『沖縄県史』 9-10巻 戦争証言 旧首里市

 

以下、内閣府ホームページ 証言集 にある『沖縄県史第9巻』(1971年琉球政府編)および『沖縄県史第10巻』(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。 

 

 

「新県道」が開通したころの那覇市周辺の自治体範囲を表した図です。真和志村の面積が広かったことが分かります。現在は4自治体とも那覇市になっています  (OpenStreetMap那覇市史を元に作成) 

国際通りは那覇ではなかった!?近代の那覇市街成立から崩壊を追う―国際通りから見える”那覇”:第1回

 

あった。「戦争では、みんなおんなじじゃないかしら?」と彼女はさりげなく言ったのである。


さて私は、その何度も死線を越えた内容について、一度は草稿で詳細な解説をこころみたが、後であまり意味がないように思えてきた。例えば、穏やかな導入部から次第に緊迫感を帯びる時間の経過背景について、首里の古い大きな屋敷内の自然壕の状態、その南向きの死角となった壌の存在意義について、豊見城一帯の集中攻撃を受けたことと旧海軍司令部壕のあった関係について、そこで母親が子供を捨てに行かなければならなくなった状況、すぐ側にいた少年が一瞬にしてバナナの木にぶらさがった死体となったこと、死人の何人も浮かんだ穢ない水を知らずに飲んだときの飢えと彷徨、小銃弾が胸部貫通したにも拘らず生きて行った生命力について、両足を切断された妹を捨ててきた友達への心の痛みといったことを書き込んでいったら、かえってリアリティがそこなわれる気がするのだ。それは他方、想像力の問題でもあるが、追体験としていままさに私が体験しつつあるために、饒舌な言葉が邪魔になっているせいかもしれない。


終りに特筆しておきたいことは、いつも感じることであるが、戦争体験者の記憶が、そのポイントとなるようなこと、例えば自分の傷口の痛みのあるくだりを、昨日の出来事のように網膜に浮んでくるらしく、異常なくらい明確であるということだ。そこで私は、それゆえに、体験者は多くを語りたがらないのかもしれない、と思ったのである。

 

大城志津子

(十四歳) 小学高等科一年

那覇、十・十空襲

私は子供のときから、両親と一緒には棲んでいませんでした。父は徴用にとられて広島に行っていましたし、母は私が赤ちゃんのとき離婚していますんでね。私は当時、那覇尋常高等小学校の高等科一年生で、父の母親である祖母と、父の姉にあたる伯母と暮らしていました。伯母は結婚していましたけど、伯父がやはり兵隊にとられていましたから、男の赤ちゃんと一緒に、私たちの家にきていました。家は那覇下泉町にありました。

 

昭和十九年の十月十日の空襲のとき、家は那覇駅のすぐ裏でしたのでね、朝のうちは、まだそのあたりは焼けていませんでした。屋敷が狭かったから、家の中に、畳を起こして床下に防空壕を掘ってあったんですよ。そこに朝のうちは入っていたんですけどね、警防団の人たちが、危険だから避難するようにと、ふれ廻っていましたから、そこから急いで出て行ったんですよ。旭町の方はまだ燃えていませんでした。


祖母と伯母と私は、壺川を通って、真玉橋を渡って歩いているうちに、真玉橋の部落についたんですよ。部落に入って行って、知らない人の家に入りましてね、そこの馬小屋みたいな所を貸して貰ったんです。真玉橋あたりは那覇からの避難民で右往左往していました。


四、五日経ってから、那覇の焼け跡が静まった頃、伯母と下泉町の家を見に行きましたらね、家は全部焼けて跡かたも無くなっていましたから、二中の前の桶川の伯母さんの家に行くことにしたんです。桶川の家は、焼け残っていましたのでね、そこのお座敷を貸して貰って、ずっとそこに棲んでいたんです。米軍が上陸するまで.......

首里

それで米軍が読谷の方に上陸したという話を聞いてから、私たちは首里に行ったわけです。荷物は手に持てる分だけ持って行きました。十・十空襲の前に、お野菜などを売りにきていた玉城(村)の農家の人の家に、衣類など少しは疎開させてあったので、樋川ではそれを取り寄せて役立てていたわけです。首里に登るときは、ほんの着替えだけを持って、食糧はほんの少し持って行きました。むこうには食糧の貯えがあるという話でしたから。

 

首里の親戚の家は儀保町にありました。昔からの広い屋敷なんですよ。屋敷の中には、庭も畑もあって、その畑の隅には自然のガマ(壕)があったんです。その自然壕は、入口はちょっとかがんで入るんですが、南側に向かっていて、たいへん理想的な壌でした。中におりて行くと、天井も高く、奥の方にはちゃんとした円形の井戸もあってね。そこは昔の士族階級の人たちが、何かの逃げ道に使ったとかいう壕なんですよね。井戸もあるし、ずっと入って行くと脱け道もあってね。

 

その屋敷の持主は知念さんといって、今の知念病院の本家になっています。裕福な家なので、楽の中に立派な家具やらピアノやら、いろいろな道具を入れてありました。味噌や塩やその他の食糧品を入れたカーミ甕やら、お米も沢山ありました。それから石垣囲いの屋敷の中には、豚や鶏もかってありましたのでね、あとで豚をつぶして、豚肉の味噌漬なども貯蔵してあったんですよ。だから私たちは食べものにはぜんぜん不自由しませんでしたね。そこには七世帯ぐらい(三十人余り)入っていたと思います。入ろうと思えばもっと大勢入れましたね。

 

あの頃は、それほど砲弾は激しくなかったので、夕方になると、家の中で御飯を炊いてから、壕の中で食べていました。

 

私の服装は、上はセーラー服で、下は絣で作ったモンペをつけていました。たいてい防空ズキンを被って、救急袋を肩からかけていましたね。救急袋には着替えの衣服などを入れてありました。学校はもうなくなっていましたから、首里にきてからは、勉強はぜんぜんしませんでした。本もないし、新聞もなかったし、情報は人々の話だけですね。それに警防団の方たちがよく知らせにきてくれていましたから、その知らせを頼りにしていました。


その屋敷の壕には、民間人だけがときどき出入りしていて、兵隊はぜんぜん入ってきませんでしたね。気づかなかったと思いますよ。まわりは石垣で囲われていますから、外部の人には判らないんですね。だから近所の人たちだけが連絡にきたりしていました。そして四月の半ばすぎからは、首里一帯にそうとう激しく爆弾が落ちるようになったんですよ。毎日、壕は地震のように揺れてですね、落盤しそうな感じで、天井から小石がぱらぱら落ちていましたね。


四月二十九日の天長節の、二日前でしたかね、警防団の人がきて、敵はもう浦添まできているから、ここじゃいから早く逃げてくれっていう知らせがあったんですよ。それで私たちは逃げることになったんですけど、お年寄の方たちは、とても逃げては行けないという意見でしたね。私の祖母は八十六歳の高齢でしたし、壕の中には湿気がありますからね、だいぶ弱っていらして、それに脚気にかかって脚が張れていたんですよ。それで私たちも、祖母は歩けないからということで、その壕に置いて行くことに決めたんです。後で判ったことですけどね、首里に残った祖母や親戚の方たちは、その壕で捕虜になったそうです。残った方たちはみんな、早いうちに捕虜になって、苦労せずにすんだそうです。祖母は捕虜になって野嵩の収容所に行ってから、そこの養老院で亡くなられたそうです。

 

私たちは首里の壕から、二中の向かいの戦後遊園地になっていた城岳に行ったんです。城岳には別の親戚の家がありましたからね。そこに落着いたら、祖母たちもおつれしようという考えだったんです。

 

朝、明るくなってから、艦砲が一時止んだときを見計らって、首里から識名の坂を通って真和志の方へ入って行ったら、途中でものすごい艦砲射撃にあい、何度もあっちこっち隠れたりしながら、ときどき歩いて、城岳についたときは夕方になっていました。二時間ぐらいで行ける道を、一日がかりになったわけですけど、一番ひどかったのは、繁多川の坂をおりるときで、集中攻撃でしたね。またもうその頃には、敵の偵察機ですね、俗にいうトンボが頭上をゆっくり飛びはじめると、じきに艦砲射撃があるということが、だいたい判っていましたね。トンボが現われると、私たちは大急ぎで石垣や焼け残った家や樹の下に、隠れていました。


そして城岳に行ったら、天長節の頃から、首里にはぜんぜん登れなくなっちやっているんですよ。爆弾が激しくなってですね。城岳には、それほど爆弾は落ちてきませんでした。ただ次第に一線がこっちの方へ近づいてくる感じでした。そして苦しかったことといったら、食糧がなくなっていたことです。お米はぜんぜんなかったし、あてにしていた親戚は、国頭に行ってしまった後だったし、知り合いは誰もいなかったんですよ。私たちは、友軍の掘った横穴式の防空壕に入っていました。そこには約三週間いただろうと思います。食糧といったら、親戚の畑がありましたからね、その畑のイモやら野菜やらを食べていました。そんな苦しい不安な生活をしていながらも、戦争はいつかは勝つような気がしていたし、まだ敗けるということはぜんぜん考えていませんでした。そして、ただ生きられるだけは生きようという気持で、文字通りその日ぐらしでしたね。

南部へ移動

そこから五月二十日頃、南部へ移動しました。夜でしたね。私の家のずっと古い祖先からのムートヤー(本家)といわれている家が、饒波・高安の高安にありましたから、私たちはそこへ向かったわけです。真玉橋を通ったんですけど、橋はもうこわれていましたね。川におりて渡るとき、手さぐりしながら、やっと渡って、そして豊見城(村)に行きました。


豊見城の高安には、明け方に着きました。そのムートヤーは残っていて、屋敷内に防空壕が掘ってありましたから、そこに入れて貰いました。そこには遠い親戚の人たちばかり三世帯入っていました。ムートヤーの家と畑がありましたから、食糧にはそれほど不自由しませんでした。そこにいた頃、かなり雨が降っていましたね。

 


ところが、じきに艦砲射撃が激しくなったんですよ。あんまりひどくてね、生きた心地もしませんでした。だんだん馴れるというか、こわなくなってきて、昼間でも、弾の中をくぐって、近くの畑にイモ掘りに行ったこともありました。砲弾は、朝から夕方まで、ぶっつづけに落ちていましたね。もう絶えず豪の壁は揺れていましたからね。爆弾が落ちるたびに、目と耳を両手でおさえていましたね。夕方、壕から出てみると、周囲の畑は、どこもかしこも穴だらけだったんです。防空壕の周りにも、かなり爆弾が落ちましたのでね。


これじゃいつ直撃を食うかわからないと思いましてね、そうとう危険な状態だったんでね、十日間ぐらいしてから、私は伯母と伯母の赤ちゃん(一歳)も一緒に、三人だけそこから出て行ったんです。

海軍司令部壕で

そのときは知らなかったんですけど、その近くには、海軍の司令部壕があったんですね。私たちは、あてもなく出て行ってから、知らずに海軍壕に入って行ったんですよ。

 

砲弾が激しいもんだから、私たちは豊見城の海軍壕に助けを求めて入って行ったんです。そこは相当大きな様で、兵隊も大勢いましたけどね。私たちは、すぐ出て行きます、一寸の間だけ入れて下さいとお願いして、入口のところに入れて貰ったんです。


海軍壕の入口にいたときに、伯母が怪我をしたんですよ。爆弾の破片がとんできてね、伯母の背中の肩のところに当って、深く刳られたみたいに怪我をしたんです。血だらけになっていましたけれど、薬も何もないので、ほとんど手当てもしませんでした。すぐに出るつもりだったのが、砲弾が激しくて出られず、そこで二、三日はすごしましたね。

 

食糧は持っているものだけでしたので、ほんの少量ずつ食べていました。ムートヤーで貰った馬肉の脂味噌や鰹節や黒砂糖やイモクズ澱粉)など持っていましたので、イモクズに黒砂糖を水で溶かして、ねって糊みたいにして、それを食べていました。


そこに二、三日いる間に、避難民が十人余り雪崩れ込んできたことがありましたね。そこは兵隊の陣地ですから、民間人は入れなかったんですよ。それでも、あんまり艦砲が烈しいので、一寸の間だけ入れて下さい、と泣き込んで入ってきたんです。その人たちの中に、子持ちの女の人がいました。その女の人の二歳ぐらいになる男の子供が、あんまり泣き喚くもんだから、兵隊がひどく怒って、叱りつけたんですよ。子供を泣かすなって。それでも子供は泣きやまない。そしたらね、そのお母さんは、子供をつれて出て行ったんですけどね。しばらくしたらそのお母さん一人だけで帰ってきたんですよ。子供をどうしたのか、判りませんけどね。おそらく、子供を捨ててきたと思うんですけどね、そのお母さんも何も言わないし、誰も子供のことを訊こうともしませんでした。

南部を彷徨う

私たちは海軍壕を夜出ましたね。小禄の方を通って、遠廻りして、糸満街道の一本道を通って行ったんです。今から思えば、一番危険な道を選んだわけですよ。でもその道を歩いて行くのは夜だけに限られていました。海からまる見えですからね。だから昼はね、糸満街道に沿った小さい部落内や林の中に隠れて、夜だけ街道に出て歩いて少しずつ進んで行ったんですよ。だから糸満に辿りつくまでに一週間ぐらいかかったと思いますね。またあの頃から、私たちは死人を見ました。街道を通っているときや、部落に隠れるときや、樹の蔭などで、ときどき死人が転がっているのを見ました。たいてい兵隊の死人でした。

 

ただあてもなく南の方に向かったんですね。私たちは夜のうちに糸満の漁村を過ぎて行ったんです。そして糸満の上の方の、名城の部落までの坂道を登るときには、そうとう艦砲射撃が激しかったですね。砲弾がどんどん眼の前の海から陸地に向かってとんでいましたよ。比較的、奥地よりは海岸に近い方が安全かもしれませんね。でも、昼はもちろん、夜でも危険なので、みんなそこは通らないんです。また、そこは海から全部見通しがきくので、通れませんよね。私たちは地形のことは何も知らないもんだから、そこを通ったんです。岩蔭に隠れたりして、時間がかかりましたけどね。通りながら、坂道から軍艦を見たんですよ。

 

名城から小波蔵の方へ行ったんですけど、小波蔵あたりでは、部落の民家に隠れたりしました。たいてい茅葺の空家があっちこっちに二、三軒残っていましたので、そんな家に入りこんだり、また石の側で野宿したりしていました。あのあたりでは、壕らしきものは、見あたりませんでしたね。

 

それから米州・伊原、今の姫百合の塔の近くまで、あの一里ぐらいの距離の間を、往ったり来たりして、袋の中のネズミみたいに、うろうろしていました。そのあたりには、死人も多いし、生き残りの人たちも、ただろうろしていました。沖縄本島の、そこは南端ですからね。どこに行っても敵がいるという話でしたね。こっちの方へ行ったら、こっちには敵がいるというし、また反対の方に行ったら、そっちにも敵がいるというし、何度か往ったり来たりして、うろうろしていたんです。

 

伯母は赤ちゃんをおぶっていましたけど、背中の傷を私に見て貰うときや、赤ちゃんに出ない乳を吸わせるときや、水を飲ましたりするときなど、ときどき抱いたりしてね。私は救急袋から着替えを出して、モンペをスカートに着替えたりしてね。三人とも痩せこけていて、意識は夢遊病者のように朦朧としていたんです。今から思い出すと、ぞっとするようなことばかりで、思い出すのも厭ですね。思い出すことが、とても厭ですね。今では、とてもやれないことを、やっていたんですものね。あの頃、伯母の背中の傷口からは、蛆虫がいっぱい湧いていましたね。その蛆虫を私はときどき取って上げていました。薬があるわけではないし、治療法はぜんぜんないですから、そのまま放ったらかしでした。ただ通りがかりの人に教えられてね、小便で消毒するといいという話でしたのでね、私は自分の小水を布切れに浸して、それで拭いて上げたりしていましたね。傷はマッチぐらいの大きさでしたけど、深い傷で、肩の骨が見えていました。その中に入りこんでいる蛆虫を、私は手でいちいち取っては捨てて、小水で拭いてやったりしたんです。

 

何度も命拾いしたわけなんですけど、私の側にいる少年が死んだのは、糸州の部落だったと思います。あのあたりに大きな家一軒だけが残っていて、近くに防空壕もあったんですよ。そこには兵隊たちが固まって入っているらしく、その家に御飯を炊きに見えていましたけどね。私たちは兵隊たちの様子を見ながら、その家の近くの、石垣の側に隠れていたんですよ。昼間ですから、いつ弾がとんでくるか判りませんからね。


あのへんの石垣は特徴があってね、小さい石がいっぱい積まれていますでしよう、そんな石垣の側に隠れていたんですけどね。そのとき、私と伯母が並んでいたら、私の側に、五つか六つになる男の子がいつの間にかくっついてきてね。その少年は一人だけで、親は一緒じゃないんですよ。はぐれて一人になったんでしようね。私の側に坐っているんですよ。そしたら突然、石垣の近くに艦砲が落ちてね。石垣が全部崩れて、私たちの上に倒れてしまって、気がついたら私は上半身だけ出ていたんです。見たら、伯母は赤ちゃんをおぶったまんま、ぜんぶ覆いかぶさっていたんですよ。

 

艦砲射撃は同じ所に二、三回は来る、というのが常識になっていましたから、その相間に逃げないと危ない、と私は咄嗟に思って、通りがかりの兵隊たちに、私は大声で助けを求めたんですけどね、誰も助けてくれないんですよ。それで私は必死になって、幸にも小さい石ばかりでしたから、出ている手で大急ぎで小石をどんどんどけて、そこから脱け出て、それから伯母の上に被さっている石も大急ぎで取り除いてですね、助け出したんです。今から考えると、その動作はものすごい速さだったと思うんですけどね。

 


で、伯母も赤ちゃんも怪我はしてなかったんですけど、赤ちゃんは窒息死したみたいになっていたんです。伯母は大丈夫でした。そこで、私の側にいた男の子はどうなったかと思って、見廻したら、石垣の内側にあるバナナの木の大きな葉っぱの上にね、左右に別れた葉っぱの付根の上に、ぶらさがって死んでいたんです。その男の子の着物はぼろぼろになってね、その顔は真っ赤に血だらけになって、目も鼻もわからなくなっていました。私は自分のことは忘れていましたけれど、後で気付いたら、膝から下の両足はあっちこっち摺りむいて血がにじんでいました。

 

伯母は急いで赤ちゃんをおろしてね、息をしないもんだから、死んでいると言うんですよね。そこで私は、とにかく自分たちの命が先決だから、という意味のことを早口で言い、伯母も逃げるつもりで赤ちゃんを地面に置いたらね、ギャーと泣き出したんです。あ、まだ生きていると伯母は言って、また抱き上げて、すぐにそこから逃げたんですよ。赤ちゃんは一時失神していたんですね。その間の出来事は、わずかな間のことだったように思います。

 

あの頃は、どこにでも死人がいっぱいありましたね。兵隊も民間人も大きく張れて死んでいるのやら、まだ血のついた死体やらが、ごろごろしていました。ああ、あの死体は、この前通ったときには普通の大きさだったけれど、いつの間にかそうとう脹れているな、と思って見たんですよ。だから何度も同じところを通っているんですよね。

 

水は、たいてい夜になってから、汲みに行きましたけどね。井戸が見つかったときは井戸から、見つからないときは、水溜りからでも。どこだったか、伊原に近いところだったでしょうけどね。そう遠くない所に、爆弾の落ちた跡の大きな穴があって、地形や地質の関係で、そこが池になっていましたからね、二、三日そこの水を夜になると行っては汲んできて飲んでいたんです。そして砲弾が静まった頃を見計らって、そこから立退くときに、その池の側を通ったんです。そしたら、そこには死体がいっぱい浮かんでいたんです。すごく穢ない水だったんです。それを知らずに飲んでいたわけですね。


あの頃はね、食べるものがなくて、爆弾で荒された畑から、なんでもほじくって、拾って食べていました。大豆の時期が終りかけた頃で、ところどころに立枯れて残っていたんですよ。それを摘んでね、友軍が食事を炊いた跡の残り火がありますでしよう、そこでわずかばかりの大豆を焼いて食べたこともありました。ヘンな話ですけどね、メンスはすでに止まっていましたね。私の場合は、敗戦後、約一年はなかったですね。食生活がひどく欠乏していて女の人たちは、みんなそのようでしたね。私はまったく栄養失調でしたから、骨と皮になっていましたよ。そして、顔も洗ったこともないし、入浴したこともありませんでしたから、汚ならしい乞食みたいになっていたんです。

捕虜になる

捕虜になったところは、伊原の部落だったと思います。農道に面して石垣があったんですよ。その石垣に面して、茅葺の民家が一軒残っていましてね。そこへ兵隊や民間人がつぎつぎと集まって大勢になって、みんなぼんやり入っていたんです。私も伯母もその家の小さい縁側にぼんやり坐っていました。そしたらね、急にアメリカ兵とタンクの上の方が石垣のむこうに見えたんですよ。それで、敵が眼の前にきているって、誰かが叫んで、大騒ぎになってね。逃げる元気のあるものだけは、その家の裏からどうっと逃げたんですよ。私も伯母も、一緒に逃げたんです。

 

裏のむこうには小高い丘があったんですけど、そこには行かずに、すぐ近くの藪の中にみんな逃げたんです。そしたらね、後で気がついたんですけどね、裏の小高い丘には、アメリカ兵がずらりと並んで、立って小銃を構えていたんですね。だから突然、一せいに小銃で私たちを射撃したんですよ。

 

逃げた人たちの中に兵隊がまじっていたからかもしれませんけどね、藪の中に逃げた人たちはほとんど、弾に当って、つぎつぎと倒れたんです。倒れるのを見ながら、逃げて行くうちに、私もそのとき、小銃の胸部貫通を受けたんですよ。左胸から背中に弾が抜けたんです。何かショックを一瞬受けたんですけど、逃げるのに夢中になっていたもんですから、すぐには気付かなかったんです。逃げながら、途中で出血がひどいのに気付いたんです。それから疲れきって、伯母と一緒に木蔭にたん隠れたんです。そのとき私は胸を弾が貫通したことに気付きましたね。左胸から背中に弾が抜けていたんですね。また伯母はね、抱いていた赤ちゃんが死んでいることに、そのとき気付いたんです。二人はこうもしておれないと思いましてね、死んだ赤ちゃんを木の根っこに置いて、また二人は逃げたんです。


逃げて行くと、石垣を利用して小屋みたいに簡単に囲った小さな防空壕がありましたから、そこに私たちは隠れることにしました。覗いてみたら、そこには三世帯の人たちが隠れていました。その人たちは悲壮な気持で何やら相談していました。後で判ったのですけど、夜になったら海岸づたいに国頭へ逃げた方がいいと言うんですよ。米須を通って海岸におりたら、国頭の方へ行けると話していましたね。私はそこの中に入れて貰って、寝転んだら、とたんに動けなくなっていたんですよ。意識は割合たしかだったんですけど、ただすごく喉が鳴いて、水が欲しくなっていました。幸にその防空壕にはサトウキビの切れっぱしが二、三本残っていましたから、伯母がそれを噛んで絞って、キビ汁を私に飲ましてくれたんです。出血はひどかったんですけど、だんだん固まってきていました。傷の手当てのしようもないので、そのままにして、ただ私は寝ていたんです。

 

夜になったら、前からそこにいた人たちが、国頭へ脱出するために、いよいよ出て行くというんですね。私は動けませんでしたから、伯母に自分は残るからこの人たちと一緒に行ってちょうだいと言ったんですけどね、伯母は私にあんたが死ぬんだったら一緒に死ぬから...............と言って、残ることになったんです。私たちを残して、他所の人たちは、出て行ったんですけどね、どうなったことやら・・・。


夜が明けたらね、伯母は死んだ赤ちゃんを探しに出かけたんでそして手ぶらで帰ってきて、赤ちゃんを置いた場所がどうしても探し出せなかったと言い、ついでに昨日逃げた茅葺の家の様子を見てきたと言っていました。どうも、逃げないで家の中に残っていた人たちは、そのまま捕虜になったらしい、いろいろ食べ物をアメリカ兵から貰って、みんな無事の様子だった、大丈夫のようだから、ここにいるよりもみんなと一緒の方がいいから、行こうと言うんですよ。どうせ死ぬかもしれないんだから、むこうがいいかもしれない、と私もその気になって、行く決心をしたんです。

 

それで私は伯母におぶさるようにして、両手で伯母の肩にしがみついて、ゆっくり一生懸命に歩いてですね、茅葺の家まで私たちは歩いて行ったんです。そしたら、アメリカ兵が待ち受けていたんです。私はすぐに担架に寝かされてですね、お菓子のような食べ物をあたえられたんです。アメリカ兵から親切にして貰ったんですけどね、私たちはそれでも不安でしたね。後で殺されるんじゃないかということを、みんな口々に話していましたからね。それから、その朝のうちに、トラックがきて、みんな乗せられて糸満の方へつれて行かれました。そこは伊良波だったように思いますけど、金網の中に、捕虜が大勢いました。私と伯母は、怪我人だけの入っているテントに入れられ、私は寝台に寝かされたんですけど、そのときから意識は完全に朦朧となっていました。そこで私は傷の手当てを受けたようです。伯母も海軍壕で負傷していましたから怪我人でしたけど、私はほとんど伯母の看病を受けていました。

久志の病院で手術を受ける

それから後、何日間そこにいたのか、はっきりしません。私たちはトラックでどんどん運ばれて、久志村の久志というところの、海岸にある病院に入れられたんです。久志についた頃から意識ははっきりしてきていました。テントの色はオリーブ・グリーンで非常に大きなテントでした。そこに私と伯母は約半年間いました。

 

その半年の間に、私は二回手術を受けました。久志の病院についてから暫くするうちに、私の胸の傷口は、ふさがっておりかけていたんですけどね、二か月目ぐらいに、中が化膿しているということになって、全身麻酔で手術を受けたんです。それから二回目の手術のとき、一週間ぐらいぜんぜん意識不明になったことがあるんですけどね。そのときは、高熱も出て、私の髪の毛はほとんど脱けていましたね。その間もずっと伯母が看病してくれました。

 

そこでの食事は、スープやミルクが多かったようでしたね。それほど食欲もなかったんですけど、病食としては、ちゃんとしていたと思いますね。医者はアメリカ人で、四十歳ぐらいのでっぷり太った感じのいい人でした。いつも物柔らかく親切で、手術をするときも、慰めるように、鼻歌をうたいながらね、陽気にやっていましたけどね。

 

五か月ぐらい経つと、私は元気になって、話もできるようになっていました。ただ、長い間寝たっきりでしたのでね、ベットのふちをつかまえてしか歩けませんでした。退院するときも、まだちゃんと歩けなくてね、ふらふらしていました。

 

退院後は、伯母と二人で古知屋に行きました。戦争が激しくなる前に、もう一人の叔母が叔父と一緒に古知屋開墾に行って、古知屋にそのまま棲んでいましたから、その叔母たちを頼って行ったんです。古知屋には、叔母たちが家を持っていましたから、その家に入れて貰って、みんなで共同生活をはじめたんです。私はまだ半病人でしたから、ほとんど寝てくらしていましたけどね。ただそこでは、敗戦後のすさんだ気持と、食糧難でね、大変でした。配給では足りなくて、みんな飢えていましたからね。私はそこで親戚同士ででも食べもののことで争ったりしているのを見て、人間のあさましさ、醜い面を見たような気がしましたね。

真和志村出身者が集められ米須に

古知屋には一か月いたでしようか。古知屋からは、真和志村出身の人たちだけに呼びかけがあってね、南部の米須に集められたときにね、叔母たちのシマ(部落)が樋川でしたから、私たちもみんな叔母たちにくっついて行くことになって、トラックで米須に移動したわけですよ。

 

米須に真和志村民をまとめたのは、米軍の指令だったそうですけどね。私たちがトラックで行ったのは、昭和二十一年の一月下旬か二月上旬だったと思います。その頃、私はすっかり元気になっていました。米須では、村長も任命され、各テントには班長もいて、割合組織的になっていて、名ばかりでしたけど学校もできていました。大人も子供も、私たちは毎日、担架を持って、アメリカ製のゴム手袋を嵌めて、人骨を拾う仕事をしました。米須を中心に、姫百合塔のある近くにも行きました。私たちは計らずも捕虜になった地点にきていたわけです。


米須一帯には、いたるところに人骨が転がっていました。ときにはミイラもありましたね。白骨の中に、サラミソーセージみたいな色をした乾いたミイラがあって、たいていミイラは軍靴を履いていましたね。白骨はこわくなかったんですけれど、ミイラはこわかったですね。

 

また、あのへんの畑の、ニンジンとかサツマイモとかトマトなどは、人間の頭みたいに大きかったですよ。ほとんど砂地ですからね、土からサツマイモなんかとび出しているわけですよ。それを取ろうとすると、必ず側に白骨がありましたね。国頭から来たじきは、みんな飢えていましたから、みんな欲ばって、野菜だから多く取りすぎても仕様がないのに、われ先に拾い集めていましたね。米須に何か月かいてから、真和志村民として、集団で、豊見城の嘉数に移動しました。ちょうど捕虜になってから、一年経っていて真夏になっていました。

真和志村民、豊見城嘉数に

嘉数では、米軍から兵隊服やら、いろいろな日常品の支給がありましたね。仕事といったら、ほとんどイモ掘り作業でした。また、廃物利用して、いろいろな生活必需品を、大人たちは作っていました。私は棕櫚のこげ茶色の毛でもって、歯ぶらしを作って、それに塩をつけて歯を磨いたことを覚えています。その頃からはもう、いくらか建設的な動きがありましたね。割りと生活は、人間らしくなっていました。また、糸満ハイスクールの分校として、真和志ハイスクールができていましたから、私も学校へ行くようになりました。校長先生は、翁長助静さんでした。


学校のかたわら、私もイモ掘りに行きました。ほとんど嘉数の周辺で、遠くても国場の傾斜している森の手前までです。その頃、黒人の強姦事件がたびたび話題になっていましたけどね、実際に見たことも追われたこともありませんでした。

 

それから、小学校のときの親しい友達のことですけどね、これは話していいかどうか、気になっていたんですけどね。実は今日、ここに彼女を呼ぼうかな、とも思ってみたんですけど、彼女に戦争のことを話させるのは、あまり残酷なような気もして、ひかえたんですけどね。

 

彼女たちが、津嘉山の防空壕に入っているときだったそうです。その壕は直撃を受けて、彼女のお父さんは即死したんですって。そのときに、お母さんは破片で左腕を骨ごと切られて、皮だけでぶらぶらぶらさがっている状態になって、とにかく早くここから逃げよう逃げようと言っていたんですって。私の同期生だけが無傷で、他に妹さんが二人いて、そして末っ子の男の赤ちゃんもいて、お母さんは一人で歩くのがやっとだったから、彼女が赤ちゃんをおぶってね、下の妹さんの手を引いてね、その防空壕から逃げて行ったんですって。

 

その逃げ出すときに、彼女のすぐ下の妹さんはね、小学四年生で、優しい気質の可愛らしい子でしたから、私も可愛がって遊んだ記憶もありますけどね、その妹さんは両足を太腿から切断されて、生きていたんですって。それで、私の同期生のお姉さんがね、私は赤ちゃんもおんぶしているし、妹の手も引いているし、お母さんは大怪我して一人で歩くのがやっとだから、あんたはね、ついて来れるんだったら、後からついていらっしゃいね、と言って、そのまま置きざりにしてきたそうなんですよ。そしたらね、彼女たちが逃げて行くとき、つれて行ってちょうだい、とすごく泣いていたんですって。

 

その泣き声がね、今でも耳にこびりついているというんですよ。その妹さんはそこで別れたっきりそのままですって。

 

その彼女とはね、私は古知屋から久志の病院に通院しているとき、歩きつづけると息切れしますから、何回か休憩して行っていたんですけど、その休憩しているときに、偶然に出会ったんですよ。道端で会ったら、彼女はわっと泣き出してね、すぐ妹さんの話を泣きながら話してくれたんです。

 

だから、今でもその話をしたら、彼女はすぐ涙ぐむでしようからね、私は呼ばないことにしたんですよ。

 

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