【Archive 2-3】校長の沖縄戦 - 95%の学徒が犠牲になった沖縄県立工業学校

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沖縄工業健児之塔、初めて聞かれる方も多いそうですが沖縄戦に動員された学徒隊のひとつである沖縄縣立工業学校の戦没者を祀っています。上級生は工業鉄血勤皇隊輜重兵(しちょうへい:後方担当の部隊)第24連隊に、下級生は工業通信隊として第5砲兵指令部通信隊として動員されました。後方担当の部隊への配属であれば、戦闘の最前線に出ることはあまりないようにも思うのですが、戦況の悪化とともに前線へと借り出され、砲弾の飛び交う中での伝令や斬り込み隊をはじめとした危険を伴う任務に就き、加えて組織的戦闘が既に終焉を迎えていた時期に出された解散命令により、取り囲まれた米軍の包囲網を突破できずに多くの戦死者を出しました。

沖縄工業健児之塔、全景。 - 糸満市、沖縄工業健児之塔の写真 - トリップアドバイザー

 

沖縄県立工業高校では、生徒97名教師7名のうち、生徒88名が戦死しました。以下はその学校の校長だった人へのインタビューです。

 

 

戦禍を掘る 第2部・学徒動員

[7]工業学校長の沖縄戦(上)生徒が兵舎を建築

2010年2月15日

校長も作業の“現場監督”

 

 「脳いっ血で倒れてからは会合にも出ないし、人とも会わないことにしている。長い話になると言葉が不自由になるんで…」―電話口の声は弱々しかったが、インタビューには頑として応じる気配を見せなかった。声の主は師範女子部と一高女の“ひめゆりの乙女”たちの校長・西岡一義さん(83)だ。

 

 戦後一度も沖縄を訪れたことがない西岡さんに、その胸の内を聴いてみたかったが、かなわなかった。

 

 当時、校長として沖縄戦を体験した人は少ない。戦死した者もいたし、戦後、亡くなられた方も多い。比嘉徳太郎さん(88)=那覇市松山=は昭和19年から沖縄工業学校校長に赴任、病体のまま沖縄戦へと入っていった人だ。

 

   ◇   ◇

 そのころには、生徒らの陣地構築のため作業は連日の日課となっていた。午前中の授業を終えると午後からは作業出動。小禄飛行場、天久高射砲陣地、与那原突堤等々―。校長としての仕事も、また作業現場の巡視に変わっていた。

 

 比嘉徳太郎さんは19年、宮古中学の校長から転任してきたばかり。宮古中学校長時代は、がけ下の雑木や雑草の生い茂る荒地と“格闘”し、イモ畑に開墾していった。また学校近くの山に松の苗の植林も行っており、「銃後の守り」の二大業績を残した、と誇るものがあった。

 

 工業学校の生徒たちの働きも比嘉さんには、たくましく思えた。特に小禄の三角兵舎作りに動員された建築科の生徒たちの手際のいい作業には感心させられた。指揮する兵隊の存在さえ感じさせないほど生徒が主体の兵舎建築で、「工業健児ここにあり」と校長としても満足した。

 

 巡視は生徒らを元気づけることが主だったが、張り切りすぎる者へのブレーキも必要だった。「飛行場建設は丘から低地に土砂を運ぶぐらいの作業だったが、戦時気分でやるものだから骨折する生徒も出た」

 

 5、6月の勤労奉仕は、まだ余裕があったかもしれない。工業学校は7月、校舎を軍に徴用される。生徒らは学校で授業することなどなくなった。

 

 10・10空襲の日は、あわてて学校に向かった。「御真影を奉遷奉護することしか頭になかった。幸い学校は無事だった」と言う。しかし、若狭町にある自宅は、その日の空襲で焼失してしまった。その後、すぐに比嘉さんは病気で倒れ、翌年1月まで欠勤が続く。

 

 そのため学徒動員への動きは直接的には知らない。比嘉さんは「そのころの校長会は既に軍に協力する覚悟はできていた。教学課は慎重に運んで、軍と対立しているということを聞いたが、校長会の雰囲気は学徒童心に反対できるようなものではなかった」と言う。

 

 欠勤中の比嘉さんに、「工業学校生107人が通信隊員として入隊した」と知らせたのは教頭の鈴木支省さんだ。20年1月初め、軍の要請で適性検査があり107人が合格している。建築科2年の一部と3年生は軍の測量関係に従事していたから除外されている。

 

 教頭の報告を受けた時の心境を比嘉さんはこう話す。「これで工業の技術が認められた。生徒たちが郷土を守ることで校長としての職務を遂行できたとの満足感もあった」

 

 比嘉さんが再び出勤するようになったのは翌20年の1月19日からだ。生徒らに軍人精神を盛んにぶっていた配属将校の姿もなくなっていた。比嘉さんは「逃げたんじゃないですか」と言う。

 

 鈴木教頭の姿もまた見えなかった。「文部省から宮古中学校長への辞令がすでに発令されていた。船便の都合がつかなかったのか行けなかったが、そのまま防衛召集されてしまって…」。山梨県出身のこの教育者は沖縄戦で亡くなった。戦死場所も「南風原方面」としか分からないと言う。

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年11月26日掲載

 

[8]工業学校長の沖縄戦(下)詔書類に火つける

「鬼畜のじゅうりん」回避

 

 県立工業学校の壕は伊江殿内裏の儀保川左岸にあった。「艦砲が激しくなったから3月25日には移らざるを得なかった。壕のいちばん奥に勅令等を奉納して、生徒ら数人と壕を守った」と比嘉徳太郎さんは言う。生徒の奉仕作業に対する報酬だったのか軍から配給されていた米も4、5俵残っており、壕内で缶入りのアルコールでおかゆを煮た。時には艦砲の合間に対岸に出てご飯を炊くことができた。

 

 生徒らはすでに各部隊に散っている。沖縄戦が口火を切った3月23日、その日は南部の中等学校の鉄血勤皇隊首里城に集まり、盛大に結成式が行われるはずだったと比嘉さんは言う。「3月の初めごろ城岳で開かれた緊急校長会で決定された。当日は厳しい空襲で、それどころではなかった」。

 

 比嘉さんが工業学校生の学徒を集団で見たのは翌24日。約20人の通信隊の生徒たちが学校にやって来た。下士官に引率された一隊は比嘉さんに出陣のあいさつをするとともに、学校に保管されていた教練用の銃剣を譲り受けたいと申し入れた。軍は生徒らを駆り出すほど兵員が不足しているばかりか、銃器もないほどに窮していることを知らされたという。

 

 5月12日、米軍が首里の間近まで迫った時、比嘉さんらも東風平村富盛まで撤退した。壕を探している時、歩哨兵に呼び止められ、学校職員と知ると、部隊壕に案内された。立って歩けるほどの大きな坑道を中心に、ムカデの足のように個室が延びていた。

 

 そこまで比嘉さんに付いて来たのは、生徒の当原昌信、宮城和雄の2人。「他に一般青年が何人かいたが壕に着いた時、全員召集された」。

 

 6月初旬、米軍が迫って来ると、「非戦闘員は退去せよ」との命令が出た。病気が再発、体が衰弱しきっていた比嘉さんは、到着した時から休養を許されていたが、壕を退去しなければならなかった。トラックで国吉まで運ばれ、そこで“非戦闘員”たちは解散となった。生徒2人とはそれ以来会うことはなかった。

 

 比嘉さんの荷物は風呂敷包みが1個。黒塗りの箱に入った教育勅語戊申(ぼしん)詔書(明治41年の戊申の年、上下一致や勤倹などを説くため出された詔書)を包み、首から前につるしていた。「御真影を奉遷してあとは校長として一番に守らなければならないものとなった」と言う。

 

 だが、それも戦場では守りきれないものとなった。「いつ敵の手に渡るか分からない。鬼畜米英の手でじゅうりんされるよりは、自分の手で焼却した方がいい」―だが、火をつける時、特別にかしこまってやって記憶はなく、また何の感慨も起こらなかった。

 

 戦場で病人が生き抜くことは並み大抵のことではない。艦砲の穴にたまった水は泥水だったから、できるだけ田んぼの水をすくって飲んだ。軍隊がこぼした米を見つけるとくつ下に入れて大切にした。困ったのは生命をつないでいるサトウキビを米軍が遠慮なく火炎放射器で焼き尽くしてしまうことだ。

 

 憲兵が2人、道ばたで大の字になって死んでいるのを見た時、すぐに「自決する時のために」とピストルを捜した。死への恐れはなく、苦しみながら死んでいくことへの恐怖があったからだ。だが、すでに持ち去られたあとだった。

 

 忘れられない光景もある。国吉から伊敷に向かう途中、右半身の皮がめくれている兵隊の姿を見た。「やけどとも思えないが、どうしてあれだけ皮がめくれていたのか。それにうめき声もなく平気な顔で歩いていた」。

 

 比嘉さんは6月22日、米軍に収容され、病弱の身で沖縄戦を生き残った。

 

 だが、工業学校からも多くの若い命が散っていった。比嘉さんは「戦前の私たちが教えたことは日本国志向のことばかりだった。郷土のことは無価値に見て、ただ皇国の民となることばかりで…」と、教育の恐ろしさを痛感する。

 

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年11月27日掲載

 

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