宜野座の収容所と宜野座米軍野戦病院 - 宜野座地区軍政府G6-59病院

 

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宜野座(現在の宜野座村宜野座・惣慶・福山)
 五月中旬頃、地元の住民と玉城村・東風平村・南風原村・大里村・佐敷村などからの避難民(沖縄戦直前の疎開者)を収容した。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民が幾つかの収容所を経て送りこまれた。収容所は、宜野座・大久保・惣慶・福山のブロックに分かれていたが、行政は宜野座市・惣慶市・福山市となっていた。難民の数は約四万人宜野座収容所には米軍の野戦病院が置かれ、収容所の女性たちは病院の看護助手として働らかされ、男性は死者の埋葬に追われた。福山の共同墓地死亡者名簿で見ると、六〇三人の死者が確認されている。
 一九八四年(昭和五十九)の夏、村中央体育館の建設にあたって、宜野座村では米軍野戦病院の集団埋葬地で収骨作業を行い、一六一柱を収骨した。もちろん、これが収容所での死亡者の全てではない。
 宜野座・惣慶・福山の収容所で死んだ難民は、中南部全域の市町村の出身者であった。一九四五年(昭和二十)九月に宜野座市・惣慶市・福山市を統合して宜野座市となった。

読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争

 

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 Scene at town of Kin, where native okinawa evacuees were brought for shelter and medical treatments.
金武の町。(沖縄島各地の)避難民が保護や診療を受けるために連れてこられた。
撮影地: 金武町
撮影日: 1945年 4月26日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Sick call for natives in dispensary at AMG hospital.
米軍政府病院の診療室で沖縄の住民のための診療呼集 撮影地: 宜野座

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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宜野座村野戦病院共同墓地です。戦争の終わりにかけて、宜野座村内で収容された民間人は10万人余りに上ったといいます。収容所にはアメリカ軍の野戦病院が設けられ、ケガをした人の手当てが行われましたが亡くなる人は後を絶ちませんでした。このため作られたのが共同墓地です。

宜野座村立博物館に、村内の収容所ごとにつくられた、共同墓地に埋葬された人の名簿が残っています。今では共同墓地があったことすら知る人は少なくなりました。しかし、6月23日の慰霊の日になると博物館に足を運ぶ人はいるといいます。共同墓地があった場所は博物館のすぐ近くです。

野戦病院共同墓地(宜野座村)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

 

以下は琉球新報 1983年当時の連載記事です。

戦禍を掘る

戦火に追われ仮埋葬 遺族、判別つかぬ遺骨に涙

 戦没者や遺族にとっては、戦争の痕跡は永久に消えることがない。加えて、遺骨収集や不発弾処理は不十分。戦士場所の確認、離散者の再会はままならず、戦争を引きずりながら、いらだちと傷心の中で戦後38年目の8月15日を迎える人たちも多い。

 

 敗戦―異民族支配―復帰闘争―経済混乱と、激動の戦後を必死に生き抜き、今なお基地被害にあえぐ沖縄県民。一方では時の流れに乗じて沖縄戦の「風化」が様子を伺い、「復興だ、繁栄だ」と賛美する中で、私たちは果たして戦禍を掘り尽くしたか、戦後の原点が問われているのではあるまいか。

 

 未収骨や不発弾を枕に、あるいは戦死場所も分からずに悲しみに暮れる遺族をしり目に、戦後と決別することはできまい。また、戦争にまつわる「たずね人」の多さも、終わらぬ戦後の証明であろう。

 

 「恒久平和の誓い」と「戦後処理の徹底」は、唯一の地上戦となった沖縄県民にとって車の両輪と思う。年ごとに老いていく遺族や戦災者たちを見るにつけ、戦禍の発掘は急務だ。ここでは、「最後の一柱までの収骨」「最後の一発までの処理」「より多くの出会い」を目指して、取り残した戦禍を掘り起こしたい。

 

 それは骨というより土に近かった。持ち上げれば音もなく崩れてしまいそうなほどで、土に帰るとは、こういうことかと考えた。

 

 沖縄戦末期から終戦にかけて、宜野座村に仮設された米軍野戦病院には本島・南部から傷ついた多くの民間人が運ばれてきた。戦禍が進むにつれ、負傷者の数も増えていった。皮膚がただれ、手足がもがれ、ウジがわいていた。簡単な手当てさえも受けられず息を引き取る人は後を断たず、中には運ばれる途中でなくなった人もいた。次々と死んでいく人は、病院近くの雑木林に埋葬され、やがてゴミのように捨てられていった。

 

 埋葬場所は現在の宜野座村沖縄自動車道入り口一帯。今回の発掘はその一部分で、現場が村立体育館予定地であったため、「わすかでも遺骨が埋まっているなら、それを収骨してから」と始められた。

 

 6月20日から、現場の草刈り、松の伐採、表土はぎが行われ、100を超す土こうが確認された。そして、7月4日から本格的に収骨が開始されると、1日に10柱、20柱と次々と遺骨が掘り出された。また、穴からは遺品とともに、米兵がよく飲んでいたというコーラの瓶もいくつか出てきた。遺族が墓の目印や花入れに使ったという。今、私たちが飲んでいるコーラと何ら変わらない瓶に、変わる者と変わらない物の対比が悲しかった。

 

 収骨は20日までに168穴、161柱を数えた。遺骨のない穴も多くあった。遺族が既に収骨したためという。しかし、一方では一つの穴に4、5柱も埋められたものも多かった。

 

 「あれはもう墓とは呼べません。穴の壁に背をもたれた遺骨のそばで、うつぶせ、あおむけの遺骨が折り重なっていて、投げ捨てられた状態でした。いくつかは遺骨のそばに遺品が置かれ、墓と呼べるようなものもありました。当時としては精いっぱいの弔いだったと思います」と語るのは、現場で収骨作業を指示し、ずっと見守ってきた知名定順発掘調査員(宜野座村教育委員会文化財係)。

 

 知名さんはこれまで文化財を手がけてきたため、収骨作業も他に見られぬほど丁寧に進められた。「遺族の方がいつ来ても、確認が取れるように」と土化している遺骨を一柱ずつビニール袋に入れ、埋葬番号、その状態などを詳しく記帳した。

 

 現場には毎日何人もの遺族が訪れた。何度も足を運ぶ人も少なくなかった。知名さんの説明を受け、掘られた穴を見つめる遺族の胸のうちはいかほどであったろうか。

 

 「母の遺体だけ埋めた」と遺族が確信する穴から4柱の遺骨が出た。「この中の1柱に間違いない」「そうかもしれない」「でも1体しか…」胸をかきむしられる思いで遺骨を捜す遺族と、大声で泣き叫びたかろう遺骨との対面が何度となくありながら、実らなかった。

 

 名前が書かれた墓標が七つ、番号が刻まれた鑑札が七つ、遺品として出てきた。黄と黒で染められた琉球絣の切れ端も出た。カンプーを結った髪の毛も、くしも、水筒も…。出てこなかったのは名乗り出る遺族だけだった。

 

 7月24日午後2時から行われた「合同慰霊祭」には遺族ら約500人が参列した。炎天下だった。多くの出席者は涙をこらえながら合掌した。目を真っ赤にはらしたおばあさんの姿が印象的だった。4歳の息子を失ったと言う。

 

 知名さんが語っていた。「木の根っこがそこだけ丸く、円を描いていました。恐らく子どもの頭ガイ骨を抱いて根が伸びたと思う」。遺骨は土になっていた。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年8月14日掲載

 

空腹 暑くて臭くて ほとんど重症の民間人

  昭和20年6月、宜野座地区軍政府G6―59病院として宜野座に仮設された野戦病院は負傷者のほとんどが重症の民間人だった。

 

 病院は国道329号(旧県道)を挟むように広がり、現在の宜野座小学校の地には、ABCDEとアルファベットで呼ばれた大型野戦テント群が並び、そのかたわらに調理場があった。一方、道向かい(現在の村役場と村保育園の間)にも兵舎と避難小屋に囲まれるように病院のテント群があった。どのテントにも詰め込むように木製の折りたたみ簡易ベッドが並んでいた。

 

 病院内は異臭を放っていた。

 

 むし風呂のようなテントの中で、顔がやけただれ手当てを待つもの、ウジ虫が傷口からわいている者、ベッドの上で用をたす者、「ウーウー」と言葉にならない声の中をハエが飛びかっていた。

 

 「オーベーブーブーだったさー(ハエが飛んでいた)」と大嶺尚子さん(55)=宜野座村城原、当時17歳。大嶺さんは当時、病院内で看護の手伝いをしていた。

 

 「暑くて、ひもじくて、臭くて大変でしたよ」と大嶺さん。「背中がただれた人やひきつけを起こしベッドから落ち、もがき苦しんでいる人。きのうまでいた人がきょう見てみると死んでいる。死に対する恐怖がなくなっていたんでしょうね。『あの人はあしたまでだな』なんて考えていましたから。こわい時代です」とたんたんと語る。

 

 太陽の熱を帯びた緑色のテントの中に暑く、身動きの取れない負傷者は汗だくとなる。着のみ着のまま、汗をかいても思い通りに洗濯さえもできない。テントのすそをめくり、テント内に風を送り込む。風は入るが日光がじかに患者を照らした。

 

 「でも今だから、暑かったとか、臭かったとか思い出せるんで、あのころは、そんな事はあまり感じませんでした。ただ、おなかがすいていたのは今でもはっきり覚えています」

 

 「ひもじい、ひもじい」の声がいつも聞こえていた。大嶺さんは言う。「あんなに大けがをしているのに、言う言葉はいつも『おなかがすいた』。おなかがすくと痛くなくなるのですかね。不思議でした」

 

 病院での食事は1日朝と夕の2食。朝8時ごろにピンポン玉を大きくしたようなにぎり飯と塩水のようなスープが出る。夕方は5時ごろ、おにぎりとか大豆を煮たものが配られる。2食合わせても1食分に足りなかったという。

 

 当時、沖縄県の人口課課長だった故浦崎純氏も宜野座病院で入院した一人だが、空襲について、同氏の著書『沖縄かく戦えり』の中でこう言っている。

 

朝、目がさめる。私は食事のことしか考えなかった。夜中にふと目がさめる。やはり食べ物のことを考えていた。

 

(中略)傷口のまわりを押えるとウミが噴き出した。痛くて我慢のしようのないほどだった。しかしその痛みも食事をとったあとのしばらくの間だけで、いつの間にか消えていた。(中略)人間が無我夢中で空腹に耐える間、その人間の全神経は空腹と対決するために集中するらしい。

 

 取材の中で出会った当時病院にいた看護婦、患者、遺族の人らは口をそろえるように「食べ物を欲しかった」と語っていた。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年8月15日掲載

 

重症患者を“薬殺” 死者から肝臓抜き取る

病室となった各テントには米兵下士官クラスの衛生兵が1人ないし2人配置され、その下に沖縄人の班長がおり、さらにその下に沖縄人労務者が数人いた。彼らはほとんどが捕虜として捕らわれていた者で、男性は主にテント張り、負傷者の運搬など力仕事をし、女性は看護の手伝いや食事を作ったりした。医者は内科や歯科、眼科医が5、6人いるだけで肝心の外科医や正規の看護婦は1人もいなかったという。

 

 “入院”していた人の数は300人とも500人以上ともいわれている。それは本島中・南部から2トン半トラックで運ばれてくる負傷者が毎日のことで、それと数を合わすように死んでいく人も多かったからだ。病院そばに設けられた“遺体置場”に2、3日、放置され、遺族を捜し、その後、捨てられていった。その数は多い時で1日30人を超えた。

 

 その遺体を埋める穴掘りにも沖縄人の捕虜が充てられた。10人ぐらいが1グループとなり、午前8時半から午後4時半ごろまで、スコップとつるはしを手に懸命に掘った。

 

 その作業をしていた宮城亀太郎さん(55)=宜野座村宜野座、当時17歳=は言う。

 

 「毎朝、捕虜収容所を出ると病院そばにあった安置所の遺体の数を確認してから現場に行きました。遺体は数日も置かれているため、みんな胸や足がふくらんでいました。埋める時には緑色の毛布にくるんで、投げ込むように一つの穴に何体も埋められました。6、70代の年配の女性が多かったように思います」

 

 2人で一つの穴を掘り、多い時で1日32人、普通でも5、7人の遺体が埋められた、と語る。

 

 みなが嫌がる作業であったため、穴掘りには特に大きなおにぎりが1個配られた。「ただそれだけでやったようなものです」と宮城さんは言う。

 

 死んでいく者も多かったが、殺された者も少なくなかった。特に重症患者はそうだった。治る見込みのない患者が炎天下に野ざらしになっているのを見た人がいる。

 

 また当時、宜野座病院でAテントの班長をやり、沖縄人(日本人)ではただ1人医師待遇を受けていた故渡慶次柴本氏は「米軍野戦病院で見たもの」と題した覚書を「那覇市史」に寄せている。その中に次のような一文がある。

 

 患者が少しでもうなり声を出していると(略)軍医がきて、その患者に、最初はモルヒネの注射をした。それが効いてふらふらになったところに、今度は白い液を20ccほど注射した。それが半分ぐらい入ったかと思うと、まるで歯ぎしりしているかのように、体中の腱がパチパチと音を立てて硬直した。そのとたん患者はぐったりした。

 

 このほか、渡慶次氏の覚書には、病院の様子について、いくつものショッキングな記述がある。

 

 「この病院で死んだ者は男女の区別なく、老いも若いも全部肝臓を切り取られた」「病院に勤務するMPは、白昼女の患者を乱暴した」「日本兵2人を一言もいわさず射殺した」など。

 

 一体、患者から肝臓を抜き取って何に使ったのだろうか。病院内での乱暴、射殺といった事は、取材中、だれの記憶にもなかった。だが、だれも「あり得ない事」とは言わなかった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1983年8月16日掲載

 

死ぬ前の“清め風呂” 生死を決めた母との再会

 

宜野座の米軍野戦病院にいた負傷者らは300人から500人といわれている。一方、今回発掘された遺骨は161柱。そのそばの松林にも100柱から200柱が眠っているという。また、15年前にも発掘が行われ数多くの収骨があった。それ以外にも戦後、遺族がそれぞれ収骨したのもある。一体何人がこの病院で亡くなったのだろうか。

 

 もちろん、亡くなった人ばかりではない。けがも回復し、元気になった人も多くいる。ただ戦争で受けたきずはいえても、記憶に刻まれた悲惨な戦争体験は決して消えることはない。

 

 「宜野座へ行く者は二度と帰ってこない」―当時、胡屋にあった収容所ではうわさされた。それほど重症の者が宜野座野戦病院には運ばれた。

 

 糸満で戦禍に巻き込まれ、火炎放射器で体の左半身に大やけどを負ったA子さん(53)=名護市辺野古、当時15歳=は中城、胡屋の収容所の後、宜野座病院に運ばれた。胡屋にいた人と終戦後、偶然道で出会ったら「あんた生きてたの」と言われたと言う。

 

 運よくA子さんは2、3カ月でやけども治り、近くの大久保収容所に移った。「ウジ虫が傷口からわいている人はたくさんいましたよ。でも、みんなそんなふうだったので、あまり気にとまらなかった。それよりも、壕でガスを吸った人が息たえだえにもがき苦しんでいるのがかわいそうで目に焼きついています」と話す。そしてそれより鮮明に印象に残っているのは母親との病院での再会だった。

 

 宜野座の古知屋(現在の松田)収容所にいたころ、戦場で離ればなれになった母が宜野座病院のBテントにいることを聞かされた。それから毎日のようにBテント内を捜し回った。

 

 Bテントは十字型テント。中央には衛生兵の詰所があり、そこから四方に4列ずつベッドが並んでいる。1人ひとり顔を確認しながら、何度もテント内を回った。しかし、捜せなかった。1週間通い、あきらめて帰ろうとした時、患者から呼びとめられた。知り合いのおばさんだった。ところが、その人の向こう側のベッドに座り、A子さんを見ている母がいた。

 

 「あんなに一生懸命捜して見つからなかったのに」偶然の出会いに驚く。しかも、母は、その時娘のA子さんを見ていたのではなく、ぼう然と座っていただけと言う。「あすになればふろに入れられる」と言うおばさんの言葉でA子さんはその日のうちに母を背負い古知屋に帰った。重症患者は死ぬ(殺す)前にふろに入れられ、身を清める。そこから、ふろに入るとは死を意味していた。

 

 母親は現在91歳。目は見えず体は少し不自由だが、まだまだ元気。生死を決めた出会いだった。

 

 A子さんは言う。「あの時は天皇のため、国のためと頑張ってきたけど、一体天皇というのは何かね。みんなの命をあんなにも簡単に奪う戦争はただの殺し勝負。今でも天皇と聞くと腹がたってしようがない。でも、天皇という人物が悪いとは思っていない。『天皇』という2文字が憎いだけ」。

 

(「戦禍を掘る」取材班)
1983年8月17日掲載

 

慰霊祭に遺族500人 炎天下の中、不思議な大雨

 

 宜野座村が自力で野戦病院の遺骨発掘を始めた―と報道されると、役場に電話をかける人や現場に訪れる人が県内のいたる所から相次いだ。

 

 南風原町新川に住む冨名腰朝勇さん(67)とツルさん(64)夫婦は病院で母・カメさんを亡くした。今回の発掘で朝勇さんが作ったカメさんの墓標が見つかり、現場に3度足を運んだ。だが、「埋めたのは母の遺体だけ」と記憶していた穴からは4柱の遺骨が出てきた。

 

 「それなら、母は体がとても大きかったので、4柱の中で一番大きな骨を収骨しようと思ったのですが、骨は粉々で大小も分からないほど。もし残り3柱の遺族の方でも分かれば、遺骨を4等分でもしたかったのですが…」と朝勇さんは語った。

 

 カメさんは右足をけが、そこがはれて、水のような液体が出てくるようになった。やがて体中から出て、あてがわれた毛布が、その液体でしぼれるほどになった。朝勇さんとツルさんの看病もむなしく昭和20年10月3日、カメさんは息を引き取った。

 

 その後3日ほど“安置所”に置かれ、埋葬された。朝勇さんは毎日安置所へ行き何度も遺体を引き取らせてもらうよう哀願したがが、聞き入れてもらえなかった。わずかな希望を託した墓標さえ38年という時間の重みに押しつぶされてしまった。

 

 現場で発掘作業を指示した知名定順調査員は「遺骨はいつまでもあるものではありません。一日でも早く収骨すべきです。特に酸性土壌の土地は早急にやらなければ」と訴えた。

 

 11歳の兄を失った高良美恵子さん(46)=那覇市小禄、当時8歳=もひまを見つけては何度も母・津波チエさん(69)とともに現場を訪れた。

 当時、兄が亡くなったと知って母から「土が口に入ったら、かわいそう」とわたされた茶色の丹前を持って、高良さんは埋葬に立ち会った。「確か兄さんだけ埋められた」はずの穴から、4柱出た。

 

 つやのある丹前。兄を埋めた後のこんもり盛り上がった土。そんなことが小さな記憶に残っている。

 

 「25年ほど前に1度自分たちで発掘したことがありますが、無理でした。これだけ大規模な作業です。ここまでやってくれた宜野座村に対し、とてもありがたく思っています。これで一区切りがついた感じです」と美恵子さん。この言葉は遺族らの率直な気持ちに違いない。

 

 宜野座村での野戦病院戦没者慰霊祭の当日。参列した遺族らは500人を超え、村など関係者の予想をはるかに上回った。しかし、この中の多くの遺族は、この病院で亡くなったという確信さえない人たちだ。「山原で死んだ」「病院で見た人がいる」「この辺りで死んだと思う」。そんな人たちが500人の数となった。

 

 発掘現場そばが会場となり、その一角に遺品が展示されていた。歯の欠けたくし、金歯があざやかな入れ歯。50点余の遺品を取り囲んでじっとみつめる遺族。遺骨が発掘された土こうをのぞき込む遺族。遺品に、穴の奥に、何を見たのだろうか。

 

 161柱の遺骨が摩文仁にある国立沖縄戦没者墓苑に運ばれ慰霊祭が終わった。それを待っていたかのように激しく地を打つ雨となった。炎天下の中の不思議な大雨だった。

(「戦禍を掘る」取材班)

1983年8月18日掲載

 

『米軍政府は、沖縄本島上陸とともに救護班を編成、戦場の傷病者を野戦病院に収容、民間人収容地区に、テント張り、コンセット(かまぼこ型プレハブ)、崩れ残った民家利用などの地区診療所を設けた。ピーク時の45年7月には、北部金武村の中川、銀原の診療所に5,000人もの外来患者があり、731人が述べ997日入院した。

宜野座の病院では、7月10日には南部や中部の診療所から大挙移ってきた患者が、1日で1,500人のピークに達した。90%が外傷患者で、あとの10%は栄養失調、寄生虫結核、下痢その他の疾病。外科手術をしても34%は術後死亡した。容態が悪化しているのと衰弱が原因だった。患者は一時4,000人にも達し、7割が女性だった。』(46頁)

《「那覇女性史(戦後編)なは・女のあしあと」(那覇市総務部女性室 編/琉球新報社)46頁より》

 

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