である。 行軍の度毎にぬかるみと雨は縁付いたのである。 七 名の班員は小隊についた、芋掘りなど水は近かったので食糧は豊かだったけれども六月の十三日、二、三日前からの村に民の多くがトラック より降り潮干狩へ行くのも見られた。 遂に兵がお前達は下へ降りなさい。 生きるのだ、といった。 其の頃にはすっかり死は怖くなっていたので 言われるままに七名十三日早朝みんなと一緒に混った。
米兵を村で見た。 何も言わない。けれども怖くてまともに見ることは出来なかった。 その日に父母に引きとられたのであったが私の難儀と 思ったのは行軍であった。
七月の頃までむっつりとして寂しかった。 沖縄玉砕と聞いたとき涙は乾ききって泣けなかったが八月十五日御下賜の陛下の御言葉には泣い た。半時間程も泣いた。
日本に生を受け、軍に協力して敗戦した。 県民は老幼男女を問わず県民が全力をつくして戦った。 協力した。 戦争に勝敗はあるものと知りつ つも必勝を念じて戦った、散った戦友を思うと嘆きに嘆いた。
全県民否、全国民が日本無条降伏を聞いたとき、どんな気持であったろう、 何とも言えぬ筆舌に尽せない気が胸をえぐる思いであった。 悠久 三千年の歴史は滅亡したのだ。日本の滅亡!!! 大和民族の滅亡!! 今戦を思い散った戦友を思い、国家を思うと太く溜息をついた。
夜は更けてゆく!!! 県民の方々、今頃どんな夢の世界に安らかにまどろむであろうか。 何時まで悲嘆の底に呻いていてもきりがない。 強く起
きて、と我が胸は叫ぶ。 若き者よ、青年よ、希望をもて、 沖縄建設の如何は我等の力に俟つと孫先は訓す、師は救う。
私は若人の一人として微力でも強くならなければならない。 戦友の屍の上に若き学徒として全力をつくさなければならない。
父母の先輩の訓し師の教訓を守り世人の期待に副うべく努力しよう。
初日の出 暁のよさ、 笑ましさ、 これ沖縄の前途たるらん。
戦友よせよ、 吾等代りて起たんいざ!!!
沖縄を新沖縄を世界に劣らない文化沖縄を輝しい理想の国にし、栄え行かんことを祝して拙い文の結びとします。 新沖縄の上に栄光あれ!!!

 

また赤紙召集令状

 

知名 仲宗根正雄

 

私が受けた最初の防衛召集は、昭和二十年二月頃だと思います。

島尻郡の人たちは東風平の記念運動場に集合して、そこから港川の海上挺進第二十八基地大隊に配属になりました。 港川の長毛に本部があ り、わたしたち知念村、東風平村、 玉城村の防衛召集者は、玉城村志堅原のゾン川の近くの民家に入り、鈴木小隊でした。 この部隊はベニアで つくられ、トラックのエンジンを取付けたマルレという特攻艇を壊から海へ出すのが任務でした。 ここで約一ヶ月位経ってから私にまた赤紙召集令状 (沖縄聯隊区司令部が出す) を受取ったのです。 赤札 (召集令状)は村長が家にもってきて。 家の者が志原に持ってきたのです。

 

鈴木小隊長にこのことを報告すると、 赤札はまだ見たことがない。 どんなものか見せてくれと言われました。 見せると、こんなものだったの かと言われました。 現役で来ているから、召集令状の赤札は見たことがなかったのでしょう。召集されているのに、また重ねて召集を受けたの は知念村でわたし一人でした。

 

衛生兵としての補充兵召集でしたので、 わたしは南風原国民学校の沖縄陸軍病院に行きました。 わたしたちといっしょに召集された衛生兵は ほとんど未教育の補充兵でありました。 戦争が始まるとへ入りました。 衛生兵の訓練もなく壕の中では苦労しました。戦争が激しくなると負 信者が嫌にあふれる位前線から運ばれてきましたが、弾がくると負傷者はの入口においたままほったらかしにされました。 わたくしたちはこ れを壕の中へ入れるのにたいへんでした。

わたしは指揮班に入りましたが、そこには吉富出身の永吉盛繁さんがいました。彼は昭和十九年十月に現役の衛生兵として入隊し、わたしか らすると古兵になります。 本部は津嘉山にありました。 毎日、伍長といっしょに命令受領に津嘉山へ行くのが仕事でした。 戦争が始まると、女学校の生徒が補助看護婦としてへ入ってきました。

五月二十四日頃です。 大里村の西原小に米軍が入ってきているという話が聞かれました、陸軍病院もすぐ南部へ下ることになりました。 その 日は大雨で道は泥んこになっていて、歩ける患者は松葉杖で歩けないのは四つ這いになって壌を出ました。 寝ている患者にはミルクに育酸加理 を入れて飲ませ患者はそのままにして雨の中に出て行きました、指揮班は沖縄出身の仲本中尉 佐藤少尉、 ミヨシ准尉、 の三人と、 永吉盛に わたくしの五人でした。 その夜は高嶺の製糖工場に休みぬれた軍衣を脱り、巻脚絆を解いてシラミをとったりしていました、 それから今の「ひ めゆり塔」の壕に入りました。 わたしたちが出た後で女学校の生徒が入ったのだと思います。 このを出て摩文仁に行き喜屋武の海岸から小渡 浜を逃げまわって具志頭のギーザーバンタの下の海岸で知念村の井上部隊の防衛隊といっしょになりました。

永吉盛さんは、糸満方面の山部隊の戦闘部隊に配属になり斬込みに出たようです。 結局わたしは具志頭で捕虜になりました。

屋の捕虜収容所からハワイへ送られました。 まだ終戦にならない七月上旬頃だったと思います。 輸送船では、甲板で真裸にされ、船舶の中 へ入れられました。 わたしたちはシャツもパンツも着けていました、班長が日本びいきの人でしたから、グアム経由で三週間ぐらいハワイに上 しましたが、みんなハワイに着くまで真でした。

ハワイへ送られたのは、知名から、具志堅、大城盛吉、大城栄、 新垣武雄の五人でした。 朝敏さんは負傷していたので、行きませ んでした。 ハワイの収容所では、身体検査をしてメスホールの皿洗いをしました。 その当時ハワイでは戦地からの引き揚げ兵でいっぱいでし た。 初めは真珠湾のメスホールへ半年後にワイアウトのメスホールで勤務しましたが、一週間分の食糧をとっておくと、あとは食べるだけ自由 に自分でつくって食べることができました。 ハワイには沖縄系の人たちがたくさんいました。 初めは簡単には面会できなかったが、外へ作業に 出る人たちには道端で弁当の差し入れがあったようです。

約一年半ハワイの捕虜収容所にいて昭和二十一年二月神奈川経由沖縄へ帰還しました。



逆上陸のクリ舟船頭

 

久高内間末七 Է 內問新三

私は昭和二十年二月に港川の海上挺進第二十八基地大隊に防衛隊召集を受けました。 宿舎は玉城村字志堅原の民家でした。 私達の任務は戦隊 という特攻艇を隠してある壕の中から海岸へ担ぎ出して浮べることでした。

東風平国民学校の記念運動場に集められて、 島尻郡在郷軍人会長の訓辞がありました。 その中で「きみたちは召集されてきて、二、三日か、 一週間位か、一ヶ月もすれば家へ帰ると思ったら大間違いだよ、南方の島々には今日の丸が立っているんだぞ」 と言っていましたのでびっくり しました。 久高島出身は大部生き残っておられます。 兵五郎さん、新三さん、 順一さんなんか、しかし神山島に斬り込みにやられて戦死された 方もいます。 西銘文真さん、西銘十三郎さんです。 文真さんの子どもは武一郎先生です。 十三郎さんはまだ若かったですよ。 彼等は斬込みの兵 隊を島に上陸させるとすぐ逃げてくるようになっていたんですよ、兵隊にしばられてとうとう帰れなかったのです。泳いで帰ったのもいます。 私は初めはあの奥武島の橋のたもとに居たんですよ。准々この橋を爆破するときまっていたんですよ。 私はそうならないうちにここを引きあ げて、豊見城村の根差部附近のに移りました。 そして糸満からも知念の浜からもクリ舟 (サバニ)を全部、豊見城村高安のタングムイに担い できて入れました。 志喜屋の浜からも安座真からも各地の浜をまわって、 二人で担ぎ、夜中に豊見城に運んできました。 海上挺進戦隊の特攻艇 はほとんど、奥武島の橋のところで撃沈されていましたので、クリ舟で海上特攻をやりました。 また私達防衛隊も船舶隊の兵隊といっしょにク 舟で斬り込みに行きました。 明日は天長節という、四月二十八日の日暮れからです。 サバニに十名位ずつ乗り、 もう死ぬんだと、 「よし、や れ」の覚悟を決めていました。 豊見城城跡の下の饒波川の川口から出て行きました。 武器は何も持たず手榴弾 (自決用) 一つだけでした。 上陸 地は牧港だということでした。 豊見城を出て明治橋の下をくぐって那覇港を出ましたが、船は牧港につかないうちに兵隊は全部死んだんです。 その頃から米軍はもう浦添にも侵入していたんです。海にはアメリカの軍艦がいっぱいいるし、もうぼやぼやしていると照明弾が揚がってしま うから浅い干瀬のところから生き残りは全部舟から降ろしていきました。 牧港の海岸は遠浅で瀬があるわけです。 舟は護岸のところで捨て最初 に上陸した地点で私の友人もバタバタとたおれていきました。私は護岸の下に身をかがめてようやく生き残りました。 ここで全滅ということ で、それから私は生き残りの何名かで水の流れている畑の中の溝をはって行くと、前方で機関銃を構えていてバラバラ射ちまくられました。 ここでも数人たおれ、十名位になりました。 新三さんもいっしょでした。 逃げて海岸に出るつもりでしたが、前方ににアメリカが新しくつくっ た道がありました。 この道を通らなければ次の溝に入ることは出来ないんです。 死ぬ思いでこの道をつっ切りますと、五十メートルぐらいの手 前に七百人ばかりの米兵が乗っていました。 そこへ首里方面からとんできた弾が命中しました。 爆煙がもうもうと立ちこめる中を米兵は泣く者 もいるし、ものすごくさわいでいました。 この道をとび越えホーヤーホーヤーして海岸の護岸の内側にあるアダン林の中にアダンの木の根っこ に二人で穴を掘って埋っていました。 昼は全然動かずアダンの木の穴にうまっていましたが、すぐ近くにアメリカ兵が銃を持って立っているの を始めて見ました、 夜がくるまでうつ伏せで全然動かずにいました。 敵は海岸にも山の方にも一晩中射ち放しでしたが弾に当たりません、あの 時から私ほんとうの信仰が芽生えました。 ほんとうの神頼みというものが湧いてきましたよ。

 

翌日の夕方ここから逃げて海へ泳ぎ出しました、 夜着いた海岸は今の安謝あたりではなかったかとおもいます。 安謝か泊か夜だからわかりま せん。それからまた部隊へ帰りました。 海上挺進第二十八基地大隊です。 それ以後こき使われるということはありませんでした。 クリ舟に乗っ ていたのは防衛隊から新三さんと二人でしたが、他のクリ舟には海野の人もいたようです。

 

海上挺進隊の特攻艇は志堅原にいる時奥武島の橋の下で空襲で沈没したんですよ、 四十三隻ぐらいでした。 毎晩火を焚いて潜って引き揚げ出 来ませんでした。この残った艇は名腰のキビ畑の中に隠してありましたがこれも全部空襲で焼かれてしまいました。

 

五月二十二日、 島尻南部地区 喜屋武方面)に対する後退作戦が決定され、 海上挺進第二十八基地大隊も五月三十日頃、豊見城村高安の壕か 南部具志頭村の具志頭 玻名城、 安里、 与座仲座の線に徹してきて最後の戦闘になったのです。

 

港の逆上陸にも生き残り、ようやくここまできて仲座の裏の海岸の岩陰に戸板一枚に身をかくしていたのですよ、その時志喜屋の志喜 屋盛保さんもいっしょでした。 私は隊長に呼ばれて水を水筒につめてこいと命令されたんですよ。 出たくなかったが上の部落まで行って水を 持ってきたら、私のかくれていた所はふきとんでなくなっていました。 直撃を受けたんですから肉なんか飛んでいて誰かわかりません。 志喜屋 盛保さんもそこでなくなられています。 隊長の一声は私にとって 「神の一声」 であったわけです。 二年後其の場所に盛保さんの妻を案内しましたが遺骨はみつかりませんでした。

 

与座仲座の海岸から泳いで、アドチ島につきました。 そこは鶏の卵がいっぱいありました。 それから志喜屋の親川千吉さんの家に御世話にな りました。

 

5 戦車隊の戦争体験

 

久高内 新栄

 

私は大正一四年生まれですが、徴兵検査は昭和十九年の五月頃でしたが、昭和十三年生まれも昭和十四年生まれもいっしょに徴兵検査を受け ました。徴兵検査を終ってから、 八重山に行っていました。 入隊のため沖縄へ帰り、十・十空襲後の十月十五日でした。

徴兵検査の時は船舶工兵でした。司令官の命令です。 私は初年兵でしたが戦車に乗ることもありました。 背は低かったんです。 戦車兵は低い 方が多かったのです。服装も特別な軍服で、飛行兵に似た服をつけました。