琉球新報『戦禍を掘る』 伊江島女子救護隊

琉球新報『戦禍を掘る』 伊江島女子救護隊

17~24歳女子で編成  兵隊とともに切り込みも

 沖縄戦で悲劇の部隊と呼ばれて、あまりにも有名なのが「ひめゆり部隊」。年端もいかない女学生が無残にも戦火に巻き込まれ、短い生涯を閉じた。こうした少女、婦人は県内いたる所にいた。女子救護隊もその一つだ。伊江島でも昭和20年1月に、17歳から24歳までの未婚の女子青年を集めて救護隊が編成された。

 

 「昭和18年ごろから、週数回の青年学校が開かれて島に駐屯していた軍医を中心に応急処置の講習を受けていたが、戦局も押し迫った昭和20年1月には、救護隊が編成されて、疎開も金糸されました」―。兵隊とともに切り込みにも参加ながら「六日戦争」を生きのびた大城シゲさん(56)=伊江村字川平=は証言する。

 

 大城さんの記憶によると、女子救護隊はおよそ100人。各中隊、小隊、分隊に2人ずつ配置された。軍の炊事、雑役に当たっていた25歳以上の婦人・婦人協力隊とともに米軍の上陸を迎えた。

 

 大城さんが配置されたのは諸江晴美大尉の指揮する独立速射砲隊の1分隊。3月ごろに配備され伊江島タッチューのふもとにある壕内にたてこもった。救護班とはいいながら、配られたのはヨーチン、ガーゼ、包帯だけで、負傷兵に対する治療にはならない。仕事は砲弾の運搬と、切り込みでキズを負った兵隊を壕内に運び込むことだった―と大城さんは述懐する。

 

 「米軍上陸後、すぐに始まった激しい戦闘の中、歩兵隊に配属された人らの多くは兵隊なみに切り込みの主力となって戦死したが、速射砲隊にいた私たちの仕事は弾運びが主」と話す。人の運の不思議さを思わざるを得ない言葉だった。

 

 上陸3日目、18日になって、大城さんらの隊も初めて学校台地争奪の切り込みを行った。もちろん大城さんもついて行った。やがて、「負傷兵を護送せよ」と命令を受けて壕に帰ったが、大城さんの切り込みはその日の1度きり。21日最後の攻撃の時「生きている者は全員参加」の命令にも外された。ほかに足を負傷し、歩けなくなった福岡県出身の佐藤上等兵と、避難してきていた住民30人ほどが壕にとどまった。

 

 大城さんは言う。「みんな出て行ったきり帰ってこなかった。片足に弾を受けていながらケンケンして出て行った兵隊のことは今でも忘れない」と。

 

 大城さんらと壕内に残った佐藤上等兵は諸江隊長から「最後は自決せよ」と命ぜられ、砲弾を積み上げた箱に陣どっていた。「夜、眠る時、明日の朝にはいないのだから」と言って妹や友人の手を取り合って休んだ大城さんら地元住民だが、佐藤上等兵は「兵隊でない君たちは死ぬ義務はない」と自決せず、おかげで命をながらえた。同上等兵は壕内にいた多くの住民の“恩人”とも思える人だが、「戦後、郷里に復員して、炭坑で亡くなったと聞いている」と寂しそうに話す。また、「あの戦では本当に立派な人が死に過ぎた」とも。

 

 「兵隊はみな優しくてね。若い私たちをよくかわいがってくれました。そんな人たちが負傷してきているのに、傷口にヨーチンを塗るだけなのが心苦しかった」と忌まわしい思い出にふれる大城さん。「早く長い眠りにつきたいよ」と話していた20代半ばの兵隊の言葉は、本当に悲しかった。遺言を残したがっていたようだが、「どうせ、みんあ死ぬ身。聞く耳さえ持たなかった」と振り返る。口数も少なくなった。

 

 伊江村史によると、救護隊に編入された女子青年は160人。そのほとんどが戦死し、生き残ったのは大城さんを含め9人にすぎない。「青春時代は戦争に追われ、何一ついいことはなかった」とつぶやく大城さんに戦中、戦後の苦労がしのばれた。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月24日掲載

 

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