沖縄戦 震える少女 「あんねーる戦でぃ、むるうらんなてぃ」

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こんな小さな子供が戦場をさまよった。

 

今日は慰霊の日。

 

74年の月日を経て、

米軍の記録映像で有名な、あの戦場で震えていた小さな子ども。それは自分だったと名乗りでられたかたがいます。

 

「あんねーる戦(いくさ)でぃ、むるうらんなてぃ(あんな戦争でみんな死んでしまった)」

 

米軍の当時の貴重なカラーの記録映像と共に、その方の証言をご覧ください。

 

アメリカのカラー記録動画でご覧ください。時間あわせしてあります。

 

74年目の6月23日、

琉球新報の記事から。

 

「震える少女」は私 米軍撮影の沖縄戦記録映像 81歳の女性が名乗り 「初めて見る米兵怖かった」

琉球新報

2019年6月23日 06:00

 

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  米兵を前に身を震わせる少女―。米軍が撮影した沖縄戦の記録映像に収められ、沖縄戦を取り上げた映像作品でもたびたび映し出される少女について、浦崎(旧姓・賀数)末子さん(81)=那覇市小禄=が22日までに「これは私だ」と名乗り出た。当時、高嶺村大里(現在の糸満市大里)にいたという浦崎さんは本紙の取材に「初めて見るアメリカーの青い目が怖かった」と証言。終戦以来74年ぶりに米兵と遭遇した場所を訪れ、家族4人を失った過酷な戦争体験を振り返った。

 

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 NPO法人沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」で当時、編集にかかわった元琉球大学非常勤講師の山内榮さんは「映像は沖縄戦の末期に豊見城市以南で撮影されたものとみられる。証言の内容からも撮影された本人である可能性は非常に高い」と指摘した。

 

 浦崎さんの証言によると、撮影されたのは1945年6月下旬ごろ高嶺村大里の農道付近で2人組の米兵にカメラを向けられた。当時7歳だった浦崎さんは、15歳上の姉と避難先を探している途中だった。

 

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米軍撮影の「震える少女」について「自分だ」と名乗り出た浦崎末子さん

 

 その直前まで母と姉、弟と4人で同村与座(糸満市与座)にあった実家の墓を避難壕代わりに身を隠していた。だが、米軍の攻撃が激しさを増す中、同様に墓に避難していた隣家が砲弾を受けたのを知り、一家で墓を出た。

 

 母は弟と、浦崎さんは姉と共に、二手に分かれて行動を取ることに。米兵と遭遇したのは、母と弟の安否を気に掛けて様子を見に戻った姉を待ち、1人でいる時だったという。

 

 当時の心境について浦崎さんは「アメリカーを見るのは初めてだった。青い目が怖くてぶるぶる震えていた」と振り返った。

 

◇戦の恐怖消せない 74年前の足跡たどる

 

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74年ぶりに映像が撮影された場所を訪れた浦崎末子さん=17日、糸満市大里

 

 沖縄戦の悲惨さを映像で強烈に印象づけた「震える少女」。74年を経て名乗り出た浦崎末子さん(81)=那覇市小禄=の脳裏には今も、砲弾が飛び交う戦場を逃げ惑ったつらい記憶が刻まれている。不安の中で家族と過ごした墓、米兵を目の前にした時の恐怖。浦崎さんは元琉球大学非常勤講師の山内榮さんと共に17日、糸満市与座、大里を回り、当時の足跡をたどった。

 

 「あんねーる戦(いくさ)でぃ、むるうらんなてぃ(あんな戦争でみんな死んでしまった)」

 

 浦崎さんは雨にぬれる歩道にたたずみ、つぶやいた。視線の先には映像が撮影されたという道があった。家族で身を寄せていた実家の墓から約700メートルの距離を泥まみれになりながら歩き、たどりついた所で米兵と遭遇した。映像の少女は米兵に差し出された水筒に口をつけ、水を飲むようなしぐさを見せていた。浦崎さんによるとビスケットも差し出されたが、いずれも手をつけなかった。

 

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米軍撮影のフィルムでがたがたと身を震わせる少女に水を飲ませようとする米兵(県公文書館提供)

 

 「アメリカーからもらう物には『毒が入っている』と聞いていた。日本兵が配ったビラにもそう書いていると姉から聞いていたから、何も口にしなかった」

 

 2005年、戦後60年の節目で放送された沖縄戦に関するテレビ番組を見て映像に気付いた。「自分に似ている」と思ったが、確信は持てなかった。

 

 2年前、知人が持って来た映像の静止画像を見て鮮明な記憶がよみがえった。着物の柄を見て「自分が着ていたものだ」と思い至ったという。

 

 映像が撮影された後、越来村(現・沖縄市)にあった米軍の収容所に姉とともに収容された。母と弟にも収容所で再会したが、弟は避難先の自然壕で受けた催涙弾の影響でその後亡くなった。防衛隊に徴集された父と兄、さらには戦時中に受けた傷がもとで姉も亡くした。浦崎さんは「弟は病床で『オーオーオー』とうなって死んでいった。戦争は本当に恐ろしい。またんあてーならん(二度と起こしてはいけない)」と声を落とした。

 

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写真などでは到底、わからない沖縄戦の実相。公文書館に残されている米軍の艦砲射撃や進軍の記録映像を見れば、大人でも恐怖に足がすくむ。ましてや、それを小さなこの子たちは目の前で経験し、地獄を逃げ惑った。そして大勢の命が奪われた。

 

今日は産経新聞があいも変わらず「慰霊の日」を祈りの場だからおとなしく聞くべきなどという駄文を出し、怒りを超えて笑ってしまった。74年前の沖縄県知事も軍司令部となんども怒りをもって交渉した。聞き届けられたことなど何一つなかったが。

 

そして今再び、沖縄と沖縄の知事はだまって総理大臣がよむスピーチを聞け?

 

逆だ。

慰霊の日はむしろ

本土の政治家が沖縄県民の声を聞くべき時である。

 

グソーにいる県民、そしてこの世に生きている県民の声に静かに耳を傾けるべき時である。それを聞かずして、なにが慰霊の日か。

  

産経新聞沖縄支局のいつもの声高な傲慢さに失笑である。

 

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