琉球新報「戦禍を掘る」戦死者名簿 ~ キムンウタリ

戦禍を掘る 戦死者名簿

遺族との連絡困惑 伊禮さん 同時入隊者の詳細を…

 戦死場所や年月日などが記された「戦死者名簿」が埼玉県戸田市在の戦友から届いたのは、恒例の慰霊祭を西原の塔前で終えて間もない11月下旬のことだった。名簿をめくりならが伊禮進順さん(58~=糸満市阿波根=は亡き戦友の最期をとつとつと語ってくれた。

 

 「アイヌだと言っていた幌内正雄は手りゅう弾で両足をやられ、ワーワー泣いていました。仲程信吉も軽機関銃の引き金に手をかけて撃とうとしたまま左胸をやられて死んだんです。夜、遺体を引き取りに行ったら、そのままの状態で硬直していたのが頭に焼きついています。前日に、運玉森を背にして『いつになったら家族のところに帰れるかねえ』と話していたばかりなのに」

 

 遺体を埋めた場所に砲弾が落ちて、遺骨収集ができなくなった友も多い。津堅出身の田場正行さんは、伊禮さんら5人で埋めたが、場所を詳しく覚えていたため後に発掘されている。「田場君なんか幸せですよ。遺骨が分かっただけでも。確実に本人のものと判明した遺骨は少ないので」と伊禮さん。田場さんを埋めた残りの4人も帰らぬ人となってしまった。

 

 絶えず、米兵の声、顔までが見える距離で戦い続けた。西原町小波津の手りゅう弾戦では、小隊約50人中、伊禮さんら2人のみが生き残っただけである。伊禮さん自身も手りゅう弾でこめかみ近くをやられ、出血。黄りん弾で左手の甲も焼かれた。また、砲弾を担ぎに行った時、艦砲射撃があり、飛び散った破片が右のひざのさらに突き刺さった。「糸満の新垣壕では負傷兵はじゃまだといわれて追い出されましたよ」。今でも残る傷跡を見つめ、つぶやいた。

 

 伊禮さんは昭和19年10月15日、具志川村字平良川の具志頭国民学校に本部のあった歩兵第89連隊(山3476部隊)に入隊した。会社勤めをして間もないころである。伊禮さんの記憶では、現地入隊した初年兵は298人。このうち32人が復員している。

 

 戦没者の慰霊祭は毎年秋に部隊の激戦地となった西原町で行われるが、わが子、夫、、兄弟の消息や最期を尋ねてやってくる遺族は後を断たない。しかし、山部隊に所属していたという手がかりのみで尋ねられても、山部隊の中にはいくつも部隊があったため、確かな返事をしてやることができず、伊禮さんは胸を痛めていた。

 

 「せめて一緒に入隊した連中のことだけでも、私ら何人かの生存者で最期を話してあげられたら…」と思い立ち、同部隊生存者で組織している八九会の事務局に戦死者のリストがないか問い合わせた。そして、当時連隊本部にいた丹羽敏明さんからこのほど、名簿が届いたのである。

 

 ところが、名簿に掲載されている住所は戦前の本籍地で、地番の変わった現在、遺族に連絡が取れなくて困ってしまった。伊禮さんは「昭和19年10月15日に具志川で山3476部隊に入隊した人に心当たりのある遺族の方は連絡してほしい」と呼び掛けており、去る12月には比嘉正夫さん=名護市字山入端=からの問い合わせで、弟の培三郎さんの最期を伝えることができた。

 

 「あれからもう40年になるんですねえ」。伊禮さんにとってこの歳月は、心の傷が深くなる毎日だったという。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年1月9日掲載

 

沖縄戦慰霊碑「南北之塔」に刻まれた「キムンウタリ」とは 

アイヌと沖縄の絆 糸満真栄平

琉球新報 2023/03/30

糸満市真栄平住民との交流のため南北之塔を訪れたアイヌ民族の秋辺日出男さん(左)と玉城美優亀さん(中央)、2人の知りあいでともに訪れたバンド紫の宮永英一さん=昨2022年5月(玉城寿明さん提供)

 

 沖縄戦で亡くなった数千人の兵士や住民の遺骨が眠る糸満市真栄平の「南北之塔」。納骨堂の上に立つ慰霊碑の側面にはアイヌ民族の言葉で「キムンウタリ」(「山の仲間たち」の意)と刻まれている。沖縄戦に従軍したアイヌ民族出身の元日本軍兵士、故弟子(てし)豊治さんと真栄平住民の交流により碑文は刻まれた。だが説明板にアイヌ民族についての言及はなく、なぜここに足跡があるのかはうかがいしれない。

 

 アイヌ民族アイデンティティーを持つ玉城寿明さん(35)は、南北之塔を通して双方の絆を強めようと模索している。

 

 1960年代、琉球政府那覇市識名の中央納骨堂に、各地の納骨所の遺骨を移転するよう要請していた。真栄平区はこの要請を拒否し、地域で戦没者を弔おうと資金を出し合い、66年に南北之塔を建立した。

 

 南北之塔の名称は「北は北海道から南は沖縄まで全国の将兵と沖縄の住民を弔う思い」から命名された。真栄平住民と懇意にしていた弟子さんは納骨堂の上に立つ慰霊碑を寄贈した。自身が所属し真栄平周辺に展開した「山三四七六部隊」にちなみ「山の仲間たち」の碑文を慰霊碑に刻んだ。

 

 弟子さんの縁もあって南北之塔にはかつてはアイヌ民族が定期的に訪れ、慰霊祭を催していた。だが80年代に出版された本に弟子さんが主導して南北之塔を建立したかのような記述があったことで双方の絆に亀裂が入った。住民は「『アイヌの墓』ではない」と怒り、2001年には糸満市議会に陳情を提出する事態にまで発展した。

 

 寿明さんと母の美優亀さん(62)は真栄平住民とアイヌ民族の交流が続くことを願う。そこで昨年5月に親戚の阿寒アイヌ工芸協同組合専務理事の秋辺日出男さんを南北之塔に招いて真栄平の住民と交流した。今年6月の慰霊の日の前の清掃活動にも秋辺さんを招く予定だ。

 

 寿明さんは「南北之塔は沖縄戦の残酷さを伝える塔であると同時に、アイヌと真栄平の住民がお互いの人種を越えて絆を強めた象徴でもある。双方が理解し合う場になってほしい」と語った。美優亀さんは一つだけ願う。「沖縄とアイヌがお互いを知り、交流を続けてほしい」
 (梅田正覚)

 

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■