琉球新報『戦禍を掘る』再会 ~ 球18811隊橋本隊

 

戦禍を掘る 再会 球18811隊橋本隊

39年ぶり大粒の涙 戸谷さん 語るほどに喜びわ

 昨年12月、「戦禍を掘る」情報特集の人捜し呼び掛けで一つの出会いが実った。「沖縄でお世話になった新垣さん一家を捜してほしい。これまで3度来沖し、捜したが果たせなかった」―と遠く愛知県にいる元日本兵の呼び掛けだった。聞けば、世話になったのはたった2カ月余。那覇空港で39年ぶりに対面したおばあちゃんと元日本兵は、まるで本当の母と子のようだった。大つぶの涙を流しおばあちゃんは「会いたかった」と再会を喜んだ。

 沖縄戦では、多くの民家が日本兵に使用された。一般住民9万4000人、日本兵6万1000人が戦死した。一民家で一時期、日本兵と民間人が生活をともにし、別れ、生死をさまよい、生きて再会した。

 元日本兵は愛知県江南市に住む戸谷敬市さん(62)。昭和17年2月、名古屋で入隊、満州に渡った。19年10月、10・10空襲で残がいと化した那覇に移駐した。がれきの山を片づけることから始まった。

 戸谷さんは言う。「正直いいまして、沖縄の人を最初に見た時は驚きました。色が黒くて、背が低い。はだしで、話している言葉が分からない。えらい所に来た、と思いました」。24歳、長身青年兵の見たウチナーンチュ(沖縄人)だった。

 沖縄での部隊は球18811橋部隊。早速、豊見城村根差部の新垣ウトさん宅を借りて、沖縄での兵生活が始まった。「まず、便所に弱りました。豚がいるんですよ、下に」「仕事は壕掘りばかりだった」「男の赤ちゃんがいて、よくおんぶして遊びました」

 その家が今回、再会を果たした新垣さん一家だった。「おばあちゃんやおばさん、娘さんがいました」―と戸谷さんの記憶に残っていた人はほとんど亡くなっており、再会したのは、比嘉カマトさん(87)と新垣カメ子さん(49)、それに当時新垣さん宅の隣にいた大城コトさん(67)の3人だった。語り合うほどに記憶はよみがえった。

 「谷さんと呼ばれ、とてもかわいがられました。何もない時だったろうに、いろんなものをごちそうしてもらった。中でもお芋がとてもおいしかった」

 家族のような生活が2カ月ほど続いた後、12月末には南風原の津嘉山に移って行った。あけて20年1月には泡瀬、3月末には嘉手納など点々と移動した。そして、敵軍上陸の4月以降、激戦の首里攻防戦に参加した。

 

 

 「激しい戦いで、仲間が次々目の前で死んでいきました。私も、ほれ、ごらん下さい。5月に迫撃砲を受け、この通りです」とシャツをめくった。右わき腹にはっきりと分かる傷跡があった。「130人もいた仲間が、現在生き残っているのは、私が知る限り、2人だけ。自分が生きているのが不思議なくらい。と同時に、おめおめ生き残った気もして」

 仲間を失い、九死に一生を得て生き残った人の心の片すみを見たようだった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年1月10日掲載

 

尽きない思い出話 兵隊たちを住民が世話

 空港での再会の後、戸谷さんらは豊見城村根差部の新垣さん宅に向かった。当時と同じ場所に家はあった。瓦屋根の平屋。「あの時の家ですか」と戸谷さんが尋ねた。「戦争で焼け、戦後建て替えたものです」とカメ子さんが答えた。家の周りを散策する。天水をためる石タンク、舗装されていない道、草木、青空、見る風景すべてが戸谷さんにとって、懐かしく映った。苦しい沖縄戦体験のなかで、楽しかった一時期を思い起こさせるわずかな景色だった。

 球18811隊橋本隊は根差部の民家を宿舎にした。うち、戸谷さんら8人が新垣宅に世話になった。

 その時、新垣さんの家にはカメ子さんとカマトさん(カメ子さんの母の姉)のほか、ウトさん(祖母)、ウシさん(母)、長嶺春子さん(いとこ)、金城文子さん(春子さんの妹)と春子さんの長男・ヤスアキちゃんがいた。赤ちゃんのヤスアキちゃんを除いて女性ばかりだった。「大和の兵隊がきて驚いたよ」とカマトさん。「でも、みんなやさしかった」

 戸谷さんは勤務が終わると、ヤスちゃんを抱いて散歩したり、隣のコトさん宅を訪ねた。「よく、家に遊びにきました。父が世話好きの話好きだったので、お茶や砂糖で、ずっとおしゃべりしてました」とコトさん。遠い古里のことも話題に上ったに違いない。戸谷さんを囲んで話す思い出話は尽きなかった。

 しかし、その時、既に戦争は目の前に近づいていた。

 やがて、戸谷さんらは津嘉山に内李、かわりに山部隊が新垣宅に入ってきた。そのころになると、家の裏につくった壕を利用する回数も増えてきた。米軍上陸。激しい艦砲が夜を焦がした。まず、壕の近くで、ウトさんが艦砲射撃を受け、亡くなった。

 家が焼けた。根差部一帯が焼け野原と化した。朝あった壕が夕方には、黒い骨組みをあらわにし、焼け落ちていた。避難先の島尻でウシさんが亡くなった。春子さんとヤスちゃんは辺野古の捕虜収容所で栄養失調のため死んでいった。戦後、病気で文子さんが亡くなった。

 戦争は多くの生命を無造作に奪い取った。「ヤスちゃんに会いたかった」と戸谷さん。仏壇に線香をたき、春子さんらの遺影に手を合わせた。カマトさんは戸谷さんの手を握り、繰り返し「会いたかった」と言い、手を離そうとはしなかった。

 離沖を前に戸谷さんは語った。

 「あの時は、若いからいつ死んでもいい、と思ってました。敵が来たら刺し違えて死んでも戦う、と意気込んでいた。でも、今、自分が親となって、子や孫に囲まれてみて、『この子たちには、二度とあの体験をさせてはならない』と思う。親になって初めて、子を戦場に送った親の気持ちが分かりました」

 重い言葉だった。

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年1月11日掲載

 

 

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