【Archive 1-2】 長門原共同墓地 - 古知屋 (宜野座村松田) の収容所

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《AIによるカラー処理》

【原文】 Scene in Kin, where native okinawa evacuees were brought for shelter and medical treatments. Marine Corps trucks brought these people from various parts of the island where they had been made homeless because of the war.
【和訳】 金武の町。米軍は、戦災によって家を失った沖縄島各地の人々を保護し、治療を受けさせるために、海兵隊のトラックでここに集めた。
撮影日: 1945年 4月26日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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《AIによるカラー処理》

【原文】 Scene at town of Kin, where native Okinawa evacuees were brought for shelter and medical treatment.
【和訳】 地元の避難民がいる金武町の風景。保護と診療を受けるために連れてこられた。
撮影地: 金武町
撮影日: 1945年 4月26日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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*古知屋(現在の宜野座村松田)
 五月中旬頃、地元の住民と玉城村・佐敷村・東風平村・南風原村・大里村などからの避難民(沖縄戦直前の疎開者)を収容した。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民が、幾つかの収容所を経て送りこまれた。収容所は、潟原・古知屋・高松・前原・兼久のブロックに分かれていたが、行政は高松市と古知屋市となっていた。難民の数は約3万5000人。六月から十二月にかけて、多くの飢餓難民が死んだ
 死没者名簿で確認されただけでも四二七人、死者の八割は幼児と高齢者であった。・・・・

 古知屋も福山も中川も、食糧増産のために、沖縄県直営の金武開墾が計画された場所である。未墾の原野が難民収容所となって、多くの難民が飢えて死んだ。

読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争

  

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読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所

  

戦禍を掘る 

[6] 長門原共同墓地 避難先で次々他界
 引き取り待つ遺骨、今も

 

 「あちこちの三角小屋に煙たち、古知屋の村はにぎわいにけり」―。

 

これは沖縄戦終戦直後、古知屋(現在の宜野座村松田区)の青空教室で教べんをとっていた故翁長助静氏が、古知屋の風景を生徒たちによんだものだが、温かな風景の中で慟哭(どうこく)の地獄が繰り返された。

 

(註: 翁長助静(すけしず)(1907~1983)は現那覇市市長などを歴任した保守系政治家。翁長雄志沖縄県知事の父。)

 

 宜野座村役場に赤茶けてボロボロになったノートが保管されている。字も読みとることが困難なこのノートは、昭和20年6月から7カ月間、古知屋の避難所で亡くなった人の名簿である。

 

 当時、本島中・南部の民間人の多くが北部に疎開沖縄戦集結とともに宜野座の各部落に収容された。そのため米占領軍は暫定措置として宜野座村内に漢那、福山、惣慶、宜野座、古知屋、高松の6市を設定し、その人らを収容した。

 

 そのころの人口は6市を合わせると10万人を超えた。現在の宜野座村の人口が4000人余なので、その数がいかに多かったかが分かる。古知屋も隣接の高松市と合わせ3万4000人を数え、往来が激しかった。「これが古知屋かと思うほど、いっぱい人がいました。でも知っている人は10人出会って1人ぐらいだった」と地元の人は当時のもようを語る。膨れ上がる人口に追いつけず食糧は底をつき、飢えやマラリアで死んでいく人が後を絶たなかった。

 

 ノートの作成者は古知屋で農業を営んでいた故比嘉平助さん。当時、行政機関がなく、古知屋避難所が所有地に含まれていたこともあって、比嘉さんはいとこの大城源助さんと協力して死んでいく者の名前、年齢、住所を一つひとつ丁寧に記載し、墓標を作り、埋葬した。その数はノートに書かれた名前だけで第1墓地600人第2墓地800人計1400人に上った。戦後、1年たち、2年たつと落ち着きを取り戻した遺族らが遺骨を引き取りにきたが、その一人ひとりに比嘉さんはノートに記載された墓標番号と埋葬番号を合わせながら、遺骨の引き取りに立ち会った。個人でできる最大限の努力だった。

 

 ノートはその後、衛生所や役場など点々と回され現在にいたっているが、その間にバラバラになり、一部は紛失した。現存するノートに書かれている名前は約400人余。まだ字が読みとれる時に、役場の職員が残っている名簿から新たに書き移したものを見ると、名簿の一番最初には「当間正行、二歳、豊見城、一九四五年六月三十日」と書かれており、その後は3歳、2歳、5歳と小さな子の名前が続く。

 

 比嘉さんの娘にあたる比嘉米子さん(52)=宜野座村松田=は言う。「私は当時14歳で埋葬に父と一緒に立ち会った。一番最初に埋葬した赤ちゃんははっきり覚えています。とても悲しかった」。その悲しみが地獄の入り口となり、その後、1400人が死んでいった。

 

 第1墓地の600柱は既にすべて遺族が引き取ったという。今回、県を通し厚生省に収骨作業を依頼しているのは第2墓地と呼ばれた4400平方メートルの長門原共同墓地。800柱のうち、ほとんどが収骨されたが、まだ残っている。厚生省に提出した報告書によれば、推定柱数は「50~60」。たとえ一柱でも収骨せねばならないし急がねばならない。

 

(「戦禍を掘る」取材班)

1983年8月20日掲載