大城幸雄軍医とその家族 ~ 琉球新報「戦禍を掘る ~ 戦死した夫」

 

予備軍医の召集

1944年11月、予備軍医の召集がかかる。

戦争は5ヶ月前に既にサイパン島の守備軍が玉砕し、勢いに乗った米軍は怒濤の如くフィリピンに迫ってルソン島への上陸も日中との予想であり、日本軍の配色は漸く落ちていく西日のように次第に誰の目にもはっきりと写しだされてきていた。そして、昭和19年10月10日、米空軍による大空襲で那覇の街並は文字通り灰燼に帰し、中心部は全て瓦礫の山と化していた。


那覇にいた被災者の医師たちは焼け落ちた病院を後にして身寄りや縁故を頼り国頭や本土に疎開していたが、体力的に準戦力ありと見なされていた比較的若い医師は軍医としての召集を上告されて、県外に脱出するのを固く禁じられて足止めをされていた。そして、この朝、沖縄で初めての予備軍医の教育召集令状を受けて私達は集合場所の高嶺製糖工場前広場を目指して歩いていたのである。11月に入ると夜の明けるのが遅くなってきて、午前7時の集合時間には間に合わない恐れがあり、私は糸満産婦人科病院を開業しておられ、共に召集を受けた古謝将厚先生の御宅に一晩泊まり、早朝一緒に高嶺に向かったのだった。


集合場所の製糖工場は朝の冷たい空気を湛えながら広々と静まり返っていた。その入口では既に5、6名の医師が低い声で話しながら立っている。すると霞の中から威風堂々と馬上に跨った乗馬姿の人影が従卒を引き連れて悠然とやってくる。やおら馬から下りたその巨漢は我々に向かって手を挙げ、やがてにっこりと笑った。玉城村に開業している大城幸雄先生が往診用の馬に乗り、助手を従えての入隊なのだ。「なんだ君か、どこかの部隊長かと思ったよ。驚かすなよ」いつの間に来られたか大宜見朝計先生の持ち前の闊達な大声がして遊んでいた辺りの緊張が破れ一同が笑い出す。

長田紀春「閃光の中で一沖縄陸軍病院の証言―」

1945年4月27日、アブチラガマ・南風原陸軍病院糸数分室の隊長として赴任

美田部隊と海上挺進隊が 4月27日~29日に糸数アブチラガマを出た後、第27防疫給水隊が入ってきた。富里で開業しておられた大城幸雄軍医が隊長として入って居られた。5月になると首里前線から多くの負傷兵が護送され、アブチラガマは沖縄陸軍病院糸数分室となり、大城幸雄見習士官、西平守正軍医中尉もここで、ひめゆり学徒隊と共に働いておられた。

糸満市 「糸数アブチラガマ(糸数壕)」

 

琉球新報「戦禍を掘る ~ 戦死した夫」

思いもよらない疎開 ~ 翼賛会壮年団長務める

 昭和19年7月、鹿児島に向け、疎開船が那覇の港を離れた。本土に身寄りのある者に限られた、いわゆる縁故疎開船だった。狭い空間が板敷きで上下に区切られ、敷きつめるように人が横たわっていた。その中に大城芳子さん(69)=玉城村富里=親子の姿もあった。8カ月の乳児を含め、5人の子の寝顔を見ながら、芳子さんは沖縄に残った夫のこと、これからの事を心配していた。

 

 芳子さんが夫・幸雄さんに疎開の話を告げられたのは、出発のわずか3日前だった。いつだったかは記憶にないが、駐在が家にやって来た日だったという。

 

 幸雄さんは富里で医者をしていたが、一方で翼賛会島尻壮年団長も務め、各部落を回っては「食糧増産」「一億火の玉」を唱えていた。そのため家には翼賛会のメンバーらがよく出入りし、時には軍司令部の“お偉いさん”もやって来た。部屋に張られた世界地図を使い、刻一刻と変わる戦況を説明し合った。

 

 駐在が帰った後、幸雄さんは母を呼び相談、終わると芳子さんを呼んだ。何かある、とは思っていたが、まさか突然疎開せよ、と言われるとは思いもよらなかった。

 

 「今度、就任した牛島中将は玉砕の覚悟だ。沖縄は玉砕すると言っている。いったん、戦争になれば、常識では考えられないことも起きる。日本兵も鬼畜に等しい行動をとることも考えられる」と説き伏すように幸雄さんは語りかけた。芳子さんは首を横に振った。どうせ死ぬなら一緒に死にたいと思ったが、言葉にはならなかった。

 

 幸雄さんはなおも説得し続けた。「島での食糧は軍人にやらねば」「女や子がいたら、邪魔になるだけ」―。それでも芳子さんは納得しなかった。疎開に同意した母からも従うように言われた。

 

 しかし、結局は「子孫を残すため、頼む」と頭を下げた幸雄さんに押し切られた。「あのころは男の意見には絶対服従しなければならず、反対は出来なかったし、頭まで下げられたら、もう、返す言葉もなくて」。意を決めて了解した。

 

 疎開前日の夕方、親類が集まり、夕食をとった。文字通り最後の晩餐(ばんさん)となった。「私はもう決めていたので、食事はとれたのですが」。幸雄さんは目の前に並ぶ料理に手をつけようとはせず、黙り込み、食事を終えた後も、じっと窓の外をながめているだけだった。

 

 その夜、幸雄さんは妻に「女の子1人は残してもいいんじゃないか」と声をかけた。芳子さんが「男も女も変わりありません。子供はみな一緒です。思い切りが悪いですよ」と言い返すと、あきらめたように黙り込んでしまった。「主人が寂しがっているのが、痛いほど感じました。でも、私としては玉砕する島に子供を1人でも置いて行くわけにはいかない。少し言い合いもしましたが、仕方のないことです」

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年7月19日掲載

 

宮崎で夫の戦死知る ~ 収骨できただけでも…

 玉城村にある芳子さんの自宅から奥武島が眼下に望める。手入れされた広い庭先から180度のパノラマが広がっている。庭にフクギがあった。幹の部分が大きくえぐれている。「弾痕」だという。青々と生い茂っているだけに、痛々しい跡だった。

 

 疎開の当日、幸雄さんと芳子さんは水杯を交わした。「今、考えると芝居じみておかしいくらい」と笑う。幸雄さんはこの知念村で兵役検査があった。終わり次第、見送りに行くと約束し、慌ただしいなかで夫婦、親と子は別れた。

 

 芳子さんの不安をよそに、傍らで子供たちは「鹿児島に行ける。船に乗れる」とはしゃいでいた。港は別れを惜しむ人でごった返していた。声をかけ合い、体と行く末を心配し合う夫婦の姿もいたる所で見受けられた。

 

 船が港を離れた。幸雄さんはついに姿を見せなかった。夫がその時、那覇の近くまで来ていたことを、芳子さんは戦後、知った。

 

 船の中は悪臭と暑さと人いきれで充満していた。「蚕小屋のよう」と芳子さんは形容していた。加えて、激しい船酔いに悩まされた。「一部屋は板で上下に区切られ2階づくり、私たちは下に寝たのですが、上から子供のおしっこと思われるものがポタリ。赤ちゃんの泣き声や、時折聞こえる空襲警報、生きた心地はしなかった」

 

 鹿児島に着いた親子は親類の家で一時期世話になったが、居づらくなり、その後、宮崎、大分などを転々と移り住んだ。一方、幸雄さんは12月に召集がかかり、軍医としいて南風原陸軍病院や糸数壕を回っていた。

 

 芳子さんが夫の戦死を知ったのは宮崎だった。幸雄さんの安否を気遣い、疎開の先々で軍の連絡事務所に足を運んでいた。最初、「戦死では」と言われていたのが、回数を重ねる度に「戦死らしい」から「戦死」に変わっていった。

 

 「大城幸雄、四十一歳、昭和二十年六月、戦死」。覚悟していたとはいえ、ショックは大きかった。気丈な母もその知らせに肩を落とした。戦死地は不明だった。「今さら戻っても」と本土に永住を考えていた芳子さんの元に、幸雄さんの遺骨が玉城村の自宅壕に残ったまま、との知らせが入った。

 

 昭和21年12月、芳子さん親子は、焦土と化した故郷に戻り、自分の手で収骨、埋葬した。「収骨できただけでもよかったです。悲しむ時間もなく、その日から5人の子育てに懸命の毎日でした。でも、いざとなれば、女性の方が強いですね。自分を見てても分かります」

 

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 終戦から38年たった昨年8月、摩文仁を訪れた芳子さんは木々の多さに驚いた。白い岩肌だらけだった一面が、生まれ変わったように緑で覆われていた。うっそうと茂るガジュマルの木を見て

 「ガジュマルの 気根はびこり 敗戦日」

 と詠んだ。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年7月20日掲載

 

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