鹿山正『私の信念はお国の為であった』( サンデー毎日 1972年4月23日)を再読する

 

 

1945年の沖縄戦当時、久米島には海軍の電波基地が建設され、34名ほどの鹿山隊がいた。米軍の上陸作戦から外れ、本来であれば鉄の暴風を避けることのできた場所にありながら、この島で鹿山隊は20人もの住民を虐殺している。しかも、その惨殺事件のどれもが、6月23日の沖縄戦組織的戦闘の終結、そして8月15日の玉音放送終戦」後に連続しておこっている。

 

この鹿山事件が日本で問題となったのは、27年後の「サンデー毎日1972年4月2日のスクープ記事からである。現在、そのスクープを考える際に見逃されがちなのは、この事件が「問題」となった背景には、1971年からの「沖縄返還協定」「久米島自衛隊移駐」問題があったということである。つまり、「本土復帰」「核抜き・本土並み」をうたいながら、沖縄に基地を押しつける本土のエゴが、当時の福岡防衛施設局長や根本龍太郎自治相臨時代理のように、復帰前から「沖縄を甘やかすな、過保護にするな、肥満児にするな」といった言葉として表れ始める。鹿山隊の戦争責任に向き合うことなく、また日本の軍が潜り込んでくる。

 

こうした背景を念頭に置きながら、当時のサンデー毎日の記事を再読していきたい。

 

今回は第2弾である。

「27年間ヤミに葬られていた・沖縄のソンミ事件」(サンデー毎日1972年4月2日) - Battle of Okinawa

 

鹿山正『私の信念はお国の為であった』

( サンデー毎日 1972年4月23日)

27年後の「久米島民集団虐殺事件」

 『サンデー毎日』四月二日号でとりあげた 「これが特ダネだ! 沖縄のソンミ事件」は、全日本人に、 とりわけ 沖縄の人たちに、 いいようのない怒りと衝撃を与えた。

 

 われわれ本誌取材班が追及したものは、 必ずしも一指揮官の責任だけでない。むしろ、 人間が閉鎖集団の中に息づくときの特異な精神状態についてである。 だから、あえて隊長の名前をイニシャル「K」だけにした。

 

 ところが、その「K」元兵曹長が、 東京ー沖縄のテレビ二元放送に出て、 久米島虐殺関係者と"対面"した。

 

 反響はまた大きかった。「もういいではないか」(本土)に対し「やつざきにしてやりたい」(沖縄)

 

この落差は何か。

 

「K」鹿山正氏はテレビ出演後 「あれではいい尽くせなかった」と、本誌に特別手記を寄せた。そこにあるものは、教育の恐ろしさである。

 

許せぬ!裁判を!といわれ

 鹿山・元兵曹長徳島市在住・農協役員=テレビ出演のきっかけは、本誌が出たあと、沖縄現地の新聞はじめ中央、地方各紙が、大々的に報道したためである。

 

 三月二十五日付の『琉球新報』朝刊社会面はトップ記事で、「虐殺の張本人は生きていたのか 反省の色も見せない発言は断じて許せない」の見出しで「沖縄のアイヒマンと呼ばれる男ー鹿山」が『サンデー毎日』によってみつかった旨、報じた。

 

 以後、連日のように、社会面トップ、一面トップ。さらに社説でもとりあげ、連載企画まではじめた。そして投書欄を埋めるものは「鹿山を糾弾する」ものばかり。

 

「私たちは鹿山の裁判を県民と犠牲者の名で国に要求しよう。それはあの大戦を生残ったもののつとめだ」

「日本のアイヒマン・鹿山の文字どおり人を食った"島民虐殺の弁明"をきいて、指揮官のもつ、ありそうな属性以上のものをみ、激しい怒りがもえあがるのをどうしようもない」

「殺人犯罪者個人の罪悪追求と、国家に対する補償要求の二つの面から、問題をとりあげ告発すべきである。ねむるな沖縄の良心――」

「殺人鬼・鹿山も人の子であり、親であれば、人間の血(動物でない)が流れていたら、久米島の住民殺害に即刻謝罪と謹慎をすすめる。記事を読んで思わず涙ぐみ、一瞬怒りと変わり、筆をとったものである」

「住民が敵に回るとか植民地呼ばわりする彼の考え方が、二十七年後のいまも変わっていない」

自衛隊は簡単にはいってこようとしているが、この問題をどう考えるのか」

「そうだ、桑江一佐(沖縄移駐自衛隊指揮官に内定している沖縄出身自衛官)※ に聞こうじゃないか」

※ 桑江一佐。1972年の沖縄施政権の移行に伴い、米軍基地「返還」という名のもとに、返還リストにある米軍基地が次々と自衛隊に移管され、そのままトコロテンのように自衛隊駐屯地となる。その移駐問題の矛先をぼかすため、元沖縄県出身の自衛官を先遣隊の指揮官にした。

 

鹿山正の謝罪文「沖縄の皆さんえ」 

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サンデー毎日の栗田登氏に所在を突きとめられた元兵曹長徳島市の農協事務所で久米島住民の集団虐殺について「弁明をしたいとは思いません。私は日本軍人として最高指揮官として、当時の処罰に間違いがあったとは全然思っていないからです。… と語った。

久米島住民虐殺 ~ 鹿山正「私は悪くない」 (琉球新報インタビュー記事) - Battle of Okinawa

 

本土メディアと沖縄メディアへの大きく異なる内容

さて、以下の「独占手記」をみなさんはどう読むであろうか。

結論からいうと、言葉の誤用などいかにもな風情で書かれてはいるが、今までの鹿山の言葉の使い方とはがらりと変わった言葉の使い方、巧みな構成で完全に仕上げており、不自然である。校正者が大きく手を入れたのではないか、特に後半、ライターがシナリオを作ったと思わせる感じがある。この一か月後の沖縄メディアへの謝罪なき記事「ワシは日本軍人としての誇りがある」は、まったくここに書かれている内容とは似ても似つかない内容であることが確認できるからである。

沖縄の皆さんえ

沖縄の皆さん 特に久米島の皆さん

三月に発表されましたサンデー毎日の記事を皮切りに日本全国に報道されました沖縄同胞大量逆殺事件の大罪人鹿山正であります

 

全国の皆さんから沢山の攻撃 おしかりや忠告の手紙を戴いて居ります
手紙を出して戴かなかった方々も同じ気持であることを私は心から有難くくみとることが出来ます

 

紙上に報道されましたことの内容につきましては何等申しひらきするところはございませんが ただ私の真意を聞いていただくために東京放送に四月四日朝出していただきましたが 限られた時間の上に話すことの表現のまずさで何とも心残りに存じましたので筆をとりましたがこれは又話す以上にむずかしいことです

 

私の思ってゐること考えていることを出来るだけそのままに真意をお伝えできたらと 心配しながら書きました
文章えの努力のあとをおくみとりくださらば幸甚に存じます

 

語りましても筆にしましてもこまかいところだけでなくあらゆる部分にいいあらわせない点 表現のしかたなどにどうにもならないところがございます
それはだだ誠意あるのみだと思っております

 

だがこの誠意でさえもその態度等よっては受取り方が随分遼うということをつくづくかんじさせられます

文体を細かく見ていけば、いろいろ興味深い点があるが、そのうちの一つ、「その上に私自身の個性が負けずぎらいでありよこしまなことがきらいで一本気で短気で単純であります、このような私の個性や性質習慣は私の態度や言葉やその他のあらゆる面にあらわれていると思います」など、とても第一人称で語る鹿山の文体とはおもえない。鹿山を情状酌量した第三者的な記述である。

私は大正元年生れでありますが 軍国主義の中に生れ その思想の中に育ち 小学校の教育もまさにその通りだったでせう 海軍に徴兵として入団軍隊教育を受け 久米島に赴任する迄は海上勤務が主でありました このように軍隊の中にいて 満州事変支那事変 引続いて世界戦争と経歴したのであります


その上に私自身の個性が負けずぎらいでありよこしまなことがきらいで一本気で短気で 単純であります

このような私の個性や性質習慣は私の態度や言葉やその他のあらゆる面にあらわれていると思います

虐殺についてではなく発言のまずさを謝罪、自分の「個性」と受けた「教育」のせいだと弁明。

此のように長い間個性の上につみかさねられた教育と軍隊の中での想想風調にしみついたものは
多少のためなおしは出来るでせうが壮年になってからではなかなかむつかしいのではないでせうか

 

私自身、敗戦後その心構えや態度を反省し懸命の努力を致して参りましたが いまだに出来て居りません
接する人達からだいぶ違うて来たが とお世辞にかもしれまぜんが云われる程度です 教育の大切さと おそろしさをつくづく感じさせられます

 

これらのことをあえて書きました

この度の紙上の報道や テレビの中での言動 直接お会ひしました 又お会ひします方々にこのことをふんまえて私を見ていただきたい 知っていただきたいためであります

 

軍人が責任をとると云ふ言葉の中にはその責任をとると云ふ そのことに対して一さいのことが網羅されてゐるものと私は考えて居ります
軍人として最大なるものは死と云ふことになって居ります

 

この死に対して悠然として死につくことを教育され 又そう信じて居ります
国家に忠誠を誓って悠然として死を恐れない精神 態度それが軍人の本領であると云うこと 一般の人がいう責任をとる とは大変違ったものであると云ふことです

 

これがこの度の報道関係の方々に接した時の私の態度や言動となって居ります

 

私の信念は お国の為に であった

鹿山は「私が本当に心からあやまっていることが伝わっていない」というが、この記事から1か月前のインタビューでも、1か月後のインタビューですらも、どちらも謝っている様子はない。なぜこの記事だけ、「言い表せない心の痛みの中」に生きていると語ることができるのか、その断絶たるや、これが本人の手記であるなら、まさに二重人格としか言いようがない。

現在から見れば かなしい宿命でせうか

だがこの度の問題に他意はありません 全責任をとると平然と云ひはなった言葉も態度もかかるところから出たものにほかなりません 私が本当に心からあやまっていることが伝わってゐないからです

 

戦争は人命のうばい合ひであります
平和とは反対力向にあります

 

人命尊重と云ふことについては 申すまでもありません
おさない子供までも処刑した私の行為については何も申上げることが出来ません

 

只只 この方々の冥福を深くお祈り申上げますと共に 久米島の皆さん沖縄の皆さん全国の皆さんに深くおわびを申上げます

 

玉砕となってゐる久米島日本軍
その指揮官として おめおめ生きている私
それも至上命令に従順に服じて生きた亡霊として現在にいたって居ります

 

復員以来自分の上に背負わされてゐる世の中からのあらゆるもの以上に自分自身に対する反省の中に云ひ知れない 云ひあらわせない心の痛みの中に生きつづけております 

 

これも軍人であった 指揮官であったものの宿命と思い その苦衷にたえてこそ 元軍人であり 男であり 自分一人でなすべき罪のつぐないであれば人に云ふべきすじあいのものではないと考えて居ります

 

 だが 現在の平和の中でのかかる考え方が 軍国主義云々と云はれますのもまさにその通りかも知れません

 

 このたびのことで私は指揮下にありました方々にも御詫びの申上げようもございません つまらない指揮官の下にいたふしあわせと そういうめぐりあわせであったと御寛容たまわりたいと存じます
                                       昭和四十七年四月五日   鹿山 正
(原文のまま)

さて、後半になるほど長文の繊細で殊勝な文体は、ほんとうに鹿山自身による「手記」なのか。一か月後の1972年5月28日の琉球新報「ワシは日本軍人としての誇りがある」記事を読めば、明白であろう。本土メディアに対する態度と、沖縄メディアに対する態度の違いもあからさまで、「私が本当に心からあやまっている」とはほど遠い内容である。

 

鹿山問題は、沖縄返還時の膨大な自衛隊基地の流入問題と時期的にもセットになっており、国会でも数回にわたって取り上げられている。いわば、この時期の鹿山問題は、沖縄の自衛隊基地問題、つまり、下手をすれば沖縄の自衛隊基地移駐計画を大混乱させてしまうリスクをはらんでいた。

 

テレビ出演で、それまで饒舌で無神経な発言を堂々と繰り返してきた鹿山が、この時、言葉少なであったのは、こうした方面からの「おしかりや忠告」、余計な言葉をしゃべるな、とでも注意を受けたかのようである。

 

『モーニングジャンボ』テレビ対決

国会でも何度か追及された久米島問題。自衛隊久米島移駐問題のなかで浮上した鹿山の戦争犯罪は、自衛隊の移駐を揺るがす大問題となる。そんな中でのテレビ対決。沖縄の RBC と 本土の TBS を結んでおこなわれた。「悲しい事件」と、まるで他人事のようであり、住民の怒りに驚く。

幼児殺しは残皓であります

 行政機関も黙っておれなくなる。久米島具志川村議会が、「住民の戦争意識をかり立てるために"鬼畜米英"を教えた鹿山隊長は、いつか目分が鬼畜に変わりはて、その本領を、最悪の手段で発揮した。鹿山隊長が"日本軍人として当然のことをした"といまなお豪語する態度は獣じみており、断じて許せない」との抗議文をつくり、日本政府に犠牲者の名誉回復と遺族への授護を要及する決灘を採択した。


 また沖縄中央教育委員会はわざわざ、このための臨時会議を開き、「教育上も見のがせない問題であり、琉球政府の責任において事実究明を日本政府に迫る」などの方針を決めた。

 

 こうした沖縄の声は国会にも届いた。沖蝿出身の喜屋武真栄二院ク)議員らが、この事件をとりあげ、政府は事実調査を約束せざるをえなくなる。

(※註・しかし国会での証人喚問や参考人招致、遺族への救済措置などは調べたかぎり行われていない。)

 

 ついに四日朝、"怨念のテレビ対決"が、沖縄のRBCを含むTBS全国二十六局のネットワークを結んで行なわれた。

『モーニングジャンボ』の番組である。

 

 髪を七三に分け、端正な背広姿でテレビカメラの前にすわった鹿山元兵曹長は『ザンデー毎日』四月二日号「沖縄のソンミ専件」や『琉球新報』紙上の"犯罪記録"を司会者に聞かれ、「ハイッ、間違いありません」と全面背定する。

 

 鹿山 スパイ容疑でやりました。軍人として当然だったと思います。
 司会者 殺された二歳の子供までスパイということですか。
 鹿山 いえ、そういうことはありません。
 司会者 少し残酷だと恐いませんか。
 鹿山 そのとおりであります。

 

 司会者 どういう心境なんですか

 鹿山 ……全国民、軍人、徒手空拳うって一丸となって国を守るんだという、こういう精神で戦争をやりまして、そのためには国民全部銃を持たないでも兵隊と同じである。そういう信念のもとに敵に好意をよせる者、そういう者には断固たる処置をとったということです。

 

怒声にびっくりして

(ここで画面はRBCスタジオにスイッチ。二十七年ぶりの対面ならぬ対決にくちびるをかみしめる沖縄の関係者が二元放送で写し出される。――父を殺された宮城栄夫さん、弟を殺された中村明倫さん、教え子を殺され自分もスパイのいいがかりで危うく殺されるところだった上江洲トシさん、虐殺記録をまとめた仲間智秀さん)

 

上江洲 なんであんな谷川さん(終戦後の昭和二十年八月二十日、妻と子供五人と一緒に殺された朝鮮人谷川昇さん)の小さい子供のような、こわいよう助けてくださいと泣ぎ叫ぶ子供まで犠牲にしたのでしょうか。谷川さんは私の教え子で級長をしている大変いい子供でした。あの一家はスパイどころか軍の協力者でありました。殺し方もですね、とっても残酷で、いま考えても身の毛もよだつ思います。私もあと二日で殺される予定だったと聞いてですね……生き証人として、あんたを糾弾していきたいと思いまして、こうしてスタジオに来たわけでございます。

 

中村 鹿山君!私、いまそこにいれば、あんたをやつざきにしてやりたいよっ、そう思いませんか!

(鹿山元隊長は中村さんの怒声にびっくりしたように「そう思います」(と小声でボツリ) 

二歳になる乳のみ子まで殺して、それで海軍といえるか! そう思わないか! 報道でおまえが生きていることを知り、反省してないことを知って私は夜も寝付かれない。おまえの久米島でやったことはなんだ! あれが人間のやることか!そう思わないか!

 

(激しい口調に鹿山元隊長はますますうなだれる)うちの明勇(仲村渠明勇さん)が殺されたときは、もう戦争終わっておる(明勇さん一家三人が刺殺焼打ちされたのも、谷川さん一家同様に終戦後で八月十八日)戦争終わっとって、どうしてあんな処刑なんぞしたんだ。殺して火をつけて火葬なんてもってのほかだ。一般が疎開して兵隊が戦うのが日本の陸海軍であるはずじゃなかったか。……キミみたいなのが軍隊におったから、沖縄に自衛隊が来たら、またああいうことせんか思って自衛隊に反対してるんだ。(鹿山元隊長は終始無言……)

 

仲間 食糧を供出したり、いろいろな協力を久米島の人たちがやっていたことはキミもわかっているだろう。
(画面は押びTBSスタジオヘ)

 

あとの世代の"反面教師"に

 司会者 沖縄の人たちの声を聞いて、あなたの信念はなお変わりありませんか。

 鹿山 それは……か、変わりません。

 

 司会者 二十七年もたった時点で、あなたにとって、久米島事件はどんな意味がありましたか。

 鹿山 それは悲しい事件であります……。軍人としての信念は変わりませんが、一個人としては沖縄のみなさんの冥福を祈ってやみません……。

 

沖縄と本土で大きく異なる番組の反応

さて、問題は、誰が書いたかわからない「謝罪文」ではなく、むしろ日本でこの時期スクープされた鹿山事件が、どのように日本の人々に受容されたのか、ということだ。

 テレビ対決の放送中、視聴者からは意見が相次いで寄せられ、係りの電話は鳴り放し。放送後も含めると、TBS本局に百三十四本RBCに三十数本。ところが、その声は本土と沖縄ではまったく対照的。

 

本土の視聴者は七割以上の意見が「戦争の犠牲は沖縄だけではない、沖縄を甘やかすな」「鹿山元隊長の家族の迷惑も考えろ。本人だってかわいそうじゃないか」といった内容であるのに、

 

沖縄は「責任追及の姿勢が弱い」「もっと突込んだ企画であってほしかった」と、"物足りなさ"を語るケースが圧倒的だった。

 

最後に『琉球新報』の社説の結びを紹介しよう。

「われわれは戦後二十七年たった今日、戦争とはなんであるか、軍隊とはどのような性格を持った集団であるのかを、あらためて考えてみたい。戦時中、久米島にいたあの下士官の発言は、このことを教えてくれる"反面教師"であるのかもしれない。われわれは戦争のみじめさを、忘れたいけれど、忘れずに、あとの世代に伝えて、あのようなことのないよう努力したい」

    
 ◇沖縄のソンミ事件とは◇
 久米島沖縄本島から西へ約百㌔の離島。沖縄戦当時、鹿山正(かやま・ただし)兵曹長(当時32歳)指揮下の日本海軍守備隊四十人近くが駐屯していた。昭和二十年六月二十六日、米軍上陸後、鹿山隊は山岳地帯にたてこもったが、住民が米軍に通じることを恐れ、米軍上陸の翌二十七日、仲里村山城の郵便局員が米軍から投降文書を強制的に持ってこさせられたのをスパイ容疑で銃殺したのを皮切りに、具志川村北原区長ら四家族九人を集めて刺殺焼打ちするなど連続的に民間人を"処刑"。終戦後も朝鮮人谷川昇さん一家七人や久米島を艦砲射撃から救い戦争犠牲を防止したといわれる仲村渠明勇さん一家三人を殺すなど、二十人を直接殺害、自殺や餓死を含めれば七十人近い民間人を犠牲にした。

 

よく聞かれる、本土側の「戦争の犠牲は沖縄だけではない」は、多数派という幻想のなかに生きる日本の限りない無責任さと無関心を表す。本土では、広島や長崎の原爆犠牲者に対して「戦争の犠牲は広島だけではない」「戦争の犠牲は長崎だけではない」と通用するのだろうか。

 

本土のために寝技作戦の捨て石とされた沖縄戦、その膨大な破壊と死と占領を無効化するような言葉が、何度も何度も沖縄に対してだけ出てくるのは、日本が沖縄に甘え、依存し、差別しながらも、戦後も変わらず圧倒的な犠牲を沖縄に押しつけているうしろめたさがあるからである。

 

ちなみに、この時期、まだ沖縄の施政権が移行されてもいない時期から、つまり何ら甘える甘えない以前の段階から、「沖繩を甘やかすな、沖繩は過保護だ、沖縄を肥満児にするな、といった発言が飛び交った。日本の捨て石戦争のせいで、沖縄はいまだ米軍占領下にあるというのに、いつ沖縄は日本に甘やかされただろうか

「沖縄対策は過保護のきらいがある。甘やかすな」。沖縄返還協定の調印を控えた1971年6月15日、当時の根本龍太郎自治相臨時代理が閣議後会見で発した言葉だ。

<金口木舌>「甘えるな」 - 琉球新報デジタル

 

米軍基地建設を請け負い、占領下の沖縄にやってきて、米軍にアイスクリームやキャンディーをもらっていたのは本土のゼネコンや政治家たったはずだが、「庶民は下見て暮らせ」的に全体主義を丸出しにする日本のこのような政治に沖縄の施政権が移されることに、どんな希望と意味があるだろうか。

沖縄は本土でいえば一県にすぎないのに〝主席〟だのなんだのといっているが、まるで中一、よそに預けた子供がかえってくるからといってアイスクリームだ、キャンディーだ、シューマイだと一度に与えたら過保護で肥満児になってしまう。本土にも過疎県がある。あまり「沖縄」ばかりさわぐとこれら過疎県で不満がつのってよい影響を与えない。このことは自治省幹部にも十分考慮するよう話してある。

 

以上、サンデー毎日 1972年4月23日のスクープ記事第二弾を検証した。

 

第三弾では、お国の為にやった、ワシは日本軍としての誇りがある、と豪語する鹿山が、どのように女性や子供や老人を容赦なく惨殺し、16歳の少女を襲って囲いこみ連れまわし、切り捨てたか、次の第三弾では、翌月1972年6月のサンデー毎日スクープ「現地妻が告白する『沖縄の怨』」を検証し、この鹿山手記の偽善を暴き、残虐性とエゴと無責任さをあぶりだしたい。

 

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