尖閣諸島戦時遭難事件「一心丸・友福丸事件」

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手前から南小島、北小島、魚釣島沖縄県尖閣諸島鈴木健児撮影)産経新聞

 

  

1945年

6月30日 台湾疎開の船2隻が石垣島を出港

7月3日 疎開船が米軍の機銃掃射を受1隻は沈没、もう1隻は魚釣島に。

8月12日 救助を求めるための決死隊が魚釣島を出発、

8月14日 決死隊が石垣島へ到着、助けを求めた。

8月16日  八重山の独混第45旅団の要請で台湾の日本軍が軍用機を飛ばし食糧投下

8月18日、救助船到着、翌日石垣島に帰還。6人が取り残される

11月、家族の要請で6人の救助がおこなわれる。

 

一般的に、沖縄戦の組織的戦闘が終わったのは、1945年6月23日とされているが、当時、いったい誰が「既に」沖縄戦が終わったと考えていただろうか。

 

八重山の日本軍は疎開政策を続け、また米軍も航行する日本の船舶は片っ端から攻撃した。

 

1944(昭和19)年のサイパン陥落後、日本政府は南西諸島の老幼婦女子・学童の疎開を決定、沖縄県に対しては10万人を疎開させる命令を出しました。45年3月までに約7万人が九州各県と台湾に疎開しました。その間、「開城丸」(かいじょうまる)「対馬丸」(つしままる)などの疎開船が米軍の航空機や潜水艦により撃沈されました。

開戦後間もない1942(昭和17)年3月、「戦時海運管理令」という法律が成立し、民間の船も軍に徴用されるようになると、米軍は日本の補給路を絶つために、軍民の区別なく攻撃しました。米軍は日本の艦船がよく通る海域に「ヒット・パレード」(Hit Parade)、「船団大学」(Convoy College)などとニックネームをつけ、通過する軍艦や輸送船を次々に沈めていきました。そのうち南西諸島海域は「“丸”の死体置き場」(MaruMorgue)と呼ばれ、学童疎開船の「対馬丸」や民間徴用船「嘉義丸」(かぎまる)、「湖南丸」(こなんまる)などが沈められました。*注① 「ヒット・パレード」は本来、ヒット曲などのリストを指しますが、ここでは英語で「命中」を意味するヒットと語呂合わせになっています。② 「船団大学」は、そこをうまく通過しないと「卒業」できないという意味。

海の沖縄戦展

 

その一つの船舶遭難事件が、いわゆる「尖閣諸島遭難事件」である。

 

1. 魚釣島 3.82 km2

2. 久場島 0.91 km2 (現在は米軍射撃場)

3. 大正島 0.06 km2 (現在は米軍射撃場)

4. 北小島 0.31 km2

5. 南小島 0.40 km2

6. 沖北岩 0.05 km2

7. 飛瀨 0.01 km2

 

わずか面積 3.82 km2 の小さな岩礁がその地獄の戦時遭難事件の舞台であった。

 

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尖閣諸島 過熱する主張 - 領土 - ニュース特集:朝日新聞デジタル

 

米軍の公文書に見る第1千早丸と第5千早丸の攻撃

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<作戦報告書 翻訳>先島群島周辺海域をいつものように巡回する際、見たところ先島諸島から与那国島に19:00の方向に約5ノットの速度で向かうラガー2隻を、ビーミス中尉は公海にて奇襲した。この2隻は黄麻布の大袋と大きな鉄製のドラム缶を大量に積んでいた。ビーミス中尉はこの2隻を、真横に3回、後方に1回、立て続けに計4回攻撃した。爆撃し、機銃掃射する航程があり、最後は機銃掃射のみで終わった。1隻は、船体中央部、前方ウェルに普通爆弾があたり、バラバラに吹き飛び、ほぼ即時に沈んだ。もう1隻は焼夷弾の攻撃を貨物に受け、発火した。この作戦の最後、この損壊と船から離れ水中を泳ぎ回る12-15名の日本人を写真におさめるため、ビーミス中尉は写真を撮りながら特別航行するが、運悪く、カメラにフィルムは残っておらず、その試みは無駄に終わった。この海域を一掃する前に、乗組員はまだ燃えている2隻目の船が海中深く沈むのを見届け、絶対にこの船が救出されることのないようにした。それから我々の軍機は巡回を続けた。

海の沖縄戦展

 

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アメリカ軍機の乗員が撮影した攻撃を受けつつある友福丸(第一千早丸)と一心丸(第五千早丸)。海の沖縄戦展

 

以下、1983年に記録された『琉球新報』の記事で事件の証言を見ていきたい。

 

戦禍を掘る 出会いの十字路

 

[69]尖閣諸島遭難(1)無人島で飢餓地獄

(1)無人島で飢餓地獄 ~ 軍から台湾疎開命令

 沖縄本島で戦闘がほぼ終わった昭和20年6月30日。その夜、石垣のふ頭には台湾に向かう疎開船に乗り込む住民で慌ただしさを見せていた。2隻の船は軍が徴用した第一千早丸(友福丸)、第五千早丸(一心丸)。この2隻に乗り込んだ住民は概数ながらも120、180、240人とばらつきがあるが、船室をギッシリと埋めていた。

 

 「軍の命令で仕方なく乗ったが足も伸ばせないくらいの人だった」と言うのは石堂オトさん(86)=那覇市首里。製糖会社に勤めていた夫は南方で働くため那覇まで出たところで足止め、終戦宮古で迎えた。長男は台湾の高校に送り出しており、女学校に通う長女を頭に幼稚園の3男まで男2人、女2人を連れての疎開だった。

 

 石垣島でも米軍の空襲を避けるため山地疎開が行われていたし、波照間島では西表島への強制疎開で住民がマラリアと気がで地獄の苦しみを味わっていた。この疎開船は1週間ほど前に軍から出された台湾疎開命令を受けてのものだった。

 

 沖縄戦6月23日で終わったとされているが、宮古八重山では日本が降伏する8月15日まで戦闘状態が続いていた。そのことが、また一つの悲劇を生んでいく。尖閣諸島遭難事件だ。「台湾疎開石垣町民遭難事件」、あるいは船名をとって「一心丸・友福丸事件」とも呼ばれている。

 

 住民を中心に軍人、台湾人、朝鮮人が米軍機からの攻撃、その後の無人島生活で70人が死んだと言われ、生還後も衰弱で20人近くが死んだが、この事件は広く知られてない。生還者の多くが、この地獄の体験に口を閉ざした。

 

 遭難者の体験が初めてまとめられたのは復帰後出された「県史第10巻」。石垣市登野城に住む石垣美智さん(当時42歳)ら石垣、宮古出身者6人が体験を寄せ、その後、「記録集」をはじめとする出版物で明らかにされはじめた。

 

 遭難を語る石堂さんの言葉も重かった。遠い過去を呼び起こすことは高齢者にとっては、簡単な作業ではないが、それを差し引いてもつらいそぶりがうかがえた。

 

 女手に子ども4人を連れての自給自足の生活を50日近くも送った体験は、「まだサルの方がきれいだった」と言う。「一度だけアホウドリを食べたが、あれほどうまいと思ったことはない」、飢餓との闘いだった。

 

 その地獄を関係者の証言で出港から順を追って見よう。

 

 石垣市新川、金城珍吉さん(64)によると、一心丸、友福丸はいずれも150トン、南方での貝採り漁船だった。独立混成第45師団は米軍の制空下にあった石垣―台湾間のルート確保のため、昭和20年春、水軍隊(隊長・長川小太郎陸軍少尉)を創設、漁船を徴用して第一千早丸、第三千早丸、第五千早丸の3隻からなる船団を組織した。船長、機関長、船員は丸ごと軍属とされた。船には軽機関銃が据えられ、地元出身者を含む兵隊が乗り組んだ。水軍隊は石垣島から尖閣諸島をう回、基隆へ向かう航路を開拓。5月、食糧・武器弾薬の輸送に成功している。

 

 この6月30日の出航が2回目だった。このとき、第三千早丸は機関故障のため、出航していない。台湾行きの空船に疎開民を乗せることになった。台湾疎開は昭和19年から行われており、新竹州桃園に疎開した伊良皆高吉県議(当時小学校1年)によると、疎開先では急ごしらえの学校も開設されていたという。距離的に近いこともあって、戦前は台湾へ就職、出稼ぎ、就学で行くものも多く、つながりは深かった。

 

 運命の6月30日午後9時ごろ(時間も証言者によって多少異なる)、闇(やみ)にまぎれて、疎開民を乗せた船団は石垣港を離れた。

 

1983年12月14日掲載

 

 [70]尖閣諸島遭難(2)米軍機の機銃浴びる

(2)米軍機の機銃浴びる ~ 九死に一生を得た後に…

 6月30日夜、石垣港を出た船団は一路、西表島の舟浮港へ向かった。船団は第一千早丸(友福丸)、第五千早丸(一心丸)のほかに、より小さな1隻の船も加わった。3隻目の船には傷病兵らが乗船し、与那国経由で台湾へ。疎開民を乗せた2隻が尖閣諸島経由で台湾へ向かうコースをとった。直行する船団は水軍隊の長川少尉、疎開船は山内厳軍曹が指揮をとった。

 

 大浜永充さん(75)=石垣市登野城=は当時八重山郵便局勤務。

 

 「当時、郵便局の業務は中断しており、白水、外山田へ職員は避難していた。私も家族が台湾へ疎開していたので、郵便局の同僚とともに外山田へいっていた。食糧が不足していることもあって、基隆の郵便局へ職員用の食糧を送るように送金したが、なかなか届かない。それで台湾に詳しい職員を派遣することにした。船は危ないというので、飛行機にしようとしたが、飛ばない。そのうち、疎開船が出るというので希望して、乗り込んだ。私自身、以前、台湾の郵便局に勤めたこともあり、他に希望者もいなかった。名目は公用だった」

 

 「友福丸に乗った。大川、石垣の人が乗っており、他の船には登野城、新川の人。公用だったので、好きな船を選んだ」

 

 「出港間もなく、石垣の街が燃えているのが見えた。後で知ったのだが、八重山郵便局もその時、燃えた。舟浮を出港したのは7月2日」

 

 当時、一心丸の機関長だった金城珍吉さん(64)の話によると、「7月2日午後7時ごろ、舟浮港を出て、1回目と同じ航路(尖閣諸島経由)を取って7月3日午後5時ごろ、基隆港に入る予定」だった。波もなく、風も静かで、疎開者の中からは楽しそうな歌声も聞こえてきたという。

 

 ところが、入港予定間近の3日午後2時ごろ、2隻の疎開船は米軍機に捕捉される。B24といわれている。

 

 老父母と親類の老女3人を伴って一心丸に乗り込んでいた石垣市大川の宮良当智さん(当時59歳、故人)の手記(県史第10巻)は攻撃のもようを生々しく伝えている。

 

 「大洋の真っただ中、防空壕もなければ身を隠す草むらもない。九死に一生の望みも薄く一同は絶望のふちに沈む。爆音が大きく聞こえたと同時に機銃が乱射され、右側の老婆が一声叫んだままうち伏してしまい、左側の子がやられ、前の人が重傷を負いうなり出した。無意識に船倉をとび出し、デッキに出ると、そこにも息を乱して絶命している者、手首をとられてうめきもだえている者などがあちこちにいた」

 

 B24は繰り返し攻撃した。一心丸は火災を起こし、逃げ遅れた者は生きながら焼かれた。火から逃れようと次々に海へ飛び込んだ。

 

 「敵機が来ているというので、半信半疑で、甲板へ出たらいきなり銃撃。こちらの機関銃隊も撃ったが、当たってもバラバラ落ちてくるだけ。敵の顔も見える距離だった」と金城さん。

 

 この攻撃で疎開民約70人が死亡した。この中には大浜用要元県会副議長、石垣孫養元県議もいた。一心丸の宮城三郎船長、船員の池原親昌さん、友福丸の名嘉真武秀機関長も死亡した。

 

 敵機の攻撃から九死に一生を得た人にはホッとする間もない。このあと地獄の苦しみが待ち受けていることは、だれ一人として予想できなかった。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年12月15日掲載

 

[71]尖閣諸島遭難

(3)餓死者の死臭 島覆う ~ “生”のため何でも食糧に

 殺りくの限りをつくした米軍機は去った。幸いに炎上しなかった第一千早丸(友福丸)から小伝馬舟が出され、海上を漂流していた人々を収容した。だが、年寄り、子供、女性の多い疎開民だけに、水死したのが多かった。友福丸の名嘉真機関長は即死したが、炎上沈没した第五千早丸(一心丸)の金城珍吉機関長は無事で、懸命の機関修理が続けられた。翌4日午前7時ごろ、やっとエンジンが動き、尖閣諸島魚釣島にたどりついた。

 

 米軍機の機銃掃射の時、船室で4人の子を抱き、“地獄”の通り過ぎるのを待った石堂モトさん(86)は「降りなさいと言われて出て見たら何にもない無人島。台湾に向かっているとばかり思っていた」と言う。

 

 魚釣島に上陸した疎開者の中に石垣市大川、宮良幸子さん(77)の家族がいた。当時小学校5年生だった長女を頭に下は1歳半の幼児まで2男5女。

 

 夫の廉良さん(当時42歳)は防衛隊に応召、家族は白水に避難していた。「子持ちだから早めに疎開するようにいわれていたし、主人の兄弟、叔母は早めに疎開していた。台湾は広いし、安心だ」というので思い切って疎開することにした宮良さん一家だった。

 

 無人島での生活が始まった。最初のころは共同炊事だった。疎開者の所持していた食糧の徴発が行われた。ドラム缶にわずかばかりの米、クバのしん芽、食用になる野菜を拾い集めて煮たもので、初めのころはとてもノドを通るものではなかった。

 

 米、カツオ節をすべて供出した宮良さんだったが、1週間後、共同炊事が突然中止される。食べ物は各自で探すことになった。その日から母子8人が生きるため、想像を絶する闘いが始まった。「最初はみず菜、長命草を集めたが、すぐに尽きて…。“甘い草は食べられる”というので、何でも食べた。水は豊富だった。天然の塩が波打ち際に雪のように真っ白にたまっていた」

 

 クバのしん芽は貴重な食べ物だった。上部を切り落とし、葉になる部分の若いしん芽が食べられる。しかし、切り倒すには体力が必要だった。

 

 ヤドカリも食べた。アダンの下にいるヤドカリを集めたが、逃げるのが速い。衰弱した遭難者の体力がやがてヤドカリの速さに追いつけなくなった。ある日、食糧探しで、二女の信子さん(当時小学3年生)がスズメを拾ってきた。わずかばかりの肉片がこの夜、宮良家の8人にとってすばらしい、ごちそうとなった。

 

 こうした生活の中でも、宮良さん母子は石垣島に残っている夫(父親)が行方不明になった自分たちを思い、「気を落としているだろうなー」と気遣っている。

 

 ある日、海に向かって叫んだ。

 

 「とちゃーん…」
 「私たちは死んでいないよォ…」
 「きっと生きてかえるからね…」
 「とうちゃんも死なないでよォ…」

 

 同じ母子で遭難した石堂さん一家も飢餓との闘いは同じだ。「魚をとれる人がうらやましかった。クバの木を倒す力もないから、食べ残したやわらかいところを子どもらと食べた」

 

 当時12歳の下地博さん(平良市出身)は「あまりの空腹感にたえられなくなり、これだけは食べるなと言われていたハジキ豆を伯父にかくれて食べました。食えるじゃないかと思ったとたんに猛烈ないきおいで吐き出し、気分が悪くなりました。あれ以来、三十年近くたっているのに、今でも豆類が食べられません」(「県史第10巻」)。餓死するのも出たが、島は岩盤だらけで、クバの葉に包まれ、石で押さえるだけ。死臭が島を覆っていた。

 

1983年12月16日掲載 

 

[72]尖閣諸島遭難

(4)ついに“決死隊”編成 ~ 急造船で石垣島に着く

 島にある青いものはすべて試食され、食べられるものはほとんど食べた。食糧は尽きていく。衰弱はひどくなり、1人、また1人と死んでいった。最初のころは救出する船がやってくることを期待していたが、やがてその希望が薄いことを長い遭難生活の中で知っていった。「ここで死を待つよりない」。そんなあきらめもあった。

 

 遭難から1カ月が過ぎた8月の初めごろ、「“決死隊”を送ろう」ということが決まった。島の裏側に打ち上げられた難破船を利用、その板やクギで舟を造り、連絡のための“決死隊”を送る。百数十人の命をつなぐ小舟を造ろう―助かる道はこれしかなかった。

 

 遭難した数日後、機関の修理をした第一千早丸(友福丸)が石垣に連絡のため向かった。だが、途中でエンジンが故障、友福丸を放棄して乗組員は小伝馬舟に乗り移り、やっとの思いで島まで引き返している。それ以来、外部への連絡の手段は何一つ失われていた。

 

 舟造りには一つの幸運があった。遭難者の中に船大工の八木由雄さん(旧姓・岡本、当時33歳)がいたからだ。しかも大工道具が焼けずに残っていた。

 

 遭難者たちに希望がわいた。「自分はもうだめだ」と寝ていた人までが、船材を運びに出掛けたという。難破船の板をはがし、クギを抜いて一本一本真っすぐにする。男は解体し材料を運ぶ。女は布を出し合い帆を作った。八木さんが体力をギリギリまで消耗させて長さ5メートルのサバニが完成したのは10日目のことだった。石垣までの170キロの海を乗り越していく舟だ。

 

 “決死隊”が編成された。乗組員が主体だ。上原亀太郎さん(当時22歳)、栄野川盛長さん(同18歳)、伊礼良精さん(同)、伊礼正徳さん(不明)、美里勇吉さん(同17歳)、美里清吉さん(同20歳)と金城珍吉さんの7人に山内軍曹、それと出発間際に氏名不詳の主計准尉が乗り込んでいる。

 

 出発の前にツメと髪を切り、遺品として預けた。餓死寸前の疎開者の一るの望みを背負った小舟がみんなに見送られ出発したのは8月12日の午後5時ごろ。“決死隊”の頭には赤いハチ巻きがしめられていた。遭難者の中から「祖母の米寿祝いの縁起のいい着物。成功して全員を救ってほしい」と贈られた着物で作ったハチ巻きだ。

 

 “決死隊”の成否を握る海図とコンパスは帆柱にしっかりとしばった。舟は順風を得て快調に走った。敵機との出遭いが怖かった。飛行機が来るたびに舟をひっくり返し、その陰で通り過ぎるのを待った。

 

 翌13日は風が止まった。ただ必死にカイでこぐしかなかった。こいでいる最中にも「果たして八重山にたどりつけるのか」の不安は走った。疲れも出てくる。そんな時、雲間から山が二つ見えた。「宮古には山がない。あれは間違いなく石垣のオモト岳だ」。「ひもじさも苦しさも吹き飛んで急に元気が出た。みんなの目が輝き、こぐ腕にも力が入った。力の限りこいだ」(金城さん)

 

 舟が川平の底地湾に着いたのは、その翌日の14日夜だ。出発以来2昼夜、クバのシン芽だけで体力を支えていた。疲れ切った体をお互いに抱きあい涙が出るだけ。体力が尽きて動けない。そのうち1人が近くの野生のバンジロウをもぎ、みんなのところに投げた。それをかじった時、やっと一息ついた。

 

 やがて川平の群星御獄に駐屯していた部隊に、さらに旅団に連絡が飛んだ。初めて惨状を知り、びっくり、直ちに台湾へ打電、終戦の日翌16日、飛行機から食糧が魚釣島に投下された。

 

 今年65歳の金城さんは「群星御獄の神様に引っぱられたと思い、いつも感謝している」と言う。その後、尖閣には行ったことはない。「本当はね、身震いして話したくないんですよ」

 

(「戦禍を掘る」取材班)1983年12月21日掲載 

 

 

[73]尖閣諸島遭難

(5)やっと救助船来た ~「荷物惜しいものは残れ」

 島に残されている者が終戦を知るよしもないが、その日の8月15日、飛行機が魚釣島に現れた。一度、米軍機の空襲をこの島で体験している遭難者たちは、爆音が聞こえると一気に岩陰へと走って行った。

 

 隠れながら島を旋回する飛行機にじっと目をこらす。胴体にはっきりと日の丸が見えた。

 

 「友軍機だ」―だれかが叫んだ。その声を合図にみんな岩陰から飛び出してきた。絶望のふちに沈んでいた疎開者の顔に涙があふれ出し、「バンザーイ」「バンザーイ」が絶叫された。「“決死隊”が成功して連絡してくれたんだ」―外部とやっとつながった喜びは大きかった。

 

 飛行機からは小包みがパラシュートで落下された。中身は乾パンと金平糖

 

「低空して来る飛行機がパラシュートを落とした時、てっきり爆弾だと思ってびっくりした」と大浜永充さん(75)。食糧に「これで助かったとホッとした」。乾パンは1人当たり25個を支給。金平糖は病人に配られたが、自分で受け取ることが条件だった。

 

 宮良幸子さん(77)は病気で動けない長女を小屋に残し、重症の末っ子を背中に負い、長男と四女の手をひいた。尚学3年になる二女が五女をおぶって三女の手をひいた。「きつい」「歩けない」とむずかる子どもたちを、なだめすかしながらやっと7人分をもらえた。

 

 それから3日後の18日、3隻の救助船が魚釣島に来た。

 

 「船が来たー」の声に遭難者たちは小屋のクバ、ススキをすべてはぎ取り、入り江の船着き場で目印のかがり火をたいた。「今日で魚釣島ともおさらばだ」。50日近くも雨露をしのいだ掘立て小屋をはぎ、すべてをくべた。救助船には水軍隊の長川小太郎少尉も乗っていた。町役場の人たちも―。

 

 白米1升が各世帯に配られた。夢にまで見た米―。宮良さんは早速おかゆにした。だが、7人の子どもたちはわずかばかりを口にしただけで戻し、すでに胃が受け付けなくなっていた。飢餓生活の後遺症は石垣島に生還したあとも続く。

 

 救助船に乗る時は最低必要なものしか持ち込めなかった。「『荷物の欲しい人は残れ』と言われ、疎開のため準備したのはすべて置いて来た。だれもが荷物が惜しくて残るものか、情けない言葉でした。着のみ着のまま引き揚げた」と宮良さんは怒る。

 

 宮良当智さん(当時59歳)は老母と親類の老女を失い、父・当整さん(当時82歳)は重症で動けなかった。孫の当房さん(63)は「衰弱しており、捨てておけと言う人もいたが、(大浜)永充さんがモッコにかついで船に乗せたと聞いている。命の恩人だ」と言う。重症者も放置される状態だから、島の磯に埋葬した遺骨は持って帰れない。戦後、拾いに行った者もいるが波に洗われ一片も見つからなかった。

 

 19日午後、船は石垣島に着いた。6月30日以来の石垣島だ。不思議なことに終戦については何一つ遭難者には語られなかった。

 

 遭難者はいずれも疲れ、やつれ果て形相が変わっていた。「お父さんが迎えに来ているが、ちっとも気づかない。男か女か若いのか年寄りなのか見分けがつかないほど変わり果てている。二女が船を下りて飛びついたのでやっと分かった」と宮良幸子さん。

 

 遭難者の体力の回復には大分時間がかかった。中には弱った胃に食べ物があわず死亡した者、衰弱した体が回復せぬまま死亡した者も数多い。幸子さんは1週間目に五女、2週間目に二男を失った。

 

 宮良当智さんは県史にこう記している。「私は七カ月目に初めて歩くことができた。初めの四カ月間はおしめにより大小便の用を足していた。思えば冥土の玄関まで参り、運よく門前払い、九死に一生をこのうえなき幸いと思っています。再び戦争のなからんことを祈ってやみません」

 

(「戦禍を掘る」取材班)1983年12月22日掲載

 

 

 

 

 

[74]尖閣諸島遭難

(6)6人取り残される ~ 危険承知の食糧調達裏目

 

 多くの犠牲者を出した「尖閣遭難事件」―。3隻の救助船が遭難者を石垣島まで運んだことで、その悲劇は、ひとまず幕を引いたかのように見えた。だが、尖閣を舞台にした新たな悲劇が数日前から進行していた。隣の南小島に食糧調達に行っていた6人は、救助船に置き去りにされ、さらに苦しい“地獄”を体験していく。

 

 県議の伊良皆高吉さん(46)の父親・高辰さん(当時47歳)もその一人だ。高吉さんは数年前、生存者の宮川元喜さん(当時31歳)に会い、当時のもようを聞くことができた。以下その証言を追っていってみよう。

 

 6人は伊良皆さん、宮川さんのほかに、当時69歳の村山さん、石垣に住んでいた鈴木さん、本土出身の岡本さん、ほかにもう1人本土出身の若者がいたという。

 

 6人は救助の日、隣の南小島にいた。“決死隊”の送り出しが決まった時、その食糧を確保するため、アホウドリのいる南小島に渡ったのだ。2、3日もすれば肉や卵を持ち帰り、“決死隊”の貴重な栄養源となるはずだった。しかし、両島の間の激しい潮流が6人の運命を不幸な方向へ流してしまった。

 

 潮流を挟んだ両島の往来はまず南側に向かって力の限りこぎ、そこから潮流を斜めに突っ切ってしかいけない。もし、潮流にそのまま乗ったら北小島に―、それが不可能だった場合、東シナ海を漂流しなければならない危険なものだ。

 

 食糧を手に入れたものの激しい潮流を前に戻ることができかなった6人が、やっと戻って来たのは10日程を経てからだ。だが、救出の動きは6人が予想した以上に早かった。全員、既に島を去り、1枚の書き置きが残されているだけだ。「あなたがた六人の生命とこれだけ多数の生命をかえるわけにはいかないので一足先に救助されます。私たちが石垣島に帰り次第、すぐに救助船を出してもらいますのでしばらく頑張って下さい」

 

 高齢の伊良皆さんと村山さんは、この書き置きを見て急に元気がなくなった。「自分たちは決死隊のために危険な目を承知で南小島まで行ったのに…。見捨てられた」。落胆は大きかった。

 

 やがて気を取り直した6人は、生き抜くためにまず寝泊まりの小屋を小高い場所へと移す。付近を航行する船が発見しやすいようにだ。2人1組で三つの小屋での生活。高齢の伊良皆さんと村山さんが同じ小屋だ。

 

 既に島にあった食糧らしきものは取り尽くされていたが、さほど不自由はしなかった。クバの木だけしかなかったが、1日に1本を倒し6人で食べる。小ガニもいたし、量的には満たされていた。

 

 9月も半ばごろまで来たある日、村山さんは「具合が悪い」と寝込み、その翌朝に亡くなった。同じ小屋の伊良皆さんは声を出して泣いたという。

 

 それから2週間―。夜中、伊良皆さんの小屋からうなり声が聞こえてきた。熱があり気分が悪いと訴える。翌日は食糧となるクバのシンを取りに行くこともできず、他の4人が食事を作ってやった。

 

 9月27日の朝、熱にうなされ、うわ言を繰り返していた伊良皆さんも亡くなった。前日に作ってやった食事も手がつけられないまま置かれ、ついに石垣に戻ることはできなかった。遺骨は村山さんと同じ水飲み場近くに埋葬された。

 

 残る4人が救助されたのは11月になってからだ。通りかかった台湾の漁船によってだ。

 

 伊良皆高吉さんは「尖閣遭難事件」で父親ばかりでなく長姉も米軍機銃撃の際に失った。看護婦だった姉はみんなの忠告に耳を貸さず包帯など医療品を詰めた背のうを背負ったまま力尽き姿を見せなくなったという。高吉さんは「ほとんど記憶にない父だが、なぜ救助船が出なかったか疑問を持ち続けている。行政側の救助の動きもあったというが実際には何カ月もたって、しかも台湾漁船による救助。戦後の混乱している時とはいえ、6人を見捨てるはずはないのだが…」と、いまだに吹っ切れない思いだ。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1983年12月23日掲載

 

 

 

[75]尖閣諸島遭難

(7)不公正な補償に怒り ~「軍命」に一定の差別 遺族には見舞金

 悲惨な遭難の体験はその後、永く語られることはなかった。

 

 ところが、復帰前、尖閣諸島近海に海底油田があることが分かり、台湾、中国、日本で領有問題が活発化した。明治29年(1896年)、日本政府は尖閣諸島八重山郡編入、現在、魚釣島石垣市登野城2392番地。こうした騒ぎの中で、石垣市は昭和44年、行政碑を建立することになった。

 

 当時、石垣市助役だった牧野清さん(沖縄外地引揚者境界石垣市支部長)は「尖閣諸島の歴史など調査したとき、疎開者遭難のことも調べたが、体験者の口は重かった。なかなか語ってもらえなくてね」という。牧野さんは外地引揚者協会としても補償面で動くことを決めた。さらに、舟を造った八木由雄さん(旧姓岡本、故人)、決死隊の金城珍吉さん(64)ら7人に石垣市が表彰することを提案、当時の石垣喜興市長から感謝状と記念品が贈られた。また、宮良当智さん(故人)が中心になって、遭難者一同より金城さんらへ感謝状を贈った。

 

 この年(昭和44年)5月、桃林寺で市主催の遭難犠牲者合同慰霊祭も初めて行われている。そして、魚釣島へも渡り、遭難慰霊碑も建立した。遭難者遺族代表として、宮良さん、金丸房江さん(62)、大浜史さん(62)らが参加、24年ぶりにうらみ深い魚釣島の土を踏んだ。宮良さんらは長命草の苗とパパイアの種子を持参、島に植えてきたという。もし、不幸にもこのあと島にたどりつく遭難者があっても、自分らと同じ飢えを経験させてはならない―との思いからだ。

 

 「軍命」により台湾に疎開中の町民が遭難したこの事件の補償は不公平と関係者は言う。

 

 当時、対馬丸問題もあり、沖縄外地引揚者協会(大嶺真三会長)では尖閣諸島遭難問題も並行してすすめた。牧野さんは昭和46年発行の「季刊沖縄」(南方同胞援護会編)で「尖閣列島(イーグンクバジマ)小史」を書いており、関係者の声を聞いた。

 

 当時、石垣島へ来た山中貞則長官に陳情したら、「死んだ人に対しては考える余地はある。生存者にはねー」と言われたという。つまり、尖閣諸島石垣市地番であって外地でないことがネックとなった。

 

 陳情の末、見舞金が支給されたのは昭和47年 (註 1972年) 5月、当時の石垣町民34人に対し、叙勲と見舞金3万円(1人当たり)が支給された。また本島出身の高宮城松助さん(明治34年生)の家族4人には戸籍不備ということから勲記だけが出た。このほか、米軍機の攻撃で死亡した宮城三郎船長(当時42歳)ら3人には恩給が支給されている。見舞金は6歳以下は対象外になったといわれているが、3歳と1歳の子供を失った宮良幸子さん(77)=石垣市大川=は「1人3万円の見舞金があった」と話しており、不明な点もある。

 

 補償面では困難なことは、氏名がはっきりしない人がいることもあげられる。町民だけでなく、いろいろな人がいた。朝鮮人女性もいた。大浜永充さん(75)=石垣市登野城=は「船では私のそばにいた。攻撃で手首を撃たれ、のち無人島に上陸してから兵隊が皮ひとつでつながった手首を切った。無事救助された。名前は聞いていない。30歳ぐらい。水商売していた」(註・朝鮮人慰安婦の可能性) と話している。さらに台湾人の家族もいた。宮良幸子さんは攻撃で頭を撃たれ、即死した台湾人の娘さんを目撃している。当時、石垣島で入植していた台湾出身者といわれているが、はっきりしない。

 

 ともあれ、対馬丸事件の遺族に恩給が支給されたのに対し、尖閣諸島遭難事件では見舞金だけだ。沖縄外地引揚者協会では昭和53年度事業計画書で「尖閣列島遭難者の救済措置について」次のように要求している。

 

 「(前略)対馬丸関係者に対し、昭和五十一年一月、要望通り年金が支給されました。尖閣列島も軍命により起きた事件であり、当然同一措置を受けるべきであるにもかかわらず、片手落ち不公正な措置」とし、今後も「早期解決するよう強く請願運動をすすめる」としている。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1983年12月27日掲載