『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 真栄平

 

以下、沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。 

旧真壁村 真栄平(PDF形式:1.1MB)PDFを別ウィンドウで開きます

 

 


真栄平 (旧真壁村)

場時 一九七一年四月四日(再録)

場所 金城幸栄氏宅

 

金城幸栄 (十四歳) 小学高二

子どもを持つ母たちは壕を追われ

わたしが住んでいた壕は、この真栄平部落の東がわ、五百メートルのところにあります。そこに三所帯、十九名入っておりました。壕の中の坪数は約二坪くらいで、ぎっしり詰っていまして、それであまりに暮しが苦しいので時どきそとへ出ることにしていましたが、中城からといって、おばあさんと当時三十四、五歳と思われるお母さんが、五つぐらいと三つぐらいのお子さんをつれて来ていましたが、中部から追い出されて壕もなく、あてどもなく来て、非常に疲れている様子で、大きな木の根元の陰におりました。そうしてその木の下で二日間くらいは無事に過したようですが、わたしがそとへ出たら、おばあさんとおかあさんが破片でやられていました。お母さんの方は肋骨のところを直径二十センチくらいの大きな破片でやられて即死の状態で死んで、おばあさんは(こめかみ)を砕かれてもう死んでおりました。子供さんたちは、破片に当っていなくて、小さい子供さんはお母さんのおっぱいをしゃぶって、五歳くらいの子供さんもお母さんにすがっていました。そうして三日間は生きていましたが、その後で小用のために出て見ましたところ、夜じゅう降った雨に濡れて、お母さんのそばに子供二人も死んでおりました。わたしは人間の命というものが何とも言われない気持がしました。


それから四、五日後のことでありますが、壕の中があまり窮屈なので、小用に行きますと母に言ってそとへ出ました。そうしたら出た瞬間に右の太股を破片でやられて、貫通されました。そこで壕に入って行ったわけです。そしたら親爺におこられ、十九名の方たちにも説教されました。勝手に壕から出るからそういう目にあうんだとのことでした。わたしが怪我して四、五日後ですね、新屋長尾(屋号)の金城公栄さんが喉を怪我しました。この方がそとで怪我して、穴に入って来ました。水を飲もうとすると腹の中には落ちないで、漏ってそとへ出ておったんですよ。そうして二、三日するとその疵は、破傷風になったのではなかったかと思います。なぜかといいますと眼がくらんでしまって、石でも人でもですね、手でつかまえたら噛みつく癖があったんですよ。非常に寂しい気持の大声を出して噛みつくんです。それでこの方を壕に置くと、みんなに噛みつくし、また大声を出すと敵に発見されるから、これではいかんと親爺さん連中が相談して、どうせこれは助からないからといって、公栄さんの兄さん、公喜さんは現在も、元気でいますが、その兄さんが首を絞めて、助からないから十八名を助けるということで窒息させたわけです。


それから二十四日(六月)の午後一時頃と思いますが、手榴弾をわたくしたちの壕に入れられたわけです。わたしたちのは入口は小さいけれど、奥の方は広くなっていますが、入口は二か所あります。その二か所の中の左がわに手榴弾が流れ込んでですね、奥にいた方が三名即死して、その瞬間にうちの親爺が、ほこりを被ったまま、壕から飛び出して、大声で「降参します、降参します、おいみんな出て来い」と叫びました。うちの親爺は、軍でも一般民でも裸一本で出て来いという宣伝ビラをずっと見ていましたので、手榴弾で三人が即死した瞬間に飛び出たわけです。うちの親爺が、みんな出て来いと叫び声をあげたので、ぞろぞろ穴の中から全部出ました。その時、わたしは怪我して動けませんから、穴にひとりひそんでいました。親爺はわたしのことを気にして穴の中まで戻って来て、鰹節はこっちにあるから、また水もこのきゅうすに入れてあるから、ひもじい時は鰹節を食べて、水も飲んで、ちょっと待って置け、わたしは行って来るからというふうに、ですね、わたしを穴の中に放りなげて出て行ったんです。

 

そうして通訳を通して、もっと穴の中にあなたたちの仲間がいないかと聞かれたもんで、それでいるということで、親爺とわたしの叔父さんと二人、米軍四、五名に監視されながらわたしがいる穴にふたたび来ていたのです。それで、わたしは親爺に背負われて、捕虜さて、それから部落のうしろの平マチューというところにみんな集められて、怪我しているものは、トラックで稲嶺・目取間というところですね、そこへ連れて行って一晩は治療も受けずに泊ったわけです。そうして翌月二十五日の朝になると、疵をうけているものは百名の軍病院に、また疵のない人は、佐敷の屋比久などへ、それでわたしは親とちりじりになったわけです。

知念収容所の屋比久から瀬高収容所の大川へ

そうして百名の軍病院で約三か月くらい治療していましたが、そこへ親爺が訪ねて来て、わたしらは佐敷村の屋比久におるから、もうよくなっているならいっしょに行こうということで、そう言われたのでわたしは親爺といっしょに佐敷村屋比久へ行ってですね、それからまあ佐敷村屋比久で二か月間くらいですかね、そこに収容されていましたが、そうしたら新里から、歩いて馬天か、与那原かよくわかりませんが、LSTですか、それに乗って、今の辺野古ですが長崎といっていましたがね、そこに船をつけて、久志の大川へ行ったんです。二見、トウキ、大川と部落は別べつで、わたしの場合は大川でした。

 

わたしが大川へ行って強く感じたことはですね、人間のやることではなかったということです。そう思いました。ほとんどまあ、老人の方がたは、体が弱いせいか、マラリヤに全部やられて、今日もあすも毎日、何十名というふうに死ぬんですよ。わたしたちはマラリヤを警戒して、それにかからなかったわけです。それでわたしたちは人夫みたように、「あなたがたは体が元気だから、このマラリヤにやられた人を担いで行って墓場に葬ってくれ」ということですね、その当時の大川市役所に勤めておった係りは伊礼シュウチさんでありましてね。その方に言いつけられまして十五日間、毎日朝から晩まで死んだ人を担いでですね、大川の収容所から墓場にです。その墓場というのは畳一枚くらいの広さを深く掘ってですね、七、八名も埋めおったんです。土地がないので、深く掘って、それへ放投げて入れてこれがいっぱいになると土を少し被せて、また新しい穴へ入れていっぱいになるとまた少し土を被せるんです。九名まではわたしは入れました。女も男も子供もいっしょに放り込むんです。その担ぐというのは、番にですね、棺桶もなく、焼いた山羊のようにに入れて棒に通して、二人で担ぐんです。こうして埋めたことが、非常に印象的だと思います。


追加 再録 わたしの家族の場合はですね、戦争中は三名家族でありました。兄さんが昭和十六年に兵隊に行きまして、今度の戦争でマニラ沖で、海軍でありましたので、駆逐艦乗っていまして、沈没させられてですね、戦死した公報が来ていました。それで沖縄戦は父、母三名であったわけです。逮捕されてですね、前で話しました大川でマラリアにかかりました。

 

で、五日くらいやすまれて、亡くなられたんですよ。大川のマラリヤはひどかったんです。新垣部落の二家族十名がいっしょになっていましたが、その中から唯一人だけ生き残りましたよ。宜野座嗣春という人です。この一人しか残っていないので僕のお父さんが、この人の叔母さんを汀間から呼んで、真壁の鍛冶屋だった、あの方お母さんが引き取って、その嗣さんの面倒を見たですよ。それで大川から父とわたしと、いっしょに名城まで帰って来て、名城か部落へ移ったわけでありますが、母は五十八歳でありました。父は五十六歳でありました。

 

父もマラリヤにかかって、名城部落から自分の部落に帰って来て軍作業に出ている時もふるえたことが再々あったんですよ。マラリヤは非常に高いところから落されたようですね、腰が変な気持ですぐわかるんですよ。後何分くらいで、ふるえるな、というふうにですね。


この前はお話ししませんでしたが、部落のですね、防団長の大城清太郎さんが母たちの物でズボンを作るように言ったのでですね、それで作って着ていたんですが、暑かったので、そのズボンを捲り上げてですね、やっていたですよ。

 

註、右足のズボンを捲り上げて、膝関節から約十一センチくらいの上外面の股を示した。その外側の中央部に褐色の疵跡が直径三センチくらいの円形。内がわの方はやや前方寄りで、やはり同じ色の傷。

 

そうしたら破片がこっち(外側)から入って、こっち(内の傷痕)に来て、出ては行かずにとんがってですね、三日くらいしたら捕虜されてですね、前で話しました大川でマラリヤにかかりました。肉が腐ってですね、次第しだいに破片がとんがって来たので、自分の手で取ったわけです。やられてから治療する薬の準備もなくて、そのまま疵を放置してありました。ウジがむじゅむじゅする時の感じは、まあ非常に痒くてですね、それがいい感じです。

 

アバタの壌の前に出たら、慶良間諸島)や渡名喜島)から喜武摩文仁の沖、具志頭・港川へ、ずっと木の葉をバラ撒いて浮べたように、アメリカの軍艦や輸送船がいっぱい取り抱いていた。非常に豪華でしたね。

 

金城善昌 (十歳) 小学二年

アバタガマの追い出し

自分らは、うちの後に仮小屋の壕をつくっていたんです。ここに隣のおじいさんたちといっしょに住んでいたんですね。家族は自分の弟二人に姉さんと母、五人でした。当時父は、山部隊にぞくして、陣地掘りをしておりました。あんまり戦争が酷くなるものですから、わしらは、部落の後にあるアバタという洞窟の壕に、昼中はとじこもっていて、晩になりますとおうちの方に戻って来て、飯を炊いて食べたりして、九時頃からはまた洞窟の方へ行って夜を明かしました。それで、こういうふうにして、洞窟と自分のうちとを往復して、四月から五月、六月ごろまで二か月間、こういう生活をつづけていたわけです。


自分らとしては、どんなに大きな戦争が来ても、この洞窟なら大丈夫と安心して住んでいたんです。その当時、六月には、全部家は焼き払われて、もう住むところはないのです。それでこの洞窟に朝から晩まで閉じこもって、姉さんや母が飯を持って来て、三食たべてここで暮して難をのがれておりました。六月に入ってから、日はわかりませんけれど、友軍の隊長らしい方だちが四、五名来られてですね。パット一度に蠟燭をともしたので、びっくりして見たら友軍なんですよ。刀も携びているんですね。それで何かいい情報があるかなあと思っていたら、「こちらは戦争が大分悪化して、首里方面から南部に多くの兵隊がやって来るから、住民は何処かへ出てくれんか」とこういわれてはじめてびっくりしました。


それでここに二、三百名住んでいる部落の住民、おもに真栄平の人たちでしたが、自分の畑に壕をつくったり、あるいは部落内に壊をつくったりして、あちこちへ行ったわけですね。自分たちは、大山というところに壕がありますけれどここにとじこもって、こっちで大体二十日ぐらい難を逃がれて捕虜になったわけですが、こっちに入って非常に苦しみました。


大山にいた時のことはあまり委しくは憶えていませんけれど、わたしたちは親戚の人がつくってある壕にですね。お願いして入ったわけです。それでわたしたちは入口に入っているもんですから、仮小屋にいるようなものですね。ところがここの近くには東川とい素晴しい泉があるので、水を汲むためにそこを往復するんですね。それを偵察機が見て、ドシドシ艦砲射撃をするんです。

 

この壕は、最初はわたしたちの親戚の家庭だけしか住んでいないであったんですが、アバタの洞窟を追い出された二、三の家庭が入っているわけですね。そうして、近くに泉がある関係で、ここは激しかったんです。それで日に日に、そばに寝ている人が、あるいは坐っている人が、破片で死亡するとか、爆風でやられるとか、そういう時に、手さぐりでさわって見ようとしたら、艦砲の破片でやられたくちゃくちゃの肉をつかんで、びっくりする場合もありました。仮小屋だから爆弾の破片を防ぐことができませんですね。隣にいた人がいつの間にかいなくなるんです。

 

いつ頃でしたか、防空壕の前の方に艦砲が落ちてですね、それでこれは大変だなと思って、静かになるのを待っていたんです。われに返って隣にいた人を見たら、上半身は全部砕かれているんですね。頭は残っていたんです。肉が砕かれたような、豚をつぶしたような、惨い状態になっておりました。夜ですから蠟燭をつけて見たんですけれど、朝になって、防衛隊から帰って来たおじさんたちが、また脱走して来た友軍も入っていたんです。この人たちが、笊に、足やら頭やらを入れて、二、三回運んだんですね。バラバラになっているから一度に持つことができないんですね。だから足とか、頭とか、笊に入れて運ぶ様子を見たわけです。当時は、別に恐いという気持はありませんでしたが、夜になったら、ぞっとするわけなんですね。わたしより一つ年上で、難を逃れるためにこの壕へ来たのですが、この人もこういうふうにしてここで亡くなりました。


それからここでは飯がじゅうぶん無かったということですね。親戚ではあるんだが、この人たちは、自分が食べるだけはじゅうぶん持っているんです。わたしたちは後から入って来ているのだから、食というのは準備もしていないんです。だから、ちょっとずつわけて貰って、どうにか腹ごしらえをしたんです。ひもじいとか、もうこれで死ぬのか、という考えなんかも出て、何かしらへんな気持になって苦しい場合があったんです。


それで艦砲が落ちる度に毛布を頭からすっぱり被ってですね。艦砲が落ちる前はわかるんですね。ビュウーと音がするもんだから、静かになるまでは、家族中で毛布を被って待っていたわけです。これが大体十分あるいは二十分おきに艦砲が来るんです。殊に、日本兵が洞窟の前を通りますとそれがひどく来るんですね。まあ思い出せば、もっと沢山あると思いますが、当時は十歳でありながら非常に苦しみました。

暗川の壕

ここに艦砲が激しかったのは、偵察機なんかよく上空で昼間に偵察しているもんですから、この大山というところは、ちょうど三叉路になっております。ここは首里方面から来る負傷兵が通ります。暗川という壕がありますが、そこには野戦病院がありますので、北からこの方へやって来る負傷兵は、ここを通るのですね。一番ここが激しかったのではないかなと、わたしは今もって感じているんです。苦しいというのは、こういう艦砲をですね、その洞窟がゆさぶられて、今にも岩石が、落盤するのでないかなあと思ったわけですが、これが毎日のように、大体二十日間くらいですねそういう日がつづきました。


そうして元からの壕の主は一家全滅しました。捕虜をされないんですね。それというのは、ここの親爺は非常に体格もがっちりしていて、男らしいお父さんであったのですけれど、防衛隊から逃げて来ているんですね。うちの親爺はちょっと遅くなっているんですね、帰るのが。そこのお父さんは逃げて来て、自分の家庭の世話を見ているんです。日本の兵隊の米を盗んで来たり、醤油を盗んだりして、あるいは日本兵と巧くやって、罐詰をもらったりしてですね。そういうふうに食糧の面には恵まれて、また洞窟にも恵まれていたんですね。

6月23日

それからこのおじさんには、日本魂というものもあったかと思います。六月二十三日頃ですがね。ここ真栄平は六月十九日からはもう捕虜されているんです。わたしたちは二十三日ですけれど、まだ洞窟におりましたが、スピーカーからアメリカ人は、悪いことはしないから、デマ宣伝はきかないで、早く出なさい、日本はもう戦は敗けたから、早く出なさい、とそういうスピーカーからの宣伝があったわけです。

 

それでうちのおやじは、十年前にフィリッピン行っていたんですね。そうして外国の様子を知っているんですね。とにかく人間は、やはりどこの人でも同じ気持だ、戦車で轢殺すということは絶対にしないから捕虜されようといって、むこうのおじさんにすすめたら、あなたたちは、行ったら子供たちは大変だよ、戦車に轢かれたり、銃殺されたり、そういうことがあるから捕虜はされない方がいいよ、とこういっておどかしていたけれど、うちのおやじは、大丈夫だから行こうと、それで一人は、つれて行こうといったが、いや、そうはさせないということで、その家族は一家全滅。わたしたちが出る前、榴弾を配布しておりました。二人に一個ずつ、自決の方法も、誰と誰は組みなさい、あんたとあんたはどうしなさい、などとこういうふうにして、自決の方法まで教えていた。おじさんは、わたしは最後に死ぬ。もし手榴弾で死ぬことができなければ、わたしがやる、といっていましたので、自決の覚悟は持っていたはずです。

 

話を聞いたのですが、戦車が火を吹く、あの火焔放射器ですね、それでやられたというが、やはり自決ではないかなあと思いました。親戚の関係はうちのお母さんと、むこうのおばさんと従姉妹ですね。むこうの家族は六名です。おばさんの兄弟のおばさんと、亡くなったのは八名ぐらいでした。

 

註、金城さんは、問いに自決したのは八名ぐらいと言ったが、同席の大城藤六さんがそこで、他の屋号とその家族の名を一人ひとり小声で言い、子供でも六人くらいいたんじゃないかと訊いた。それは多分金城さんのお母さんの従姉妹の子供の数を訊いたのだと思うが、金城さんは、いいえそんなに大勢はいない、自決したのは、十四名ですねといった。大城さんはさらに、このことは金城さんのお父さんが委しく知っている。と言われてから、その方は自決をするようなタイプの人で、子供たちがちょっとでも悪いと思ったら、ブン殴るというような人でしたと語った。とにかくむこうは条件がそろっていたんですね、おじさんがそん気の強い人であるということと、洞窟が自分のもので、いい壕であったということと、食糧が大きな俵がですね、あったんです、何も心配ない、そういうふうに恵まれていた。

 

大城藤六さん発言。あんないいところで、軍からよくも取られなかったな、軍は大勢いたのに、出なさい、と言われなかったか、と訊く。

 

いいえ、別にそこは取られなかったですね。それで、そこはですね、こっちに来たですから、うちらの姉さん方もいっしょに手伝ってですね、まあ洞窟を増設したですね。艦砲を撃たれながら、合いいまを巧くとらえて広くしたわけです。それで洞窟は底が奥へ深くなっていい条件になったけれども、後から来た親戚の人もこの入口の方だから、何か仮ずまいで爆弾の防げる状態ではなかったです。

 

うちらは、怪我はわたしと姉さんがやりました。前に話しましたうちの隣に坐っていた友だちが破片で死亡したその日ですけれど、うちの姉さんの肩の方に破片が食い込んでですね、この肩へんだなと手でなでて見たら堅いものがさわるんですね。蠟燭をつけて見た小指くらいの小さい破片がくい入っているんですね、二、三日したられて、取ってしまったんですけれど、家族はここで大きな怪我はしなかったんです。

二見の収容所 - 栄養失調

自分はこの右のですが破片ですか、それとも石でやられたんですか、わかりません。とにかく口との間に穴があいていたんですね。顔が口貫通して、捕虜されて、ずっと長い間空気がもれるわけですよ。痛くはなかったですが、軍病院でですね、手当てをして一か年くらい持ちました。空気が口から漏れるのは一月間くらいでした。姉さんはわたしより九っ上ですから十九歳です。兄弟は四名でした。一人はだいたい四歳くらいになっていましたかな。捕虜されて久志村の二見というところへですね、あっちにわたしたちは収容されたんです。捕虜されるのが遅くなるにしたがってですね、北の方へだんだんやられるんです。食糧も北部へ行くにしたがって、悪いような感じしたですね。早く捕虜されたところは、軍に近いところで食糧もいいようでしたがね。うちらのところは食糧が二、三日、一週間分しか来ない、この食糧は切れるんじゃないかなと、輸送船が通ると、食糧を持って来るのでないかなと話し合いましたがな。


四つになっていた弟は栄養失調ですな。病気ではなかったですから、飯がないのですから、今から考えますとですね、可哀想で、食糧があったら元気であったんだがなと時どき思います。飯はありませんし、芋もないんですが、芋を取って来て食べさせてもふるえながら食べようとするが、芋らしい芋でもないから、見る見るうちに栄養失調になって、死亡させました。

 

大城亀吉 (四十三歳)

防衛隊

わたしは最後まで、壕から離れませんで、夜間は班長の命令で、各部隊への伝令をやっておりました。各部隊の道案内もやって、戦闘にもドンドン出ましたよ。伝令にやる時は、行ったら直き帰って来るようにと言われますので、弾ものべつに落ちますが、恐がらないで働きましたよ。

 

若い中隊つきの防衛隊のものたちは、夜間は切込みに出て行きますので、わたしは伝令という役目ですが、小使(雑役夫のこと)にされて、鉄帽(鉄かぶと)や三尺くらいある軍刀を持たされていっしょに行きました。

 

暗川の壕

元々は,宇江城住民の井戸として利用していたところを,陸軍(第24師団)が陣地壕として使用しました。東側の「アブガマ」とは,地下水が繋がっている,という情報があります。第24師団長雨宮中将以下が,軍旗を焼いて自決した壕です。住民を追い出したり,食糧を強奪したり,更には住民を虐殺したという証言がある壕でもあります。

沖縄戦の記憶(地下壕):クラガー(暗川の壕,宇江城の壕)

わたくしは、暗川が、ガスを入れられる一日前に逃げましたよ。けれども、壕から出さないんです。自分の中隊の兵隊さんが、門は警戒してですね。上はアメリカ軍が来ていますでしょう、だか決して出ていかんといって、入口の番人がですね、手前にも、先きの方にも一番、二番と堅めて立っていますからなかなか逃げられませんでした最後になってからは。

 

軍旗を焼くのは見なかったがね、焼くのは分りましたがね、入口の方で焼いておった。その時は、わたしは穴の中にひそんでおった。軍旗焼くのは非常に早い頃ですよ。もう全滅で駄目だからといって、軍旗を焼いて後、長いこと穴にこもっておるんですよ、われわれ壕の中の人数は何百どころではなく、何千ですよ。はいるだけ入れ、穴の中を通ることも出来ませんよ。各部隊の兵隊がそこへ集まって来て穴の中に作っておるんですから。看護婦も、民間、地方入も向かって来るのは入れますからね。壕の中はいっぱい詰って、出るのは出さないから。奥のいいところには軍がいて、民間人は入口の悪いところをつかわしてあったですよ。

 

うちの兄弟、姉さんの息子の忠次郎の妹の、新伊礼仲本小の嫁のかめちゃん、ナカフー屋(屋号)のね、かっ子とみね子ちゃん、あれ等は看護婦だからあちこち歩いて、アメリカーに追い廻わされて、最後はそこに入って来るから、それでそこへやって来たので、あなたがたはそこへ来るんじゃなかったのに、こっちへ来たんで仕方ないが、もうこっちは、明日か明後日はきっと全滅だから、うち逃げる考えているけれどなかなか出られないんだよ。困ったことをしたな、といって泣かしてしまったですよ。だけれどもう仕方はないですよ。

 

わしがいる間は内で、自決ということはなかった。逃げようと思っても軍が銃に着剣して、番をして外へは出さない。わたしは、カシラ小(屋号)の潜入がね、訪ねて来てあれがよく話し合いをしたから、わたしらは逃がれたわけですよ。明日か明後日はね、全滅するからと思って逃げたんですよ。何千人入りますよ、ひっこんだところがあちこちにあって、司令部も上官室も、床が段だんになってありましたけれどもね。最後にはそんなものも、問題にせず、も何処もかもいっぱい詰っているんですからね。通りもできなかったよ。

カンメンポー

飯はないですよ。むこうには、食糧穴というのがありますよ。その食糧穴から、すべて壕の中の食糧おきどころへ運んで来てですね。われわれが最後の弁当を配布しているんですから食糧のこともわかりますよ。それで最後は、一週間前くらいから、カンメンポー一つずつ(一袋のこと、中みが入っている時は、ほぼ長さ十七センチ、幅十センチ、厚さは楕円形、カンメンポーは、長さ二センチ三ミリくらい、幅一センチ三ミリくらい、楕円形で材料はメリケン粉だと思う。味もそっけもない、軍隊の食糧で市販はしていない)、それが一日分といって、配布しましたよ。それから後は、自分が残して持っているもので補給して生きておったはずですよ。もう食物を煮て食べることのできる時ではなかったですからね。

クラガーの生存者

ここから助かった看護婦がおりますよ。わたしが、今日出たら、翌日はガス入れられて穴(壕)塞がれたことをなぜわかるかといいますのはね、その看護婦たちが後をついて、うちが収容されて稲嶺へ行って、テントの中に入っている時に、アメリカ兵につれられて、看護婦三名来ておったですよ。最後だといって手榴弾が配布されていたので、爆発させて死のうと思ってやったが、死ぬことができないで、こういうふうになったといってですね、顔が全体蜂の巣のようになっていたんです、三名とも。出るよりは、自分で死ぬ方がいいと思って、死ぬつもりでやったが、半分死に(死にそこのうこと)しておったので、こんなにアメリカーに連れられて来た、と話していたわけですよ。うちが逃げて三日目に来ておったな、昨日やられたといって。まあ、死んではおらん、生きておるので、アメリカーはつれ出したんですね。それで、うちが出た翌日はそこはやられたなと、いつまでも忘れられないですよ。壕が埋められたのは、ガソリンを入れて燃やして、戦車が来て、両方の口を塞いだわけでしょう。それから後のことはわたしはわかりませんね。

 

そこにいた人は全部死んだのではないですかね、ガソリンをドンドン入れて、それに火をつけて、その煙で窒息させたような話でありましたよ。看護婦さんたちは全快しましたよ。最初は、顔が真黒で蜂の巣みたいになっていたが、そう大きいはなくて、顔はあたり前の姿でありましたから、元通りの顔に癒りましたよ。3478部隊の看護婦だったかなかったかもわからなかった。部隊の看護婦は一か所にかたまっていたから、多分余所の部隊の看護婦ではなかったかと思われる。はっきり暗川から出たといいましたから、暗川から来たことは間違いないですよ。その方たちが元気であれば、この話で(この本の出版によって)あなたがたにわかることになるかもしれませんよ。体は大丈夫であったんですよ。起きて水飲んだり、話をしたり、苦しい様子はありませんでした。話は、アメリカーに捕虜されるよりは自決した方がいいと思って、手榴弾で自決しようとして、破裂はしたが、死ぬことができなくて、アメリカーに連れられて来た、とそんな話だけやったんです。

 

出た時の様子は聞いていますよ。「あなた方はね、早く出て命を助かった方がいいから、早く出て来い、早く出ないとガス(ガソリンのこと)入れるから、出て来なさい」といいおったそうですよ。だから手榴弾持っていたから、死のうと思って自分で投げた手榴弾でこんなになった、といっていましたが、顔が真黒になっているのもおりましたよ、三名のうちに。かたわ(ママ)になるようなひどいはしてなかったですよ。暗川は兵隊さんが多かったので、壕から出なかったと話しておりました。

防衛隊から捕虜になって - 息子の死

追加採録 家族のところは、一回連絡に行ったんですが、やられているとわかりましたよ。息子は、目をやられているから、淋しくてそとに出て歩いていたか、用便にでも出ておったか、そとにいたので助かったと思います。息子の目は捕虜になって、アメリカ病院で癒して帰されておった。それから学校へ出られるようになった。


わたしは捕虜になって屋嘉からハワイへ行って一年して帰った。わたしが帰る時は、息子はわたしの姉の家にいたが、最初はいとこの世話になっていたらしい。伯母さんだから、そこがいいと思って移ったかもしれませんね。よく勉強ができたので、糸満高校へ上って、卒業したら軍に勤めました。


には満四か年勤めた。おととしの十二月でありましたが (亡くなった意味)ノイローゼなって約十年なりました。教育はドンドン発達していたが、片目だから何をしようにも思うことができずに、もうお終いであると、そんなにならない前から話しておった。とにかく軍ですから、試験はよくて一番上であったらしいんですよ。頭は上等ですけれど、(目のために) 本土のアメリカ学校を出て、偉くなることはできないと話しておったですよ。幹部訓練でみんなは行くことができるが、おれは行くことができないと話しておりました。だからその関係ではなかったかと思いますよ。自分の精神をつけておるなと思いました。目は破片で、目尻の骨から削られて、眼球を取られていたんですよ。

 

註、大城藤六さん発言、目は、疵は前からでなくて、目尻の骨が削られて、僕いっしょだからよくわかりますがね。血もそんなに出なくて、目玉が取られただけで、跡はくり抜かれたように、眉はありましたね。

 

半分残っていたが、後になって全部生えた。目の下は大きくやられていたね。学問は、小学校時代から、中学校、高等学校、成績はよかったです。やはり体が上等でない場合は、高校なんか出すべきでなかったと思いました。家内と娘の遺骨は、わたしが帰る時は、もう取ってくれてあった。

暗川壕 - 軍閥のエゴイズムに巻き添えになった住民

註、暗川壕で、ガソリンを流して火をつけられて窒息死した日本兵は、結局は、日本の特権維持のための権力の一要素、軍閥による軍規という鍛に縛られて、脱出して捕虜になることは許されなかった。「虜囚になって辱しめを受けるよりは死して護国の鬼となれ」というふうに死を強い、もしそれにそむくと、敵前脱走といって銃殺され、郷里の肉親への一切の特権が剥奪される、どっちみち死ぬほかはないから、親や兄弟のことを思って、命令にしたがって死ぬほかはない。また、捕虜になると戦車に轢かれる、婦女子は米兵の慰安婦になる、と言いふらさせたのも、軍閥のエゴイズムから来たもので、下級兵士や一般民は、それを信じ同じことなら壕で死のうと決心して、壕に止まっていたのだろう。そうして兵隊が出ないので、看護婦、炊事婦をはじめ一般民は兵隊と道ずれで、壕を出ることが許されなかった。

 

大城亀吉さんが逃げた日に入って来た亀吉さんの姪、新伊礼仲本小の嫁のかめちゃん(二十歳ぐらい)ナカフー屋のかつ子さん、(二十一歳)みね子さん(高等女学校二年終了、大城藤六さんと同じ数え年の十六歳)は、そのまま壕で死んだであろう、帰って来なかった。

 

註、同行の大城藤六さんの話。暗川壕にいた看護婦、炊事婦はほとんど真栄平部落の若い娘や新婚間もない女たちでその数は多い。カシラ(屋号、頭の意)は三女、四女、五女三人がこの暗川壕で死んでいる。五女は自分(藤六さん)より一つ上の数え年十七であった。高等女学校に進学していたので、終始軍隊といっしょで球3478部隊の将兵と運命を共にしている。このカシラ家は、三人の娘の長兄が農林学校、獣医専門学校出で一年志願の見習士官だったが戦死、父は捕虜後北部強制移動でマラリヤで亡くなり、母一人残っていた戦後病死、現在次女がその家にいて、全滅家族の慰霊に当っているがその次女の夫も戦死して、ずっと戦争未亡人である。亀吉さんの話に出る壕が閉じ込められた前日に、壕へ入り込んで来た亀吉さんの姪の婚家先きも一家全滅だし、その兄の仲次郎さんの方も一家全滅している。

 

大城藤六 (十四歳) 小学高二

アバタ壕を追い出され

米軍が南山(旧高嶺村字大里の南、南山城趾)、あの辺まで来た時に僕等は、壕から友軍に追い出されたんですよ。さっき行ったアバタ壕です。その壕は、部落の拝所になっていました。中に入った人はいないので、どんなになっているかわからなかったのでしたが、壕になっているのでないかと入ったら広くて深い自然壕であることがわかりました。部落の人たちが手を入れて綺麗にしまして、大きな壕ですよ。部落民の三分の二はそこにいたのではなかったですかね。

アバタ壕を追い出されたので、自分たちの先祖のお墓に入りました。この方(同席の大城亀吉さん)が僕等の一門の一番の大将です。元祖直系の本家 (ヒートヤー)のお父さんですが、この方の親戚、六所帯でしたな(亀吉さんに訊う)あなた方と、新大屋 (みーうらや) とわたしたちと三郎叔父の子供たちと、安里、新安里、六所帯で全体の人員は二十七名だったんですよ(そのほかに朝鮮の人で軍属が一人いた)。

墓はですね、南がわに巌があって、その岩に掘り込んであるわけですよ。墓は西向きです。北がわの方は石をつんで、それからマキバシ(眼鏡橋のこと)みたように抱いて(輪にすること)あるんです。この奥の方はそのまま残して、前の方はいて、亀甲型にこ造られていたんです。つまり墓の東がわ半分と南がわの三分の一くらい岩に掘り込んで、半分(東)は石を積んで抱いているわけです。北がわの方は東がわからつづいて、石を積んでですね、屋根はそのままマキバみたいに造られて、前の方は亀甲の恰好に造られてあるんですよ。


そうしてみんなが入って暮していたら、墓に直撃を受けてですね。十六名が即死、十二名生き残ったんです。爆弾が、墓の奥の北がわに落ちたもんだから、その積んだ石がグワラッと落ちたんです。多分爆弾は、墓の北がわの壁のそと際に落ちたんだろうと思うんです。それで奥にいたのは、全部石や爆風で即死しているわけです。爆弾は多分奥の北がわの墓のそと壁に落ちて、わり方堅固に石を積んであるところでしたが、中へその石が放り込まれてあったんですから、爆風はそこから入ったはずです。西がわの入口に坐っていたのは元気な人たちでしたが三名、無で即死です、まるで生きて坐っているようでした。墓の北がわの壁の中央より奥の方に坐って遊んでいたんですがね、それはみんな死にました。北がわの壁の入口近くに寝ていたのが生き残っているわけです。

 

この墓へ来た時ですね。はじめに入ったのが墓の主の方、僕等も墓はいっしょですが、早く来たということと本家、主ということで、一番安全なところといって、北がわの壁の堅固なところに入っていたわけです。一番奥の方は苦しいからというので、そこはあいていたので、うちの祖母と、僕のいとこである叔父の子供たち三人とがいたんですよ。僕等もあけてある北がわの壁の入口の近くに入っていたのです。後で来たので一番危険なところへ入っていたわけです。


入口に坐ったまま死んだのは、一人は僕の母の妹で二十二歳でありました。一人は一門の一番墓の親爺でこの方(大城亀吉)の兄さんです。大城牛といったじゃなかったですか(大城亀吉さんに呼びかく)、五十五歳くらいだったでしょうね。この方(亀吉さん)は防衛隊に取られましたが、長男の方は五十五歳ですから、防衛隊には行きませんでした。義勇隊でしたかね。

 

それで生きた十二名の中で、こっち(亀吉さん)の長男は目をやられて、一方の目は全部そぎ取られてしまいました。

 

新大屋という家の五歳くらいの男の子が、みぞおちを破片で左右に切られているわけです。ちょっと呼吸すると出て来るんですね。押し込むと倍出て来るんです。また押し込むと倍出て来るんです。それではいかんというので、帯をしめさせて、こっち(亀吉さん)奥さんが連れて帰って行ったんです。帰ったからわかったんです、わたしは。それから僕はここ(左の肩)と(頭と後頭部よりちょっと上)と、これは戦後四、五年くらいたって石が出たんです。ほんとにやられたのではなく爆風で小さな石が沢山入っていたんです。まあ足(膝坊主の上、直径八センチくらい)は完全に破片で削られてですね、これは五か月くらい水が出ました。それから左手を折られて、これは全然つかえなかったんです。それからもう一人女の方が鎖骨を折られたんです。それからわたしの母が股をちょっとやられて、残りは無疵です。そのまま出て来て、今現在生きているのは、うちの家族四名と、それからあそこの二人だな、安里の親子。七名です。

壕はほとんど軍にとられ

それでその後は、もう隠れる場所はないんですから、その時です。そこから部落までは百メートルくらいあるんですがね、その時分からはもう機銃は住民にやらなかったです。僕はゆっくり歩いて来ました。家族みんな、そこの十二名全部まとまって道をぞろぞ歩いたんだが全然弾は落ちませんでした。飛行機はいっぱい飛んでいました。もうその時分から壕のない人は建物に坐り込むというくらい、壕はほとんど軍にとられて、そういう時分です。大体二十日頃かな。よく覚えていませんけれど大体その頃です。それで自分の家に戻ったが、そこはまたほかの人が入っていましたので、自分のですが。各戸、自分の屋敷に壕をつくってありました。それで自分の祖父母(母方)のところへ行って、そこにいっしょに入れて貰ったんです。そこでしばらくやっていましたら、今度は米軍がすぐそこまで来ている、昨日はその戦車が見えたということで、これは後わずかだから、こっちまで来るのは、それで男は逃がそうとい話があったわけですよ。それで叔父といとこ叔父とわたしと男三逃げたわけですよ。その逃げる場合は、わたしが提案したわけですよ。おじたちはみんな死のうというので、死んではいかん、国頭あたりでもういっぺん総攻撃があるという話があるから、出て行こうといって、それで匐って出て行ったわけです。流れ弾が多く、立って歩けませんから、その時分は、男三名出て行ったら、むこう(同席の金城ミヨさんと金城トミさん)といっしょになったですな。部落の前の下水で、道のちょっと下に、ちょっとした橋みたようなところですがね、そこに何名くらいいたかなああれは、二、三十名くらいだな(いっしょだった同席の金城ミヨさん同トミさんへ)ではなくて、土手の下にちょっと橋みたようなのがあってですね、


そこでいっしょになったんですよ。そこで叔父は戦車をたしかめに行こうということで行ったら、途中でやられて死んだんですよ。死んだので片ずけたのは、二十三日の晩だな。腕片ずけて、もうあの頃からは立って歩けません。両方から弾は大変ですから。匐って、引張ってですね、男四、五名で、艦砲の穴を捜がして、放って帰りましたが、叔父は耳の上をやられて、三時間くらいもだえ苦しんで死にました。場所は部落の前、百五十メートルくらいのところですがね。橋のちょっと下の土手でやられていたんです。


それから、僕等が出た日にうちの家族は、女だけ二家族十名くらい、母方の僕の祖父母といっしょに壕の中に入っていたら、アメリカ兵が来て、「出て来い」と何度も呼んでいたそうだが、出て行かなかったもんだから、黄燐弾を入れられたそうです。そしたら、中にいた全部が喉をやられて、とにかくみんな出ています。出たらアメリカ兵が、まだ中にいないかと言ったので、いると言ったら、アメリカ兵が中へ入って行って、子供等二人を抱いて出して来たそうだから、わりかた親切な米兵だったと思いますよ。僕のおじいさんのほかは、みんな女子供ばかりです。アメリカ兵が来て、「出て来い」と言われた時の壕の中の様子は、こうだったらしいですよ。嫁はわり方勇気があるわけです。嫁というのは、僕といっしょに三人で出て行って死んだ叔父の妻のことです。僕たちが出る時、いざとなったら、ということで手榴弾を三個置いてあったのです。それでみんなが、叔父の妻、僕のおばに当るんですね、この人に、自決しよう、あなた手榴弾を爆発させなさい、といって、自決しようとしたそうです。しかし、やはりおばもそれをやることができなくて、黄燐弾を一個入れられて、焼き出されて、出たというわけです(これは藤六さんが捕虜になった日ではなく、その前の日で、後に掲載する日でわかる)

病院におくられ「行方不明」

病院におくられ「行方不明」はとても多かった。

このおばは、その時妊娠八か月になっていましたが、体の三分の一くらい火傷していたそうで、すぐ病院へつれていかれたようで、宜野座の病院で見たという人もいますがはっきりしません。病院で不明です。この叔父の子に三つか四つくらいの女の子がいましたが、これも火傷で別れてしまって病院で、行方不明です。どこでどうなったかわからないんです。

 

祖父は百名で死にました。これは捕虜二日目、もう疲れてですね、僕は捕虜になるのは一日後ですが、僕が行った時は、坐っていたんですよ。坐っていたがわたしの妹一人連れていたんですよ。僕が行こう、と言ったら、もうそこで休むから、これをお前つれて行けということで僕がつれて行って、これは今元気ですがね。祖父は、次の人が行った時にはもう死んでいたそうです、休んでいたところで、坐ったまま死んでいたそうです。祖母は元気で、トウキ (東喜) まで行きました。トウキでマラリヤで亡くなりました。それで叔父の家、僕の母の実家は一家全滅です。

 

叔父と僕と三人いっしょに逃げた二十一歳になっていたいとこ叔父ですね、僕の母のいとこですが、そのいとこ叔父も両親を亡くしたんです。自分のうちに坐っていて、二人共弾に当って。嫁に行っていた姉一人残って、屋敷内ので全部つぶされました。二十一になっていたいとこ叔父一人残ってみんな死にました。そのいとこ叔父が長男で、次男は小学校の六年、三男は三年で、父母といっしょに死にました。

 

終戦後家をつくる時も、自分の方は南洋から遠い親戚が大勢帰って来たのでよかったのですが、母方は駄目ですよ。今ですね、母方の一族は七軒ありますが、男は、二十一歳だった人の子供が次男まで二人いますが、この二人で、七軒のお位牌を全部預かるんですよ。母方の一族は、屋号をいいますと、「新カー小」「仲新カー小」「新新カー小」「新仲新カー小」「徳新カー小」「新徳新カー小」「仲新カー小」。この七軒のうちですね、おばあさんたちが、今二人残っています。両方とも七十近いおばあさんだけがいて、ほかは全滅です。この七軒の元祖(お位牌)を、いとこ叔父の長男、次男二人で担がないといけないんです。今の沖縄のしきたりだと、この二人で七軒の位牌を持たねばならないので、大変なことですよ。それで、今はわたしも、いとこみたいに、いつも行ったり来たりしていますがね。

 

父の弟、僕の叔父は、正規の兵隊でヒリッピンで戦死です。それで、墓で僕の祖母といっしょに即死した三人のいとこの母と長男は、おばの実家の人たちといっしょの壕で、艦砲でやられて、三人は僕等が引き取っていたわけですが、叔父の家は叔父夫婦と四人の子供が全滅してしまいました。お墓がやられた時、そのままにして行きましたので、帰って来てから、大人が三人おりましたので、遺骨はよく見分けることができました。


僕の方は、黄燐弾を入れられて、みんな壕からは出ています。母と妹四人ですが、長女が小学校三年、次女が小学校一年、それに五歳ですね、一番下は十・十空襲の後に生れていますから、まだ満一歳にはなっていませんでしたが、黄燐弾を入れられた時に、のどをやられて声が出なかったそうです。百名の病院(米軍)で黄燐弾で喉をやられて苦しんでいるので手当してくれと頼んだら白い錠剤をくれた。飲ましたところすぐに死んだそうです。そういう風に白い薬をのんで死んでしまったのが可なりいたということをあとでききました。その時はそのように処理されたんじゃないかということですよ。これは事実かどうかはたしかめてはいませんが。それから五歳になる妹は、怪我していましたが、宜野座の病院(米軍)で破傷風だったそうです、あそこで死んでいます。

小学校高等科

現在の中学校第1学年・第2学年に相当

父はですね、五月の二十日に首里の大名で戦死です。その時分ですね、小学校の高等科二年生も全部動員するという話が部隊にあったそうです。事実、真壁の部落は五名くらい出ています。それで第一線へ行ったら、そこに六年の時に教わった首里の方で新垣良和という恩師がおられて、「お前たちはまだ出来ないよ、進んで行くなよ」と言われ、津嘉山で壕の中に隠れさせて、多分先生が隊長に申し出たと思うんです。解除なったということで僕は行かなかったのです。

 

その話を聞いて、あるいは僕の同級生とあったかも知りません。父は「藤六は来ていないか」ということを言うたそうです。弾は、右の鎖骨から斜め下に左へ、肋骨は、ほとんど残っていません。心臓にかかっているから、もう駄目だということで、やられてから二十メートルくらい走って壕の中に入ってぶっ倒れたそうです。中は滅茶めちゃです、骨は。それで弁当箱も穴があいて、印鑑とかそういうものだけ届いていました。いっしょに行ったのが金城牛蔵さん(牛蔵さんはまだ来ていられなかった)ですね、善昌君のお父さんです。この方が二、三名で埋めてあるから、艦砲穴の跡にですね、竹でこう囲ってあるので、わかるからということで、部落に帰ってから遺骨を取りに行ったんですよ、叺(かます)を持って。掘って見たら四名くらいこの穴の中にいるわけですよ。部落の人が五、六人でいっしょに行ったもんですから、もう一人の人もここだというし、うちもここだといって、じゃ掘って見ようと掘ったら四体あったんです。その四体を選り分けたら名城の人もここだということで一人は本土の方でした。

 

遺骨は歯でわかりました。うちの親爺は前歯に金歯一本だけ、もう一人の人は全部金歯です。名城の人は前歯が無いので綺麗に遺骨は選りわけられました。炊事場の前と衛生兵の壊のその間ですがね艦砲の穴ですから。炊事で死んだ人が、もう一人の直栄平のものと名城の人と、それで二人いっしょに埋められていたんですよ。うちの親爺はまたその後で埋められているんです。もうやがて引きあげるという時で、五月の二十日です。

 

二十日からは遺体も帰りません。その前までは帰りました。ほかの部落の人ですが、同じ部隊です。うちの親爺から帰らなかったんです。それまでは馬車ですね、運んで来おったんです。帰らんからというので印鑑や弁当箱を返してあったんです。一ぺんは兵隊に行って来ていますから一等兵くらいにはなっておったはずです。その時三十七でした。


家族が捕虜になったのは、僕よりも一日さきではなかったかと思うんです。家族が捕虜になったつぎの日に僕等はまた出たと思うんですが、二十四日でないかなと思うが話し合って見ると二十三日になったり五日になったりするんです。出たところは、橋の下からです。いっしょは金城ミヨさんと金城トヨさんですね。

百名から東喜へ

僕等は百名から、知名(知念村)に妹と二人いましたので、師範学校の先輩で、伊敷武男という方がいてですね、この方も家族と離れていましたので、三名で共同炊事をしていたんですよ。そうして北部へ移されることになって、知念から歩いて行って、馬天であったか与那原であったかそれははっきりしませんが、LSTに乗せられて、長崎(今の辺野古崎)に下りたんです。そこから全部トラックに積んで、荷物はありませんから。荷物というのは六斤罐詰の殻ですな。知名にいる時に裁判所の官舎壊しに行ったんですよ。そこへ行った時に卵をさがしたんですよ。卵だとわからないで、蓋を切って中身は捨ててですね、罐だけ持って来て、それをにしていたんですが、それ二個とあとは一銭銅貨三個を持って、久志村のトーキ(東喜)へ行ったら、初めにテントを配られたんです。そ

 

れから、二十四、五名から三十名くらいずつ、何班何班と班をわけてあるんですよ。それで班の共同作業で、うちを建てたんですが、うちのところはわりと丈夫な方がおって、大城五郎といって最近亡くなったんだがそこの家族はみんな元気な方ばかり、七、八名くらいだったんですよ。そこのうちは、まとまっていましたので、みなしごみたようなのも集めて世話を見ました。僕もその部類に入っていましたが、それでも僕は大人並みで、大人で男は五名くらいでしたが、そして三十人くらいの人数のうちをつくったんですがね。

久志のマラリア

母たちは、南部の人はみんな久志に来ていると伝え聞いたということで、歩いてさがしに来ていたんですよ。僕等はうちは半ばつくっておりましたから、宜野座はうちをまだつくってないというので、久志に呼んだわけですが、結局呼んで損しているんですよ。宜野座にいたのは生きてですね、どこの家族も。久志に来たのは、どこの家庭でも死亡者が出ました。悪性マラリアが流行して、毎日老人などがどんどん死ぬんですよ。最初は十一、二名ずつ亡くなっていましたが帰る二週間前頃からは、十五、六名は亡くなっていたんですよ。みんな十六名くらいずっ亡くなっているといっていましたよ。照屋というところは、父母に、おばあさん子供たちも亡くなった。一週間のうちに三人死んだ、僕等がみんな埋めたんですがね、そこの家族は一か所に埋めました。埋葬は僕等の仕事みたいでした。誰だれが片付けるといって決っておるんですよ。それで決っているから、死んだ人を片づける時は、お尻の方は持ちたがらないんですよ。マラリアで死んだ人は、臭いんです。脱糞なんかしていますからね。何班誰だれが死んだといえば、走って行って、担架を持って行って、頭の方を取るんですよ。大体運ぶのは千メートルくらい運んでですよ。それで親戚の泣いてついて来るのは放ったらかし、四名で飛んで持って行くんですよ。早く持って行って穴に放り込むんです。そんなもんです。それもただは持って行かない。DDTをひっかけてですね、髪の毛もわからないくらいに。それから担架にのっける時も、髪をつかまえたり、牛豚の死んだのを扱うのと全く同じですよ。あんなことは、今ならできないです。まるで虫ケラ同様の扱いです。人間扱いするといった気持は全然なかったですね、持って行って引っくり返すといったあんばいで、ひどかったですよ。

 

それで隣りのところは、穴掘りする人は、米四合でしたか、三合かあるということで、穴掘りしようといって穴を掘って、自分が掘った穴に自分が入ったことがあったというんですが、それくらい悪性のマラリアでしたよ

大浦だったかな新川小のおばあさん、大浦から僕の祖母(母方)のところへ遊びに来て、元気で歩いて来たんですよ。大浦から二見まで一里はあるかな。一里くらいだろうが、元気で歩いて来たんですよ。それがマラリア罹ってそこで死ぬんです。作業にも出るくらい元気な人がですね、一晩ぐらいで死ぬ、そんなに悪性のマラリヤでした。


僕は数えたんですよ。一日に十六名くらいは死んだんです。それはもうお終いくらいの時でした。もう引っ越す前でした。そこを引っ越したのは、一月の六日、その頃だったな。向こうへ行ったのは、八月かな、終戦日は向こうで迎えたから、七月かな。あと一週間で移るという時に祖母は亡くなったんです。五十四、五歳くらいになっていましたね。祖父が六十一だったから、五十四、五でしたが、でも丈夫な人でしたよ。

 

トウキ (東喜) はひどいところでしたな、食べ物は、特に僕等のところは悪かったですね、朝からアメリカの鉄帽に、玉蜀黍を砕いて、お粥ですよ。米は、作業に出る人が二合貰うのであって、他は何もなかったんです。後ではちょっと有りましたが、全然体力は無くなって、ちょっとでも腹をこわすと死んでしもうんですよ。赤痢も多かったですな。便所もひどくて、消毒もできなかったですね。

 

家は、後では智恵を働かして、竹なんか取って来て敷いたりしましたが、寒くてですね、毛布一枚を五、六人で被ぶるんですからね。男手のない家族を見捨てるということはなかったですよ。班わけしてですね、班で責任もってやりましたから。

 

一応名城に収容されていたが、津波が来るといって驚かされた。それは四月一日アメリカでは嘘を吐くということで、嘘だった。五月になってからかな、真栄平に帰ったのは、

 

終戦四、五年後あたりからですが、開墾するわけですが、耕すと遺骨がつぎつぎと出て来るんですよ。(一通り拾骨してあるが)それを一か所にまとめておいて、大体六月二十三日は終戦記念日で、遺骨を集める日になっているんです。それ以外にも政府が呼びかけて遺骨を集めることがありますが、そういう日に納骨塔を開けますので、みんな持って行って納めるんです。それまでは叭などに入れて、岩陰なんかに置いて、持って行ったんです。その頃まではそんなに感じないわけですよ。今はしかし遺骨のかけらを見たくらいでも何だか当時とは違いますね。

 

時が経つと却ってほんとの人間に還るというわけですかな。昨年の鬼餅の月桃の葉(旧暦十二月八日の節句に餅を包む)を取るために子供たちをつれてみんな車で行ったんですよ。そうしての中だから自分一人で入ったんですよ。そうしたら皮のゲートルがあるんですよ皮靴のですな、見たからすぐ逃げて来たですな。却って今頃が戦争に対する恐ろしさを感じますね。当時はそういう時代だから、そんなもんだと軽く流していたかもしれませんね。戦争というものはやってはいけないと、子供たちにもいいたかったんです、わたしは。

 

大城家一門(墓に避難)の生死一覧表
×は墓直撃で即死されたかた。
○は墓直撃の際助かったかた。
×○は墓直撃では助ったが後戦争犠牲者。

<< 以下略 >>

 

金城ユキ (二十四歳) 主婦

日本兵が襲ってくる

最初の場合はですね、わたしは眠っていたので、来るのは日本兵)その時のことはわからないんですよ。それで真暗だったんですから、目には見えないんですけれど、何かがわたしの体の上へ来て転がったと思いましたよ。夏ですからわたしはシミーズをつけていましたので、シミーズが、血でべとべとになっていたんですよ。

 

兵隊さんが誰か誰かというのは聞こえたんですが、静かだったから黙っておった方がいいだろうと思って黙っておったんです。

 

わたしは一番奥だったが、与那城のよし子は、そとに出てモンペをつけながら兵隊さんと話しているんですよ。それでは、もう何でもないんだねと思って、「よし子、わたしの子供一人は出してくれんか」と頼んだら、「いえいえ、わたしは姉さんつれに行くんですよ」といって、わたしの子供をつれないで、よし子さんは出て行ったんですよ。

 

わたしは、よし子がわたしの子供をつれなかったので、ああ、そうかそれでは自分でやらなければいけないなあと思いながら、一は四歳と一人はまだ誕生前でしたが子供二人出して、そとに出たら、びっくりしました。兵隊さんがわたしたちの壕の前に何名か兵隊が立っていたんです。少しでも機嫌をそこなったら大変と思って、「兵隊さん、戦はどのへんに来ているんですか」といったら、「こっち来ているんだよ、むこう行きなさい」と怒鳴って言いました。わたしは、「あゝ、そうですか」と言って、西の方へわたろうとしたから、「あっち行きなさい」と東の方へ行けと文句を言いおったんですよ。

 

それでわたしは「兵隊さん、こっちから近いんですから、親戚のうちに行くんですがこっちからがいいんですよ」といったら、「いやいやッ敵はもうこっち来ておるからむこうへ行きなさい」と恐いいい方ですから「兵隊さん、有難うございます」といって、石垣なくなっているから転げて逃げたんですよ。暗くもあるし、木の下で真暗でしたけれど、その時は月夜だったんですよ。(前田ハルさんのうちは、周囲が鬱蒼としたガジマルで囲まれていたそれでわたしたちの自分の屋敷ですね、そこにも兵隊さんがあちこちにおったんですよ。(金城ユキさんがいた壕は、自分の実家の屋敷と低い石垣の境界でくっついていたが、艦砲で、ほとんど平坑になっていた)そうして兵隊さんが、わたしを追っかけて来て、「おばさん、おばさん、治療するから」とわたしを掴まえて、言うんですね、「いや兵隊さん有難うございます。わたしは怪我はしていません、ほかの人の血を浴びせられたから、有難うございます兵隊さん」と体を少し引いていいました。

 

「いいえ治療する」といって、何かしようとするので、その時はびっくりしてですね。「いえ、兵隊さん、有難うです」と駆けて逃げて行きましたよ。また大勢の兵隊さんだったんですが、それで、仲新川小に引張って行ってですね。もうその時からは、何処の屋敷もすべてごちゃごちゃになって、ひきならしたようになっていたんですよ。それで、わたしは後の屋敷に引張られて行ったんです。

 

そうして、与那城のよし子が、姉さん(前田ハルさん)つれに、後の屋敷に行くところを、途中からあれも兵隊さんにつれられて行って、これ(前田さんのこと)が泊っていた屋敷の西、西新川小という家ですが、そこの門の辺で、「姉さん、姉さん」と大声で叫んでいました。わたしの耳にはそれが大きく聞こえましたが、これ(前田さん)は聞こえなかったというんです。その時によし子はやられたらしいんです。モンペをつけたまま死んでいたらしいんですよ。わたしたちは見なかったんですけれど。

榴弾で「自決」を強要される

わたしは、これ(前田さん)がいる仲新川小の屋敷に引張られて行った時も、二人の子供は両腋にかかえておりました。その時は月夜であったんですが、まだ夜が明けてないもんだからはっきり見えないんですよ。仲新川小の門は沢山木があって、薄暗かったんですよ。だから、兵隊さんが沢山いるところにわたしをつれて行って、一人の兵隊さんが、榴弾を持っていたか、いなかったかわからなかったが、手真似でやりなさい、と一人の兵隊さんへ合図をするんですよ。それでわたしはびっくりして、「死ぬのは今だね」と思って、二人の子供を両手にかかえ通したまま、びっくりして、「いいえ兵隊さん、有難うございます」と言って駆け出して逃げました

それは友軍の兵隊ですよ。

 

もうわたしはびっくりしているからどうなってもいい、自分の親兄弟といっしょに死んだらいいと思ってですね、最初のうちは、母たちのいるところを見せないつもりだったが、もう最後だからと思って、「おばあ」と大きな声で呼んだんですよ。だからおばあさんだちも一度入れられているから、気になっているから、わたしが呼んだら、すぐに、「はい、こっち来なさい」といって、畳で壕の口を閉じていたんですが、それをあけて、「こっち来なさい、来なさい」といって、母も大きな声で呼んだんです。だからわたしも、二人の子供を両にかかえて、すぐ飛び込んだんですよ。そうしたら、またもやるからあなた方は内に行きなさいといって、中に入れてあった荷物なんかを入口に積んでいたんです。

榴弾を投げ込まれる

母がいそいで入口を準備したらすぐ、また榴弾を投げこまれたんです。その時に、わたしの下の子と、わたしの上の姉さんの子が、少しずつ怪我したんです。

 

そうしたら、夜が明けたらこっちから出ないといけないから、みんなどこかに行こうね、と母がいってですね、母もその時までは、少し若かったもんですから、わたしの上の子を母がおんぶして、またわたしは下の子をつれて、「わたしについて出なさいよ」といって母たちは真先きに出たんです。わたしたちは、一番上の姉さんと次女の姉さんとわたしと、これだけは、どうしたのか、母たちについて行くのが遅くなったんです。

 

またわたしたちの父は、西がわの防空壕だったんですけれど、わたしたちが騒いでいるのを聞いたのでしょう、「わたしたちの子供たちはやられたかもしれない、見て来ようね」といって出たらしいんですよ。その時に父は、友軍の兵隊たちに、引張られて行ってやられたらしいんです。すぐ、前の家の屋敷で、首を斬られておったらしいんです。また、それから、新屋西の幸重(金城ユキさんと本系の従兄弟)も、おばあさんたちが逃げる時に、「友軍の兵隊にやられた」と言っていたそうです(前田ハルさん。「わたしが見た時はもう死んでおったよ」という)。

 

もうわたしたちは、あまり驚いて何が何やらわからんでしょう。わたしは、これ(前田さんのこと)たちの弟たちは、わたしがはじめ壕から出て来た時には見えなかったが、宇江城に渡ろうといって、騒いで出た時には、やられて三人、わたしたちの壕のある屋敷の門の左がわに寝てもがいていた。頭は南がわ、道の方にして三人並んで寝ていた。最初出る時は子供たちは手をかけられてなかった。(前田さん。「あそこまで連れて行って、あっちでやったんです。あそこに小さいの二人はもう寝て、最初は見えなかったんですよ」と)。


うちなんかは父も見ないんですよ。わたしたちは夜が明けたらすぐ出て、着物も何も持たないで着たまま、子供を歩かして、わたしたちは家族が多いもんですからね、兄弟たちみんなが逃げた時、門を入ったところでもがいていたけれどもわたしたちは逃げるために、「あら、やられたんだね」とそれぐらいしかいえないですよ。

 

わたしたちは、母たちが何処へ行ったかわからなくなってですね、一晩か、二晩か別べつになったんです。そうしたから、わたしは、夜はあちこち行って、母たちをさがして、夜は子供を置いて廻ったり、つれて廻ったり、それに食糧さがしたりもしました。

 

大山は沢山壕がありますが、上の姉さん二人は体が弱かったり怪我したりしていますから親戚の壕に入れて、わたしは何処に入るかねといって、壕に行ったらいいかね、と思って、子供も抱いておしめも抱いて、行ったところは、年寄りと子供たちだけですよ小さい壕だったから。「こっちどこのですかね、すみませんがわたし中の方へ入らなくってもいいですから、この入口の方にただ坐っているだけでもいいから坐らしてくれませんかねえと頼みましたら、わたしたちが分家していた時に隣り同志であったわたしより年下の人がいたんですよ。「あ、ユキ姉さん、来なさい、来なさい、こっち来なさい」というので、「あぁ、そうね、じゃ有難う」といって入ったんですけれど、こっちにおばあさんたちがいたんです。そのおばあさんたちは、「いいえもう、余所の人が来たらわたしは心が変になるから出しなさい、出しなさい」といったんですよ。それでわたしは、「おばあさん、わたしは、あすの朝なったらすぐ出て行きます、今日は中にも入らない、ただこっちに坐っているだけですから泊まらして下さいとわたしが頼んでも、「いや、出て行きなさい、早く出しなさい」といったんです。でも、よし子という前に隣だった娘が、「いいえ、ユキ姉さん、こっちいていいよ、わたしは親も兄弟も全部亡くなってわたし一人になっているよ、いいよいいよ、こっちにいていいよ」といったので、こっちに坐って一晩夜を明かしたんです。そうして夜が明けてから姉さんたちのところへ行って、あちこちさがしてから宇江城の方へ行って、母たちをさがしたんです。


この人のお母さんがやられた時、最初はお母さんの首とはわからなかったんですよ。何かね、と思ったんです。お母さんのことは一ことも何にも聞かなかったんです。だが、こちらに何か来たもんだから何かねと思ったんです。それで出て見たら、シミーズに血がベとべとついているので誰かの怪我だね、と思ったんです。あとで聞いてお母さんの首だったなと思ったんです。

 

金城トミ (十三歳) 小六

日本兵に大きな壕を追いだされる

わたしは部落の後の大きな壕から日本の兵隊に追い出されてから、自分の屋敷に掘ってあった壕に入りました。一人の義兄は現役兵隊で二人は防衛隊だったので、三人の姉が子供等をつれて、実家に帰って来ました。家族全体で十三名でありましたが、壕が小さいので、一人の姉の母子三人と、父とは隣の壕にいっしょにいたんです。

 

壕のすぐ近くの屋敷内に艦砲が落ちましたので、一つしかない出入口が、土で埋められて、みんながワァーファー喚きました。それを父が気づいて、すぐ出て来てシャベルで掘り出してくれました。もうそこは駄目ということで、出ました。

日本兵に手榴弾を投げ込まれる

わたしたちの西隣りは、空き屋敷で、屋敷の後は竹林になっていましたが、わたしたちはその竹林の中に防空壕を二つ掘ってあったんです。長女、二女の姉とその子供等は母とわたしがいっしょに、三女の姉母子三人は、この前田さんの屋敷に掘ってある壊に入っておりました。防衛隊から三人、解散になって帰って来ていましたので、一つの壕は男四人が入っていました。

 

このように壕に入っていましたら、日本兵が来て、「あんたたちはこっちから出なさい」、といったので、うちの母が、「こっちは女子供だけだが、全然行くところがないから出ません」といったら、入口を塞いであった畳をはねのけて手榴弾を投げたんです。母は、この兵隊たちの様子を察して、手榴弾でも入れはしないかと思って、入口の水器のそばに、芋を煮て置いてあった笊を手で支えて、手榴弾が中へ入るのを防ぎました。それで母は、薬指を半ばから切られましたが、中の方は誰も怪我は受けないですみました。それで母は、「みんなに死んだ振りして黙っていなさいよ」といって、子供たちをひとりひとり頭をさわって、やっていましたら、そこへ、この姉さん(前田さん)たちと一つの壕にいた三女(ユキさん)が四歳と一歳の子供を抱えてわたしたちの壕へ入って来たんです。


うちの姉はあわてて来ていましたが、こっち(前田さん)のお母さんがやられていたんですね、うちの姉は奥の方にいたので、眠っていたらしいが、様子が変で逃げて来て難をまぬがれましたが、母は、姉の親子が入ると、これ等はまた手榴弾を入れるから、といって、壕の中にある荷物を入口に積みました。そうしたら、じきにまた手榴弾を投げ込まれました。幸いに大きな怪我は誰もありませんでしたが、みんな小さい疵は受けました。わたし一人だけが、かすりもしませんでした。


うちの父は、わたしたちの壕の騒ぎがわかって、「うちの家族はやられたんだな」といってから飛び出したらしいんです。わたしたちを見るために。そうしたら、そこらに兵隊はいたんでしょうね、じきに引っ張られて、このお父さん(同席の金城牛蔵さん)の家につれられて行ってやられたらしいんです。わたしたちは、ぜんぜん気がつかなかったんです。お父さんは、生きているものと思って、お父さんはわたしたちさがして来るんだと待ったんですよ。

 

母が、この壕から出ないと大変だから、みんなついて来なさいよ、といって、母が真先きに出ました。それで、わたしと、一番上の子の清、すみ子、この姉(ユキさん)の上の子の清と清光とそれだけが、いっしょに逃げたんです。母が、「はい、」と気合をかけて、「今逃げろよ」と合図して出たんですが、姉たちは恐くなって、出るつもりだが、また引っ込んだらしいんです。わたしたちも、母が夜が明けると逃げることは難しいから、今行かないといけない、というので出ましたが、そうしたら、日本の兵隊が日本刀なんか持って、いっぱいいたんです。こっちは(ユキさんのこと)出ることができないで、翌日の晩までそこにいたんでしょ(ユキさん発言。いいえ出たんですけれど、大山に行って、あっち行ったり、こっち行ったりをさがした。一人の姉は妊娠していたし、一人は怪我して、それにわたしの小さい子と四人であった)


言い忘れましたが、家の壕にいた時、最初の手榴弾で水瓶が割れて、中の水がこぼれたので、壕の中はじたじた濡れてしまいましたが、こっちが飛び込んで来て、また手榴弾を投げられた前のことですが、母は、死んだ振りして声を出すなよ、とみんなに言って、みんなしんとしていましたが、二番目の姉が、「こんなにしていたら、どうせ殺されるんだから、舌を噛んだら死ぬんだってよ、やって見ようね、」といって、わたしもやって見ましたが、ぜんぜん駄目だったんですよ。

 

壕が狭かったので、この三女の姉(ユキさん)だけが親子三人、こっち(前田さん)といっしょだったんですね、この姉さんが別れていたので、お母さんは、「家族がみんないっしょであったら、もう死んでもいいがなあ」といっていましたがね。

 

壕を出ましてむこう行くまで、ついて来るだろうと思っていた姉たちが来ないんですよ。それで大山の城のところまで行った時には、もう朝になっているのでもう明るいです。アメリカさんの小銃弾がドンドン来るんですよ。「追い出されて入るところがありませんから入れて下さい」とお願いしましたら「こっちであなたたちがうろうろしていたら危い」といって怒られたんですよ、部落の方ですけれども、大山の前の壕に入っていたんですけれどね。それで「あぁ、そうですか」といってそこを出まして、宇江城へ向って行きました。

 

宇江城へ行く坂を上るところでやられました。小銃弾がはげしかったので、小銃弾でやられたと思ったんですが、破片ではないかと思います。ちょうど後頭部の中央部で血がひどくでますので、手でおさえて歩きました。この弾は今も入っています。頭の具合が悪いので、レントゲンを当てて見ましたら、光っていて小銃弾ではなくて破片のようです。お医者さんは、幸いに骨をそう痛めてないので、そのままにしておいてもいいとおっしゃいましたので、取らないでありますが手でさわるとくりくりします。

 

手で頭をずっとおさえどうしで逃げていましたら、下の方に、日本兵がつかっていた、壕というまでにはいたらない、岩がかぶさったちょっと隠れることのできるところがありました。そこまでの途中もあんまり弾が激しいもんですから、ちょっとの間でもと思って入り込んで行きました。

 

そうしたら、そこには玄米が可なり沢山ありまして、笊も転がってありましたから、それに玄米を貰って、さまよっていたところ、ぜんぜん知らなかったんですがおばの壕に突き当ったんですよ。むこうは隙いていましたので、入りなさいということで入れて貰いました。しかし入れては貰いましたが、その壕には、食べ物なんかもありませんでしたので、それは困りました。小さい子たちはお水なんか欲しがるんですよね。それでおばさんが、一升瓶に水を持っていました。こっち(姉のユリさん)の子供二人つれていましたから、おばの水から少しずつ、喉を潤すくらいわけて貰ってですね、四つなる子に飲ましたら、もっと欲しいといってしょっちゅう泣くんですよ。それで、岩から一分間に一滴くらい落ちるしずくを溜め子供たちに飲ましたりしました。

 

母はこっち(同席ユキさん)や長女と次女の姉さんがどうなったんだろうと心配して、「あなた方はここにいなさいよ、うちは姉さんたちをさがして来るから」といいますので、わたくしは、「いいえ、お母さんは行かんで下さい、そのために却ってみんな死んだら大変だから」といって、行かないようにしました。「いや、われわれがここにいることを知らないからして来るから、ここに待っていなさい」といいますので、わたしは「いやよお母さん、わたしたちばかりになったら恐いからお母さん行かないで」といって止めました。そうしたら翌日の晩、二晩くらい別べつだったでしょう、またこっち(ユキさん)もお米なんか、かかえ込んで、持って来たんですよ。そして家族みんながいっしょになりました。

米軍と日本兵のはざまで

それから、アメリカの放送が聞こえるんですよ。「早く出て来い、早く出て来い、」というんです。わたしたちのところから、この放送している人たちが見えておったんですよ。その時、日本の兵隊が二人入口にいました。一人は壕の入口で上半身を裸にして、短剣を拭いていますし、また一人は少し離れて坐っておりました。出ようと思いましたが、出たらこの兵隊たちに殺されるし、出たいけれども出なかったんです。
そうしていたら、アメリカ兵が壕の入口へ来て黄燐弾を入れました。わたしは大いそぎで、石鹸をタオルにすりつけてみんなの鼻に当てさせましたので、そのガスを吸わさないですみました。

捕虜になる

それからまたしばらくして、戦車が来まして、今度は、壕の口を燃やすんですね。煙がいっぱいで窒息しますから、みんな煙をかきわけて、匐って出たわけです。そうしたら、アメリカ兵は、わたしたちが、何か持っていないかといって、調べましたよ。母が、「財布と風呂敷を捨てるか」と手真似でやりましたら、これは持っていいんだということ、連れられて行きました。

 

そうしてアメリカ兵のいるところへ行きますと、兵隊たちが、銃口をわたしたちに向けて撃つといった恰好をするんです。お母さん方はみんな撃たれるといって泣くんです。そうしたら、アメリカの兵隊は構えている銃を直して、アハァハ笑うんで。そういうふうな目にアメリカの兵隊から三度やられました。鉄砲を向けてほんとに撃っ恰好をするので、今度はほんとに撃たれて死ぬんだなと思っその度におばあさんたちは泣くんですが、やはりアハァハ笑って、冗談をしていたんです。

 

それから、また戦車が沢山並んでいましたが、わたしたちを横に並べて、戦車がわたしたちへ向って進んで来るんですよ。その時は、今度は戦車にほんとに轢き殺されるのかな、と、戦車で轢き殺すといったのはほんとだったなといって、年寄だちは、また泣きました。そうしたら戦車は、わたしたちの一米くらい前に来て止まりました。これも冗談して驚かしていたわけです。

 

註、そこからは、大城為六さんといっしょで、北部では、金城さんの家族と前田ハルさんがいっしょで、前田さんの記録と同じである。アメリカ兵の冗談は、日本兵の住民をだましたデマ宣伝を知っていて、アメリカ兵のユーモラスな、からかいであったであろう。

女性たちにすれば、これは「ユーモラスなからかい」なとではない。安全とわかっていても銃口を向けられれば、それは圧倒的な支配力を持つ。実際、バックナー中将の暗殺があったため、真栄里では米軍にも住民が多く逆されている時期だ。

 

 

前田ハル (一九歳) 家事

アバタガマを追いだされ

アバタの壕にいましたが、みんなといっしょに兵隊に追い出されましたので家に帰りました。わたしたちの家は焼けていませんで、残っていたもんですから、あちこちの避難民が沢山入っておりました。みんなが炊事するので煙が出るのがわかったのか、艦砲がはげしく落ちましたですね。まだわたしたちのお父さんが怪我をしない前でしたが与那城村の人で、お父さんもおかあさんもおばあさんも艦砲でやられて亡くなりました。十七歳と七歳になる女の子を二人つれておったんですね。それでわたしたちは何も知らない人たちですが、わたしたちのうちは与那城のどこどこですから、この二人の子をあなた方で面倒を見て下さいね、とお母さんが死ぬ前にいうたんですから、うちも可愛想に思っていますしね、うちの妹や弟たちといっしょにいました。姉の方は一か年は女学校を出ていますが、病気のために学校を休んで父母といっしょに来ましたが、でなければわたしは兵隊といっしょだったよ姉さんと話したことがありました。


これはどこの人かねとはっきりわからないんですが、与那城の方の亡くなったのとほとんど同じ頃だと思っていますが、津嘉山の出身ではないかねと思ったんですがね、これはあのうほんとに気の毒と思ったんです、数え二歳くらいかね、誕生はまだだったと思うんです。八か月くらいではなかったか、もうちょっと誕生にやがてなったかもしりません。この方たちもうちへ入って来て、おばあさんとお母さんとやられてから、お母さんは早く死なれて、またおばあさんは、怪我が軽いんだから二、三日くらい生きていたんです。うちの馬小屋のところにいたんです。あそこは甘蔗の搾り殻を沢山入れてあったんですから、これの上に寝ていたんです怪我したから。だからこの子は、知らない人ですから、わたしがご飯食べさせようと思って連れに行っても、絶対いやがってですね、泣き叫けんで連れられないんです。わたしたちは昼は防空壕に入って、朝夕に出るんですね。それで御飯を持って行って、水を急須に入れて持ってですね、くれようとするがこの子は死んでいるおばあさんとお母さんのおっぱいを飲んでですね。お母さんはもう大きくなって、黒くて臭いもあるのでうちが何か被せたから、おばあさんのおっぱいを飲んでですね、死んだ人から。うちが、防空壕からご飯と土瓶に水を持って来てあげて置いたもんですから、これを抱いてですね、もう死んでいたんですよ。誕生になっていたですかね、歩けるようになっていたかはっきりわからなかったですが、可愛想な子供だったんですよ。お母さんが先に死んで、おばあさんは怪我が軽くて、二、三日くらい後に亡くなって、ほんとに気の毒と思ったんですよ。上げたのは芋ではなくて、ご飯です。土瓶を前に抱いてうつ向いて亡くなっていたんですよ。ほんとに気の毒と思って、叺をですね、被せてやりました。


わたしたちは炊事は家でやっていたんです。お父さんは、家が焼かれた時に艦砲の破片でお臀部の方から股の前の方にかけて大きな怪我で、それは右でありましたが、肩もやられました。肩は後にそれた方でありましたが右だったか左でありましたか、はっきり憶えておりません。お臀部の方はあんまり怪我がひどくて、出血が多かったのではなかったでしょうかね。

 

わたくしのうちは、屋敷の周囲に大きなガジマルがずっと取り巻いて、木が多くありましたが、どうして倒れたかわかりませんが、大きなガジマルの木が防空壕の上に被いかぶさりましたので、お父さんがあなたちは何度かほかの防空壕に移りなさいと言われましたので、そこから出て、この姉さん金金城ユキさん)の一番上の姉さんがたが掘った壕へ移りました。

 

この壕は、うちの屋敷内に、うちのとくっついて掘ってありました。木が多いので、安全と思ってではなかったでしょうかね、土地を貸してくれと言われて掘ったでした。うちの壕は、大きな木で圧えられたので、出入口は、匐ってやっと出られるくらい狭くあいていましたが、朝夕、食事を持って行きました。お父さんは水を飲まれるくらいで、余程痛かったんでしょね。大きい声で呻りつずけていました。母より三日三日くらい前に亡くなったと思ったんですが、五、六日前だったようであります。怪我してから一週間くらいは生きていられたと思います。

 

あの時は、弾があんまり激しいのでどうにもなりませんから、今頃は弾が来ないという時にお父さんのところへは行くんです。うちが夕方に行ったら、もうお父さんは亡くなっていました。朝は、怪我がひどくて、あんまり呻りまして、ちょっとの間はお父さんのところに坐っていますけれども、こっちの壕は危いからあなたは行きなさいよ、といいますから、出たんですが、また夕方行くのですあの時からはご飯はなかったんですよ。芋の澱粉を水にちょっと溶かしてですね。ただその水と水とを持って行ったら、もう何も返事しなかったから、わたしは入らなかったんですよ。

 

お父さんはそのままです。(註、すべての人の当時の心理態は、戦争という無限大の力によって、肉親の死を悼み涙を流す悲痛を通り越して極限なもの、虐脱、放心といった、人間感情を押し殺していたようである)

 

おとうさんが亡くなって五、六日あとのようです。わたしは夕飯をすましてから、壕がいっぱいしているので木の下に坐っておったんですよ。そうしたら、もうあなたは危いから、仲新川小へ行ってあすの朝になってから帰って来なさいと、お母さんが言われたんです。だからわたくしは、また四時頃なったら、五時頃でしょうね。朝水汲みに行こうと思って、帰って来たんです、あそこから。夜が明けたらいから、朝は弾が無いもんだから朝はみんな水汲みに行ったんですよ。朝起きて来たらもう、新下茂(金城トミさんやユキさんの実家の屋号。前田さんの屋敷とくっついている。水汲みの入物取りに自分の家へ行く時)のバカスの上で、うちの子供ら二人が「姉さんよう」といって泣いていたんですよ。もうわたしはびっくりして、もう見る時はもうちょうどこんなにあのう、あんまり出ていたもんだからわたしはびっくりして、もうおんぶしてですね、この姉さんたち(金城ユキさんのこと)はみんな逃げて行っていないもんですからわたしはまた(自分の家の壕)のところに行ったら、うちのお母さんはのそば(中のことだろう)から追い出され兵隊が大勢いたんです。(家も焼き払われ、屋敷の境界の石垣もなくなって、一つになっているので、目を遮ぎるものはない、前田さんはその時は、母は、兵隊に追い出されて何処かへ行っていると思ったのである)。

 

わたしは、妹たちを一人ずつおんぶして「新下茂のおかあさんよう」と大きな声で叫びながら、新下茂の壕に行ったんですよ。そうしたらこの姉さん(金城ユキさんをさす)たちはみんな逃げて行っていないんです。


この子供たちは、新下茂の壕のある前新川小の門のところでやられて、あそこから新下茂のバカス小屋のところまで匐って来たらしいんですよ。(金城トミさん。うちがね、逃げる時は、三名寝ていたよ、うちなんかが入っていた域のある屋敷の門の内がわに、門を入ってすぐのところにですね、三名頭を南にしてですね、仰向けに寝ていたんです。生きてもがいていましたよ、わたしなんかももう逃げるところですから、「はああ、やられたんだね」とぐらいしか言えなかったんですよ)。

日本軍に軍刀で切られる

自分の壕は、兵隊さんが入っているもんだから、もう入られないから、一人ずつつれて来て寝かしてから最初お母さんの様子を訊きました。「お母さんはどうしたか」といったら、「お母さんはやられてあそこに死んでいるはず」「セイコウ(末弟)はどうしたか」とまた言ったら、「セイコウはわからないけれどこの辺に死んでおるはず」といったんです。それでお母さんは亡くなっていると聞いたから、もう今お母さんは見ない方がいい、生きているものを助けないといけないと思って、行かなかったんですよ。その時、二人があんまり水を欲しがったので水汲みに出かけました。汲むものはこの姉さん(金城さん)たちが土瓶を残してありましたから。

 

わたしはその時、末の弟と与那城の子と二人が屋敷の左がわ、道に沿ったところに、並んで死んでいるのを見ました。頭は道の方にしていましたが二人とも、大きく腹を切られたと見えて、腸や胃などが全部出ていました。縦に切ったのか横に切ったのか、腸が全部出ていましたのでわかりませんでした。


その水汲みに行きます時、この姉さん(金城ユキさん)たちのお父さんは、また木の切った枝にあぐらをかいて坐ったまま首を斬られて、お金こんなに抱いて、首もこんなに抱いて、こんなにして、半分ぐらいまでは切られて、そうしてわたしは、また、「ハサミヨーお父さん、ここでお父さんはやられたんですね」といっただけで、もうどうすることもできません。銀蠅が沢山お父さんにたかっていましたですね。西上仲元小の門から入った左がわ、南よりの馬小屋の隅、ガジマルの木によりかかっていられました。

 

井戸まで行ったら、この井戸のそばの道に幸重さんが、寝ておったんですよ、「もう、あなたも、亡くなりましたね」ともうそれだけです。

 

水を汲んで来て二人に水を飲まして、そうして、二人を自分の股に枕をさせてから「どんなにしてお母さんはやられたか」と訊いたら、「日本の兵隊が来て、ここは何名いるかと訊いたが、お母さんがあんまり口が利けないもんだからフイ、フイといった」といったんです。フイ、フイというのは、「はい、はい、何ですか、どういうことですか」という意味ですが、だが、すぐ斬ったらしいんですね。斬った刀はどんなものですか、わからなかったらしいですが、たち切って首がユキ姉さんの上に飛んで行ったので騒いで、わたしのすぐ下の妹が、一番下の弟をおんぶしてですね、逃げてわたしのところへ行こうとしている途中で、前新川小の門の内に手を引っ張ってですね。弟をおんぶしている妹を刺したから、妹は、手を放したんらしいですね。放したからまたおんぶされていた弟も斬ったらしいんです。一番下の子は、大きく切られたらしいんです。


また二人の上の妹と弟とは、妹の方はですね、三か所刺されていまして、腸があちらから出て、こちらからも出ていましたが、破れてはいなかったんです。弟の方は、うんと強く刺されて長く切ってですね、これは腸がばらばらに出ておったんですが、早く死にました。


一人は四時間、一人は三時間、生きていました、水を飲まして、二人手を握って、「姉さん」といって、もう死ぬ前は、ガチガチ、ガチガチえてですね、「わたしたちは死んで行くが姉さんはどうするつもりか」というので、「あなたたちが死んだら、姉さんも追うて行くから何も心配しないで、わたしもいっしょだから、楽になりなさいね」といって寝かしたんですが、一人はあんまり苦しがってですね。手を二人握ってですね、どんなに苦しいかね、とわたしは思いました。これもガチガチガチガチして、何も言わんでガチガチしながら大きな声を出して泣いて死んだんですよ。わたしは一時間ばかりじっとしていて、二人を見ておったんですよね。

 

それからこっちに、布れがありましたから、「姉さんも今死ぬから手を取ってくれね」といって、布を取って首をしめました。首をしめたがあまり苦しいので手をゆるしました。そんなにして三回首をしめましたが、苦しくなると止めて、とうとう死ぬことができませんでした。死ぬことは大変難しいことですね。死のうと思っても死ぬことができないんです。死ぬのは苦しいことだね、と思います。それからどれくらい壕にいましたですか、二人を寝かして置いて、そとへ出ました。弾に当って死のうという気持で飛び出したんです。もう夕方近く艦砲もありませんでしたから、ほとんど一日壕ににいたことになりますね。

 

それからわたしは、おかあさんをまだ見ていなかったから、見に行ったんですよ。お母さんは兵隊が、四、五間ぐらい持って行ってあったんです。持って行って寝かしてありましたよ。

 

お母さんを見たから、わたくしはたまらなくなって、もだえまして、兵隊たちに反抗したんですよ。「なぜこんなにしたか」といったんです。そうしたら、「戦争だから仕方ない」といっていました。兵隊は壕にも入っておるし、またこっちから歩いてもいたんです。この歩いている兵隊に反抗したんです。誰がこんなにしたか、兵隊でも命は一時間でも欲しいでしよう。いくら戦争だって命は一時間でも欲しいが、うちはこんなに親も兄弟もみんな殺されて、こうなったんだから、斬ってくれ、といったら一人の兵隊は、他の兵隊に「やりなさい」といいましたよ。この兵隊は何も持っていません。そしたらほかの一人の兵隊が、「あなたは若いから国頭(北部)までわたしといっしょに行こう、海岸端から逃げて行こう」といっていたが、「いいえ、わたしは家族全部がこうなっては、家族といっしょにここで死ぬから」といったんだが、やらなかったんですよ。この兵隊は銃剣といいますか短い剣を持っていました。それからわたくしは、お母さんのところへ行って、お母さんの囲りに石をつんで、かこみましてから、薦を被せました。

 

もう日が暮れかけていましたが、東がわは、兵隊があちこちに沢山いました。その時も壕を自分で掘っていて忙しくしている兵隊もおりましたよ。夕方になって、アメリカの艦砲が来なくなったので、あちこちに兵隊がいたんですね。

それでわたしは、壕をさがそうと思って、新下茂の前から子供たちの眠っている前新川小の前を通ってですね、徳謝名の前に防空壕があったもんですからこっちに行ったんですよ。(すぐ前は道を隔てて、西仲本小、同席の牛蔵さん、善昌さんの家でその東の屋敷、屋号、徳謝名)「こっちは誰も来ていませんかね」、といったら「はい、いるよ」といって、こっちに入りなさいといったから、「うちの家族みんな亡くなったから、いっしょに入れてくれませんかね」と頼んだんです。「はい、入りなさい」といって入りました。


翌日、壕の前をアメリカの兵隊が行ったり来たりしていましたが十一時頃ですかね、こっちに入っているおばあさんが、「アメリカがこんな破れた服をつけているね」声掛けたんですよ。だからすぐ見られて、やられたんですよ。壕はカギ形になっていますが、このおばあさんと孫とですね、壕の入口。またうちは、あなたは、うちになりなさいと言われて、うちは暑いからこっちがいいといって、あの時からは艦砲は落ちないで、小銃だけだったから、場所交代しようといって、おばあさんと孫と二人は入口の方へ出たんですよ。うちはまた中へ入ったんですよ。だからその場合にうちは助かったんではないですかね。その時に黄燐弾(?)は入れられたからこのおばあさんは、「アレララー」という声を出してすぐそのままなんです。うちによりかかって。うちはもう耳もバアーとなって、何が何やら気絶してそのまま寝ておったんですよ。このアメリカーは、みんな死んだと思って行ったんだと思いますが、おばあさんと孫と二人は亡くなりました。わたしと、おばあさんの次女とそれからおじいさんは反対がわにいらられたから何でもなくて三人は生きました。

 

このおばあさんは、こっちのお爺さんの長女の姑に当る関係で·········お爺さんの娘さんは亡くなっていましたが、自分の家のは部落の端で危いので、亡くなった嫁の実家を頼って来ていたんですね(こっちのお嫁さんが死んだ時は可哀想だったよと小声で大城藤六さんに前田さんが話された。やはり艦砲か何かでやられたらしい。髪も足も何とかしてなどと聞こえた)。

 

その一晩は、亡くなったおばあさんといっしょに過しましたが翌日ですね、西上仲元小、この牛蔵お父さんが、ですね、このお父さんたちは大山にいられたが、あそこにラジオ放送があったもんですから捕虜になろうと思って、自分の屋敷に着物を取りにといって来たもんです。そうして、「こっちの防空壕に誰もいないかね」と大きな声で、言われたのですから「はい、わたしは生きていますよ」といってわたしが飛び出しました。だから生きている人は、もうあそこにカシラ墓といってあそこは墓場がありますからあそこに集合といって、みんなあそこへらに行きましたから、うちは行きます、いっしょに行きましょと、お父さんが言ったもんですから、じゃ、うちも、またいっしょにお願いしようと出て行ったんです。亡くなったおばあさんの娘のこの姉さんはわたしよりずっと年上です。わしたち二人が出たんです。お爺さんはこっちに残りました。

 

「わたたしは年だから家族は南洋に行っているし、あそこも玉砕といって、わたしは生きていても何ものぞみがないから、頼りもないから、うちはいい」といって断ったんですよお爺さんは。このお爺はずっとこの壕にいられて、後に捕虜になって、今も元気です。も九十近くなっていられるのでないですかね。

 

そこにいた日本の兵隊たちは、アメリカの兵隊に手榴弾なんか入れられてほとんど死んだのではないですかね、アメリカの兵隊がまわっていましたから。

 

わたしたちは、それからヒラマチューに行きましたが日はわかりません。「金城トミさんといっしょだった」(大城藤六さん、「それじゃいっしょだな。みんなが坐っている時に戦車が沢山来たでしょう」「はい」という会話)。

 

ヒラマーチャーからは車乗せられて、今の目取間に行きました。目取真からは歩いて百名を越えて新里まで行った。うちは新里の方に金城静男さんといっしょに一か月くらいですかね、二十日くらいですね。仲新屋小のおばあさんたちが志喜屋にいると聞いたので遊びに行ったんですよ。遊びに行った時に新里は避難準備になっていたんです。わたしは籍は新里にあって、志喜屋に遊びに簡単に行ったもんですから、あそこに一週間ぐらいはいて、わたしは配給ないもんですからあそこのおばあさんとおじいさんの配給から食べてしまって、うちは気になるんですね。あの時は作業もなかったんですよ女は。新下踐の母さんが、兄弟が志喜屋にいたもんですから、遊びに来られて、「うちはもう山原に行くから、あなたは好きなところに行きなさい、こっちがよかったらこっちにいてもいい、うちといっしょに山原に行くならうちといっしょでもいいよ」といったので、新下茂のお母さん見たら、自分のお母さんを見たようで、ずっと親しくして貰っていたので、うちは山原に行く方がいいと思って、山原に行ったんです。


仲新川小のおじいさんは、栄養失調で志喜屋で亡くなりましたが、おばあさんは元気で今数えで八十二歳であります。


(金城ユキさん。二人の配給で三名だったらこれが(前田さんのこと気にしたもんですから、わたしたちはまた子供たちが沢山だもんですから、大勢の配給ならどうにかできるだろうと思ってですね、またこれ(前田さん)たちとわたしたちとは家が東西でくっついていたんですよもとから。だからもう自分の親みたように、わたしはあなたたちといっしょにしてくれないかといったんですから、わたしたちはその時山原に行くといって準備していたんですよ、山原にだからあなたは、あなたが希望だったら来てもいいが、もし希望でなかったら来ないでよう、といって来たとお母さんがいったんですよ、だがその翌日、朝早く来ていたんです)

 

はい、上の山はアメリカーがあちこちにテント張ってですね、も命がけで、甘蔗の中からもススキの中からもかきわけかきわけしてですよ、行ったんですよ。道はわからんで、部落もわからんで、丘のすぐ後だからね、とお母さんが言われたもんだからあそこ行ったらわかるだろうねと、思って朝に行ったんですよ。ちょうど出発しようとしているところだったんです。

東喜 - 戦果を取りあげる CP

わたしの籍は新里にあったが、金城さんたちは伊原で、わたしは伊原に籍はなかったのですが、新下茂のお母さんが話して、いっしょに国頭に行きました。

 

国頭では男といっしょに戦果もあげましたよ。年寄りや子供はマラリアが流行って食べるものがないもんだから、わたしはあの当時若いので、元気のもんだから、ここの話の際は前田さんは笑い声で)名護行ったらアメリカーからの戦果があるというので、男たちが被りして準備しているんですね。夜の夜中ですよ。浩、(大城藤六さんと同じ数え十六歳)男の子と二人、あそこへ行って、わたしは田圃に隠れて、ですね、またあの子はさがしに行って、あそこからですね、アメリカのミルクですね、取って来て、アイスクリームかね、六ポンドの(六ポンド罐詰のこと)あれ取って来て、久志のでアメリカーが事故があったでしょう、この腕であったよ。ちょうどあそこから歩いて来てね (大城さん。焼けたでしょう、トウキ (東喜) よ) うん、トーキ、だった、(瀬嵩は感違い)あそこが焼けたもんだから、警官が警戒しているのわからんでね、歩いて来たら、すぐうちの近くだが取り上げられてですね、CPに。それで、わたしは命がけだからどうしても渡さない(笑)頑張ってですね。男の子ふうにして頑張っていた。また浩は子供だから、本気にして放したんですね。(警官CP、沖縄県人)わたしが頑張ったから取り上げようとしてですね。浩は子供だから正直に言うたんですから、CPは、あの子は正直に言うのに、あなたはもう平屋に入れるからというんですね、わたしは入ってもいいからこれは渡してくれとわたしは頑張ったんですよ。それでもどうしても準してくれないから、わたしは仕方なくおうち帰って来てから、こっちの門の中で大きな声で泣いたんですよ(笑う)マラリアで困っているから、一つの罐だけでもくれといったが全然駄目だったんですよ。わたしは残念で大きな声で泣いたんですよ。それで新下茂のお母さんが、もういいんだからといいました。

 

それから翌日作業に行ったら開けて食べておったですよ。翌日はわたしは作業に行ったんですよ。そのCPの家はうちとすぐ隣りだったんですよ。

東喜 - からだにかけるカマスもない

あの当時は、マラリアで死ぬ人が多かったんですよ。食べ物もなくて。配給はトウモロコシでありましたが、煮ても煮ても堅くて食べられませんでした。

 

(前田さん方、真栄平の人は、久志から名城に収容されて、五月に自分の部落に帰っている)

うちが山原から来る時は、志喜屋の方からみんな引揚げて来ておりました。二月頃でしょうね、寒かったんですから。あっちは何も被るものがなくて、こっち来たらアメリカの小さい叺がありましたからこれをさがして蒲団をつくって、最初は食糧が足りないもんですから、荷物を置いて半分くらいは荷物といっしょにいて、三名は取りに行きましたよ。芋を取って来てからまた、さがしに行きましてみんな蒲団をつくって足をのばして寝ることがほんとにできました。あっちでは、もう被るものは何もなかったですよ。配給というものは蛸の頭といって、アメリカの何を入れるもんですかね、あれ一つしかなかったんですよ。毛布とちがって、大人ならお桴のところくくらいまであつて紐でしめるようになったもんですが、これを壊して洋服につくって、寒い時はいつも坐ていたんですよ。眠ることはできません地面の上に木の葉を敷いて、今の山羊みたいですね。じめじめするとまた新しいものと取り換えたりして、道具がないもんですから木の葉を切るのが難しくて。大浦ではマラリヤ大変だったんです。髪もなくて男みたようになっていたんですよ。

 

うちの仲間からは小さい子、新下茂の長女姉さんの子と、二番目の姉さんの子と、この二人しかあっちでは▢けなかったんです。トミさんとトミさんの弟と二人は強かったんですが、みんなマラリヤに罹りましてひどかったんです。うちなんかは、自分の用にも行けませんでした。二人で支えてですね、トミさんと弟と二人の肩にかかえられて行くのでした。

東喜から名城へ、名城から真栄城へ

名城に来ましたら叺は沢山ありました。アメリカの兵舎のそばに砂入れてですね、この砂をこぼしてそれを十枚くらいずつ合して蒲団をつくって、その時から足をして寝ることができました。

 

名城に移ってからは、山原よりは芋も野菜もありました。大浦にいた時は二食たべたり、トウモロコシのまるごと食べて消化はしないんです。大浦では腹いっぱい食べることはなかったんです。野菜は山原の方は全然ないんです。旧正月の時は、トミさんとわたしと二人今日は山へ行ってヨモギとフキを取りに行きましたよ、うね(原名)へといって行きましたが、もうよもぎといったらこれくらい(親指と人さし指で輪をつくる)を二人でさがして、これでお汁に入れて食べるといって、福山まで行ったんですがね、あっちは畑なんかもありません、それに収容されている人数が大変に多いのですから。畑は段だん畑で。

 

名城に来て一か月経ったら普通の人間に返ったようになりましたが、あっちから来てじきは、色も黒くて、足も小さくて今では知念から来ていた人がよく話すんですよ。あの時あなたたち、ほんとに何みたいかねと思ったと、この前もこっちで話したんですよ。みんな栄養不良で手もカイセンが出ている。真栄平にはみんないっしょに入って来ました。


あそこから通って三軒一組みして家をつくってありまして入りました。自分の畑はこっち帰ってから耕しました。名城にいた時にもみんないっしょに班長さんがっれて来ました。

 

あの当時は、黒人がいる時は、班長は一人ですから班長にすがりついて黒ん坊 (ママ) が行ってしもうとまた作業をしました。芋掘りは班長一人でしたが、家つくりはみんな共同してやりました。規格屋は、今の公民館通りまで、二十軒余りくらいでしたでしょう。一軒の中で、人数によって場所を広く取ったり狭くしたりしました。

遺骨の収集

うちが帰って来る時は、下草も生えて、トマトの小さいのができていましたので、それを持って行きまして、有りますかね、といって行きましたら、幸いにうちの方はみんなありました。お母さんは、亡くなって見苦しかったので悪い筵があったのでそれを被せて、四隅に石を置いてありましたからありました。道なんかに死んでいた人はぜんぶ片づけて、遺骨はなかったそうです。うちは筵を被せてありましたから遺骨はそのままありました、お母さんの。お母さんの頭は、あの時も見ませんでした。遺骨の時もありませんでした。わたしのすぐ下の女の子と長男は、防空壕の中でありましたから、その時のように、そのままありました。また、小さい子も、夕方なってから、顔は、瓦がありましたからそれで与那城の子も二人被て、体も、ごみがありましたからそれで蔽てやってありましたので、そのままありました。与那城のよし子は、わたしは死んだところも見ません。遺骨もありませんでした。西新屋小の門のその道で亡くなっていたらしいので片づけたのだと思います。屋敷内でもほったらかしであったのは片づけられて、遺骨はなかったんです。新下茂のお父さんも、うちが見た時は首を半分切られて坐っていたんですが、もう帰って来た時は、遺骨は無かったんです。与那城の小さい子は、親類が取りに来ていました。顔に瓦を被せてあったので、(片づけられず)二人の遺骨はあったんだろうと思いました。うちの次男は、遺骨を取って、与那城の子は、そのまま置いてありました。


お父さんの遺骨は防空壕にそのままでありましたので、いっしょに収めました。あの時は、お墓は壊れて無かったもんですから、部落の後の石の下を掘って、カンカラーに入れてですね、友軍のカンパン入れてあったもんですかね、ブリキの大きなカンカラーにいっしょにして、雨に濡れないようにしてありました。これも全部玉城さん(金城ユキさんの実家)のお陰であります。新下茂のお母さんが考えてくれまして、仲新川小のおばあさんも・・・わたし一人ではどうにもなりませんでした。

それから、あの津嘉山だと言ったように思いますが、わたしが蔽てありましたので、遺骨がそのままありました。どうして聞いたのか遺骨取りに来ましたよ。まだ若い方でしたよ。兵隊に行っていたそうでありますが、沖縄の戦争ではなかったように話していましたですね。お母さんと、嫁さんの骨を拾う時は、何でもなかったですが、子供の遺骨は土瓶を抱いて、そのままありましたので、「わたしがこれを被せてあったんですよ」、といったら、こらえられなかったのでしょうね、大きな声を出して、子供のように泣いたですよ、この主人は。「男だから諦めなさい兄さん」と慰めましたけれども。


註、金城ユキさん、トミさんのお父さん、玉城さんの亡くなっている様子。ガジマル(たぶん)の切り株に坐って腰かけているようにうしろの木によりかかり、両手を前に組んで風呂敷包をかかえていられた(風呂敷包みはお金)。首をかしげて、半分くらいまで横から切られて、切られていることが、半分は白くなっていてはっきりわかり、そこは銀蠅がたかっていて、ちょうど椅子に坐っていられるようであったと前田さんはいわれた。この状態から見て、日本兵は、金城さんユキさんがたのお父さん玉城さんを、そのように坐れと命令して、坐ったら、すばっと首を斬ったのでないかと思われる。銃剣では断れないだろうし、日本刀は下士官も戦時中だから勝手に持てたそうだから、下士官以上の者の惨虐行為か、それとも、大城亀助さんの話では、騎兵の軍刀が、二十四師団の宇江城の壕には沢山あって自分もそれを携して部落に来たと話した。しかし、この者たちは、米軍に壕を追い出され、あるいは蝶を火焔放射や爆雷などで攻められ、間隙をぬって命からがら逃げのび血迷って、自己の生命保持本能からの行と思われる。

 

玉城幸重さんは二十一歳、防衛隊の解散で部落へ帰って来て聞かなかったのであったが、金城ユキさんたちの弟の息子である。前田さんは二間ばかり離れて見たが、仰向けで、斬られた疵はわからなかった、顔が色褪せて寝ていた、とのことである。
前田さんのお母さんが斬首された壕は、口が狭かったそうだから、兵隊の呼びかけで頭を出したらいきなり斬ったらしい、前田さんの話は、妹の話で、母は物言う間も与えられないでさあっと斬られたらしい、ということである。

 

前田さんは、お母さんの首(頭)を戦争当時も見ていないし、遺骨の時もさがしても、見当らなかったらしい。

 

あとがき
真栄平部落は、本巻にまだ出てない。われわれ日本民族の悪い特性を如実に現わした記録が語られている。本巻紙幅の関係で、危く、割愛されるところであったが、史料編集所の所属する行政府文教局、社会教育課、大城藤六主事のご尽力で、本巻の最終記録にふさわしい、重大な問題を含む記録を掲載することができた。

 

米軍の遠近を問わず的をはずさない絶妙優秀な人類殺戮兵器に追いまくられた日本の敗残兵は、米軍戦車の進入できない真栄平部落におちのぴて、壕に避難している沖縄県民を、まるで犬や猫に対してさえもこんなむごいことはできない惨虐行為をやっている。一体この日本敗残兵の惨虐行為は、どう解釈すればいいだろう。惨憺と猜疑という人類世界で許されない日本敗残兵のそれは、日本民族の歴史の血の遺伝であろうか。日本民族は、ほんとは地球上における最劣等民族ではないだろうか。

 

北部の飢餓の中で、米軍物資を盗み出して持ち、夜間の山道を、久志から名護を往復して、家に帰りつく直前に、同じ沖縄人であるCP(市民警官)なるものに取り上げられる。一部分でもくれるように嘆願するが、無理無体に取り上げ、自から着服する。これも日本民族の縮図で、何という唾棄すべき劣等な心情を持つ人種だろう。われわれは、この日本民族の縮図を抹殺して人間の人間たる心情を確固として打ち立てるべきである。


真栄平においての惨虐行為は、旧日本天皇制特権権力組織者たちが、一般民衆を虫けら同様にしか内心では思っていなかったことが根本の原因である。論理を抜きにしていえば、足腰の立つ島民を全部狩り出し、その一人でも生き残っている限り、余は尺寸の土地でも守る決意をしたうんぬん、と言ったという第三十二軍幹部の心情は、「余一人は何とかして生き残りたい、すべての将兵と住民は死に絶えてもいい」ということと何等の異なるものではない。われわ日本人は、こうも汚い精神でつくられた呪われた民族のようである。この悪性を払拭することは、今後の日本人の世界人類と伍して行く上での一大課題であろう。

 

真栄平の惨虐行為は、第三十二軍幹部の、足腰の立つ島民が一人でも生き残っている云々と同一のことである。上の命ずるところにしたがって、やったのであって、決して偶然ではない。第三十二軍最高幹部の沖縄県民を弊履のようにしか考えていなかった証拠はいくらでもあげられる。下級の単なる兵に対しても無言の沖縄県民殺害命令を下していたものと見て、決して間違いではない。


わたくしたちは、この真栄平の記録を本巻に収めることができなくて、この事実を後でわかったのなら、臍の悔いを残したことであろう。

 

日本敗残兵の惨虐にあい、父母兄弟妹五人を一夜に失った前田さんは、座談会に出席して下さった。淡たんと話していられるようでわたしも、ちょっと奇異に思っていたが、それは、そうではなかった。いろいろとこの座談会のために労を取って下さった大城藤六さんは、座談会の二、三日後、このような苦しいことを涙も見せず話して下さって、と礼を述べに行かれた。その結果前田さんが、いか心中の苦を押えて話していられたかということがわかった。「泣けない、それを通り越していると、勇気が出てますます話せるようになったが、思う通りは話せない。涙が出ない、涙を通り越し話すとこめかみが、酷く痛かった、それをこらえて話していたのであった」とのことで、わたくしたちは、はじめて、前田さんは、このような苦しい心で語っていられたことがわかった。


その後でも、三度ほどわからないところをただすために伺ったが、戦さの話をしますその夜は眠れません、と真に迫った心を打ち明けられた。「もう亡くなったお家族の御冥福を祈ることでもありますから、今晩は、よく御寝みなるように願います」われわれも最後に伺った時は、別れに当ってお慰めした。


前田ハル子さん、金城トミ子さん、金城ユキ子さんの記録は、日本の敗残兵の同胞であるはずの沖縄県民への惨虐行為で相連関したものである。場所や、事実をちょっとでも正しくということで、真栄平は幾度行ったことだろう、最初の日は、大城藤六さんの車で、宇江城の二十四師団司令部のあった壕をはじめ、記録に出る大山やアバタ壕などを案内して頂いた。


大城さんは、お宅は糸満だが、いつもわれわれといっしょに同行

 

 

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