琉球新報『戦禍を掘る』 警防団日誌

 

琉球新報『戦禍を掘る』 警防団日誌

活動状況を克明に ~ 「非常召集、警報手配ヲナス」

 宜野座村松田の島袋満さん(40)=宜野座中学教諭=は、父岩一さんが残した「警防団日誌」を大切に保管している。その日誌には、戦局が沖縄戦に突入する前の警防団一員の活動状況が克明に記されており、それを通して、戦時下の住民の生活を推察することができる。

 

 「父が『書き残しているので持っておけ』と、学生時代に預かったんですが、そんなに価値のあるものではなくガラクタだと思っていたものです。何しろ沖縄戦についての民間側の資料は少ないですからね。この日誌が反戦平和の資料にでもなれば貴重だと思っています」

 

 島袋さんは、父親が住民を戦争から守るため日夜苦労して活動したことを誇りに思っており、残された日誌が平和のための資料になることを願っている。

 

 警防団日誌は幾分破損しているが、文字は現在でもほぼ判読できる。いつごろから書き始めたのかはっきりしないが、昭和18、19年前後の活動がきめ細かく書き込まれている。

 

 島袋さんの父・岩一さんは金武村警防団第2分団の分団長を務めており、その後、警防団を退団して防衛隊に召集されていることから、沖縄戦直前の昭和20年春先での活動も記されているようだ。

 

 日誌はけい紙を使っている。日付があって、その日の活動状況が記入されているが、「警戒警報発令(サイレンを以テ伝達ス)」、「警防団非常召集、警報手配ヲナス」など戦時の生活がありあり。空襲警報が発令された日の日誌には「青年団ノ救援ヲ得、各所各地区ヘ手配出勤、警防団ト一致協力鉄槌ノ防空陣容ヲ期ス」とある。灯火管制も頻繁に行われている。

 

 日誌からすると、警防団の日常活動は住民の防空指導や防空資材の点検にあったようだ。幹部会を開き、防空懇談会を開催すること、防空訓練を毎月1回以上実施することが決められている。

 

 警防団員たちは地元民(古知屋=現在の松田)を総動員して避難訓練を実施する一方で、青年会主催の「健民運動」にも参加し、防空の重要性を訴えている。昭和何年なのか分からないが12月4日(土)の日誌には「一般民ノ心構ヘト防空要員一斉調査点検ノタメ…各戸家庭訪問ヲ施行ス」とあり、「午後七時以後、管制器具使用、一寸ノ明デモ外部ニ洩(も)ラスコト絶対不可」と厳重に注意している。また防火態勢を強化するため(1)井戸をいつでも使用できる状態にしておくこと(2)オケ、バケツの配置(3)ハシゴ、消火用の砂袋、カマス、長棒、ロープなど準備すること―を徹底事項として伝達している。そして日誌の後半のところには次のように警防団の使命を記している。

 

 「時局ノ推移ニ鑑ミ戦局ハ日一刻ト化スル秋、吾等民防空ニ挺(てい)身スル警防団員ノ使命タルヤ重且大デアル」。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月27日掲載

 

貯蓄、稲収穫調査 ~ 正月用豚の配分量細かに

 金武村警防団第2分団の島袋岩一分団長は、昭和20年3月ごろ、防衛隊に召集されて戦闘に参加、首里で米軍の攻撃を受けて戦死した。

 

 警防団日誌に付されている履歴書によると、島袋さんは明治43年生まれ。昭和15年に佐世保の海軍軍属となり、同年12月、中国に渡り、海南海軍建築部本部自動車運転工として入隊。班長を拝命している。昭和16年まで海軍陸戦隊にいることが確認できるから、その後、沖縄に帰り警防団として活動したと思われる。

 

 息子の満さんも「父は現地(海南島)で除隊になり、沖縄に帰ったようですが、30歳を超えて兵隊にはなれない、と警防団に入ったようです」と話す。

 

 直接戦闘には参加しない警防団とはいえ島袋さんは現役を除隊したばかりのぱりぱり。“警防団日誌”には元軍人の誇りや気概がにじみ出ている。

 

 「大東亜戦争ノ意義」や、「三国同盟ノ意義」にも触れており「大東亜戦争ハ東洋ノ諸民族ヲ独立サセ東亜共栄圏確立ヲ目的トシタルモノ、日本ハ東洋各国ノ兄貴トシ率先盟主デアリ、各国ヲ維持扶助ニ依ルモノデアリ是即非武力戦カラ見タ実状デアル」と戦意昂揚講演会の内容が述べられている。

 

 恐らく米軍の沖縄上陸間際のことだろうと思われるが、「宜野座橋取除作業」についても、従事した人夫の数や「取除工賃」が数字まで細かく記述されている。

 

 また、警防団本来の防空活動やそのための住民の指導のほかにもいろんな活動をしていたようで、国民貯蓄の実績調査、水稲のの収穫予定調査、大豆の供出割当調査、軍用藁(わら)乃乾草供出割当調査と各種の調査表もある。

 

 沖縄戦では数多くの住民が犠牲になったが、警防団はそれらの住民を戦争から守るため「いざ戦争という時、犠牲になる可能性のある弱者」の調査も行っていた。日誌には各戸ごとに家族の数が記入され、病人、妊産婦、児童、幼児の数が確認されている。

 

 戦時下の日誌なので記述が軍事色一色におおわれているのは否めないが、行間から、まだ平和な村であることが読みとれる記述もあり。住民たちの生活の様子が伝わってくる。

 

 警戒警報が解除されてホッとした住民が警防団の詰所を訪れたらしく「警防団ノ慰労トシテ豆腐ノ寄贈ガアリ感謝ノ意を表ス」と、寄贈者の氏名が書いてある。「正月用豚共同屠(と)殺」の文字も見え、各家の戸主の氏名の下に配分表がある。戦局がやがてどう転回するか、住民が知るはずはないが、そのころまではみんなに「平和」があり「生活」があり、そして何よりも生きていることができた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月28日掲載

 

ヤリ訓練も実施 ~ 大城源正さん 防衛隊に編入され戦場に

 「そう、この人も沖縄戦で死にました。この人も戦死です。一緒になって懸命に警防団活動をやりました。みんな部落の人たちの命を守るために頑張ったものです」。

 

 宜野座村松田、大城源正さん(76)は当時、金武村警防団第2分団の団員だった。しかし、分団長だった島袋岩一さん(故人)がつけていた「警防団日誌」を見せられると、目で文字を追いながらしばらくは一言も話さなかった。かつての団員たちの名簿を見て、胸に迫るものがあったのだろう。

 

 大城さんの記憶によると、金武村の警防団は伊芸、屋嘉、金武、並里、漢那、惣慶、宜野座、古知屋(現松田)の八つの字に設置されていた。古知屋の警防団は第2分団長の島袋岩一さんを筆頭に15人で組織され、大城さんもその一員であった。警防団は、同じ字に設置された隣保班長、防空群長とも連絡を取り合って活動していた。

 

 例えば、古知屋の警防団は開墾地区、カタバル、前原、兼久、海岸、字内と六つの地区に分けて警戒活動をしていたが、住民の避難訓練などは一緒になって実施している。

 

 「警防団員の年齢はまちまちでしてね。上は50代の人もいたし、下は14、5歳のまだ子供のような団員もいました。私はいつ入団したのか覚えてないんですが、3カ月に1回ぐらいは金武で防空訓練について講習を受けていました。学校の運動場に住民を集めてバケツリレーの消火訓練もやりました。今から考えるとおかしいんですが、竹ヤリ訓練もありました」。

 

 しかし、戦争の実態を知らされていない住民がのんびりと竹ヤリ訓練を実施している間に戦局は刻々と変化し昭和19年の10・10空襲で那覇の街は火の海となった。沖縄全体が緊迫し、正規の軍人ではない警防団員まで防衛隊として戦争に駆り出された。金武町誌には「昭和二十年三月一日、金武村から約三百五十名が防衛隊に召集された」とある。「警防団日誌」には警防団から防衛隊になる人への「表彰状」の草稿があり、次のように記されている。

 

 「右者…金武村警防団員ヲ命ゼラレ警防団トシテ時局ヲ認識シ、勤務ニ勉励…○○月間勤続セルモ昭和十九年十月、防衛隊創立ノタメ退団…其ノ行為最モ顕著ナリ…記念品を贈呈シ…」。

 

 表彰状の贈呈者名簿には大城さんの名前もある。大城さんは防衛隊に召集されてから嘉手納の飛行場設置に参加し、そこが完成したところで首里に向かった。首里では石嶺の飛行場建設作業に従事していたが米軍が沖縄本島に上陸したため途中で中止。石部隊に配属されて南部での戦闘に参加した。

 

 「米軍に追われて喜屋武岬まで行きました。でも、どうせ死ぬなら父や子供の顔を見てから死のうと思いましてね。そこから、宜野座に引き返しました。出発する時は7人でしたが馬天で3人死にまして…。私は中城で捕虜になりハワイに送られました。戦争はきたないものです。テレビで見るのもイヤです」。

 

 ハワイから宜野座に帰った大城さんは戦後、一緒に活動した警防団員たちが戦死した所を捜し出して、遺骨を発掘。弔ってやったという。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年3月29日掲載

 

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