V-J Day によせて ~ ドキュメンタリー『ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦』
人間の苦しみや悲しみに国境はない。
ではなぜ人間は国と国とで戦争するのだろうか。
9月2日
実は今日がアメリカにとっての終戦記念日、
太平洋戦争終結の日 V-J Day (Victory over Japan Day) である。
日本では、8月15日 のいわゆる「玉音放送」をもって終戦ということにしているが、実際には、連合国と日本とは、9月2日に降伏調印式を行っているので、この日をもって終戦と考えるのだ。
ところが、日ごろからずいぶんとSNSを使った情報戦略で日本の米軍熱狂ファンに余念がない 在日海兵隊公式 SNS では、なんと今日一日、自国の V-J Day と退役軍人に関しての投稿が一切ないので、驚いている。
日本の膨大な思いやり予算で支えられている在日海兵隊は、米軍情報戦略の拡散に貢献する日本の「太鼓持ち」に忖度するあまり、米軍の V-J Day すら投げ捨てているのだろうか。
日本が始めた戦争で、沖縄戦ならびに多くの戦場でおびただしい兵士の尊い命を失った米海兵隊が、今日、終戦記念日だというのに、なんということだろう。
ということで、
在日海兵隊のかわりに当クラブがお届けする V-J Day 投稿
人間の苦しみに国境はない。
ではなぜ人間は戦争するのだろうか。
沖縄から帰還した米兵たち、どんな戦後を生きたのだろうか。
沖縄にやってきた先住民のコードトーカーズやアフリカ系アメリカ人部隊のバッファロー・ソルジャーズ、またヨーロッパ戦線で活躍したタスキーギの戦闘機乗り、そして切り裂かれた2つの祖国の架け橋になろうと奔走した大勢の沖縄系や日系の兵士 ・・・
延々と続くアメリカの軍事主義と、すべてのアメリカの戦争で犠牲となったおびただしい命、帰国後も十分なケアが受けられず心の傷に死ぬまで苛まれ続けた退役軍人、貧困と差別と戦ってきたすべてのマイノリティー兵士たちの苦しみにも、心を寄せたいと思う。
ご覧ください。
今日は V-J Day である。
#110919 ピュリッツァー賞作家デール・マハリッジの沖縄
日本兵を殺した父 ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦と元兵士たち [ デール・マハリッジ ]
米国防総省の準機関紙 Stars and Stripes 『星条旗新聞』。沖縄では何かと読む機会も何かと多い星条旗新聞だが、そのFacebook などのコメント欄などにもよく書き込まれるのが、戦場経験者 PTSD の生々しく切実な状況であり、いつか機会があればまとめてみたいと思っている。
戦争は兵士の心まで深く切り裂く。
火炎放射器を一例にとっても、沖縄戦で多用された火炎放射器の多くの記録写真を私たちは公文書館で見ることができるが、これらの白黒写真を見ても、AI でカラー化したとしても、この兵器のおぞましさは伝わらない。
この兵器のターゲットとなったのは、日本兵や住民の区別もない、生身の人間だった。つまり兵士たちは等身大の人間を生きながら焼き殺すあまりに重い兵器を自分の背中に背負ったのである。
1978年、アメリカ国防総省は火炎放射器の装備を廃止した。沖縄戦やベトナム戦争などで多用されたその残虐性と、使用する側の精神的苦痛が議会で問題になったためとされている。
【意訳】父が私に話してくれたんだけど、これこそが第二次世界大戦時の太平洋戦域での祖父の仕事だったって。そして父が子どものころ、よく大声で叫んではねおきる父親のことを覚えていると語ってくれた。
しかし、日本の軍隊は、火炎放射器を保持するどころか、自衛隊ショーで火炎放射器の実演を一般客に見せる。
沖縄戦で、焼かれたのは住民であり、日本兵であるのだが、こういうデモンストレーションは、本土では、あるいは戦争の歴史を知らない人々には「観客受け」するのだろうか。
糸数さんが今の糸満市で投降し壕から出た時に見た光景。米兵が、赤ちゃんを背負っている中年男性のポケットを触っていたかと思うと少し後ずさりしてこの男性ののどを撃ち抜いた。のどからは鮮血が噴き出し、男性は間もなくうつぶせに倒れて動かなくなった。後に大人たちから聞いた話では「殺された男性は日本兵からもらった『自決』用の手榴弾をポケットに入れていたのではないか」ということだった。糸数さん『戦争が無くならない今の世の中を思うと、将来も戦争は繰り返されるのではないかと不安な気持ちに駆られる。しかし、戦争の悲惨さを地道に切々と語り伝えれば、戦争を知らない世代にもきっと伝わると信じている』
昔 父は日本人を殺した ~ ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦 ~
近現代史の戦争の中で、もっとも凄惨な戦いとされる沖縄戦。日本側の死者は18万人以上、米軍側の死者も1万人を超える。
ピュリツァー賞作家、デール・マハリッジは海兵隊員だった父が死ぬ直前、「自分は太平洋戦争末期、沖縄戦に加わり、多くの日本人を殺した」と告白を受ける。デールの父は、戦場から持ち帰った多くの遺品を遺族に返してほしいと言い残し、息を引き取った。父は生前、デールに一度も笑顔を見せず、絶えず何かに怯え続けていた。
父をあれほど、苦しめたものは何だったのか、デールは父と同じ部隊の生き残りを探し、全米を訪ね歩いた。その結果、父の所属した部隊は沖縄戦で240人中31人を除いて、みな戦死したこと、生き残った人たちも多くがPTSDに苦しみ続けたことを知る。
今年4月、デールは父の託した遺品を持って、初めて沖縄の地を踏んだ。それは、デールが全米で集めた貴重な証言や資料と、日本側の証言を付き合わせ、これまでベールに包まれてきた沖縄戦の実像を浮かび上がらせる旅でもあった。
リンク先からご覧ください。
1000ヤードの凝視 (Thousand-yard Stare) とは
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