沖縄軽便鉄道弾薬爆発事故 ~ 琉球新報「戦禍を掘る・戦場の火」

 

1944年12月11日 - 沖縄軽便鉄道弾薬爆発事故

沖縄軽便鉄道弾薬爆発事故とは

米軍の1944年11月17日、大本営は虎の子の第9師団を台湾への転出を命令し、その後の沖縄への補充もしなかったため、沖縄守備隊第32軍は米軍上陸を前に戦略変更を余儀なくされる。

沖縄軽便鉄道の爆発事故は、この第9師団の穴を埋めるため、中部に配備されていた第24師団が沖縄南部への移動を進めていたさなかにおきる。事故後の緘口令により正確な犠牲者数は不明であるが、弾薬の上に第24師団の200名以上の兵士と十人ほどの女学生を含む民間人をのせたまま、軽便は大爆発した。

 

・軍人の死者   …… 210名前後
・女学生の死者  …… 8名
・鉄道職員の死者 …… 3名
・生存者     …… 3名

 

ケービン鉄道とは

軍が隠蔽した爆発事故の場所は矢印の部分。

沖縄での軽便鉄道の歴史は、1914(大正3)年、商業中心地にあった那覇駅と東海岸の港町であった与那原駅を結ぶ与那原線(約9.4km)の開通が始まりでした。1922(大正11)年に那覇から北上する嘉手納線(約23.6km)が、1923(大正12)年に那覇から南下する糸満線(約18.3km)が開通すると、軽便鉄道沖縄本島広域の要所を結ぶ産業振興の要となりました。

鉄軌道が敷かれたことで、当時の基幹作物であったサトウキビの運搬や、沖縄本島北部から切り出され、船で与那原港に運ばれた木材の陸上輸送が容易になっただけでなく、大量の旅客を乗せることも可能に。沿線の多くの学生や商人もこの鉄道を利用したといいます。

… その後、1941年に太平洋戦争が勃発。沖縄にも不穏な空気が漂い始めた1944年ごろ、日本本土の部隊が那覇に上陸し、軽便鉄道は県民の足から軍用鉄道へとその役割を変えていきました。そして、沖縄戦によって壊滅的な被害を受けた1945年、軽便鉄道沖縄県営鉄道」はついにその姿を消すことになったのです。

軽便鉄道「浦添」ものがたり~かつて沖縄に走っていた「沖縄県営鉄道」の痕跡をたどる旅~ | うらそえナビ

 

爆発の原因は、石炭を燃やして走る軽便の火花がガソリンに引火し爆発、また道路わきに積みあげてあった弾薬に引火したと考えられている。

 

長参謀長は激怒したと伝えられている。

山兵団は神里付近に於て列車輸送中兵器弾薬を爆発せしめ莫大なる損耗を来せり一〇・一〇空襲に依り受けたる被害に比較にならざる厖大なる被害にして国軍創設以来初めての不祥事件なり、此れに依り当軍の戦力が半減せりと言ふも過言ならず、此れ一二兵団の軍紀弛緩の証左にして上司の注意及規定を無視したる為惹起せるものなり、無蓋車に爆弾ガソリン等を積載すべからざることは規定に明確にてされあるところにして常識を以て判断するも明らかなり、輸送せる兵団は言ふに及ばず此れが援助を為せる兵器兵姑地区隊も不可にして夫々責任者は厳罰に処せらるべし、該事件の如きは署亜罰のみにて終るべき性質のものに非ず、戦争に勝たんが為、第一線にて不自由なからしめんが為銃後国民が爪に火を燈すが如く総てを犠牲にして日夜奮闘して生産せるものにして銃後国民の赤誠によるものなり、作戦上の必要による消耗は止むを得ざるも敵一兵をも殺傷することなく莫大なる消耗を来せるは面目なき次第なり、兵器弾薬燃料の分散格納不十分なりし為かかる莫大なる損耗を来せり各兵団の兵器、弾薬の他の軍需品の分散格納も極めて不十分にして普天間、宜野湾付近の道路の両側に多量を集積してありたるも艦砲射撃を愛くれば必ず爆発燃焼するは明瞭なり、各部隊、兵器弾薬は速かに掩蔽部に格納すべし人員の掩蔽壕は遅るるも兵器弾薬速かに掩蔽部に格納するを要す。戦は大和魂のみにて勝ち得るものに非ず兵器弾薬は戦勝上欠くべからざるものなるは言を俟ず、軍は該被害により戦かの半数以上を減じ如何にして之が前後策を講ずるかに腐心しありて軍の戦闘方針を一変せざるべからざる状況に立到れり、今敵上陸するとせば吾れは敵に対応すべき弾薬なく玉砕するの外なき現状にして今後弾薬等の補給は至難事ならん、将来兵団に交付しある兵器弾薬、其の他の軍需品を焼失爆発等せしめたる際は軍に於て補給せず、其の余力なし兵器、弾薬等国情より見るも豊富ならず各隊は極力兵器の愛護、弾薬の節用に勉め仮初にも過失により戦力を失せざる如く注意せられ度、軍司令官の心痛を見るに忍びず其の意図を体し各部隊に一言注意す」
昭和19年12月14日付、石兵団会報94号より)

 

 


戦禍を掘る「戦場の火」

弾薬と人間を列車 ~ 引火、爆発、友2人失う

 首里の丘が赤々と燃えていた。昭和20年の5月も終わろうというころ、夜空をこがすその火を、阿波根玲子さん(56)=那覇市松山=は、豊見城村嘉数から眺めていた。「大きな建物が燃えていた。たぶん首里城だったんでしょう。壁をはうように一辺から一辺、そして上へゆっくり燃えていった」。その日は阿波根さんらに島尻避難を促すようだった。

 

 戦局が悪くなっているのは明らかだった。当時一高女2年の阿波根さんは、ある教師の話した言葉が記憶に残っている。「米軍が攻めるんだったら台湾より沖縄の方がはるかにいい。台湾は物資が豊富で長期戦。その点、沖縄は島が小さく物資もない。早めに決着がつく」と生徒を前に話した。

 

 講堂に集められての訓話で、サイパンの玉砕の話とか、捕虜となることの恥、自決についての心構えばかり聞かされていたから、その教師の話したことには驚きだった。実際、目の前で米軍の進撃が迫っていた。

 

 阿波根さんの戦争の思い出には火がつきまとっている。南部を逃げまどいながら見た火炎放射器も印象で残っている。「火が筋を引いて伸びていく。そしてまた吸い取られるようにして消えていく。きれいだった」―だが、その火で焼かれた者の死体はあまりにも醜かった。

 

 なぜかカバン1個だけを持って飛び出した10・10空襲の時も那覇の街が燃えていた。母方の祖母と2人、那覇市下泉の家を焼け出され、嘉数で借家住まいしなければならなくなったが、火はじっくりと街をなめつくしていた。その日の夕日は一層赤くなって、半年もたたないうちに米軍の艦船で埋め尽くされた海に落ちていった。

 

 今、その海に落ちていくのは若い命の乗った特攻機だ。初めのころは不利な戦況を覆す“神風”として期待した特攻機だったが、圧倒的な米軍の火器の前に木の葉のように散っていく姿が悲しくなってきた。特攻機もまた夜の空に赤い火を残して散っていった。

 

   ◇   ◇

 10・10空襲後は通学と勤労奉仕が一日ごしにやって来た。19年12月11日も豊見城村長堂で壕掘り作業だった。師走にしては寒くもないいい天気だったその日、あんな大惨事が起こるとは思えなかった。

 

 阿波根さんは当時、嘉数で祖母と住んでいたが、食糧事情もあって時折、糸満に住むおじの家にも泊まっていた。勤労作業の学生たちで遠くに住む者は列車に乗ることが許されていた。

 

 汽車の都合で同期生の与儀ツル子さんと金城定子さんが早めに作業を終え、阿波根さんの方に近づいて来た。「私はきょう糸満に帰らないから―」の阿波根さんの言葉に2人は津嘉山駅に向かって急いで歩いていった。

 

 「2、30分たってでしょうか大音響がとどろいた。音の方向を見ると黒煙がもうもうと上がっている。何か大きな事故があったとは分かったが…」と阿波根さん。やがて爆発の衝撃で切り離され、火だるまになった列車1両が、ものすごい勢いで津嘉山駅に突っ込んで来るのを阿波根さんは目撃した。

 

 同期生の2人がその事故で亡くなったことを聞いたのは2日ほど後、おじの家に行った時だ。

 

 関係者によると、那覇はじめ島尻全域に、その音響が響きわたったというこの事故は、あまり知られてない。軍の手によって秘密裏に処理されたから住民に広く知れわたることはなかった。

 

 事故は喜屋武駅を過ぎ、稲嶺駅に向かう途中で起こっている。貨車6両分の武器弾薬、貨車各1両分のガソリン、医薬品を失い、そして近くの畑に積まれていた数百トンの弾薬にも飛び火、爆発したという。事故は民間人数人を含む二百数十人の生命をも奪った。

 

 事故は1両目のガソリンが発火、後方の弾薬に火が移って爆発したものだった。無蓋(がい)車に弾薬、ガソリンを積む非常識。「いくら戦時下でも弾薬と人間を一緒に乗せて―。ゾッとする」―阿波根さんは、その事故で近くのサトウキビに、肉片がいくつもくっついていたという話を聞かされた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年8月2日掲載

 

高嶺製糖工場跡

 

糸満市の与座地区の高嶺製糖工場跡、戦前、工場周辺は、サトウキビから砂糖を生産する大規模な施設として栄えました。大正5年に建設されたこの工場には、本島南部一帯のサトウキビが集められました。敷地には社宅が建ち並び、多いときにはおよそ200人が暮らし、工場で働いていました。戦争がはじまると、社宅に住んでいた多くの人が疎開し、昭和20年、それでも工場に残った人は、のなかで、攻撃に耐えました。
軍は、ほとんど操業停止に陥った工場に、砂糖の替わりに酒を造れという命令を下しました。斬り込み隊の日本兵に提供されたともいわれています。また、敵の「標的」にえよるという理由でシンボルだった煙突を破壊させられました。
アメリカ軍の攻撃により、工場も社宅も壊滅的な被害を受けました。戦後、工場が操業を再開することはありませんでした。

糸満市 高嶺製糖工場跡【戦跡を歩く】|戦争|NHKアーカイブス

 

母求める乳児に後ろ髪 ~ 生き延びても“傷跡”いえず 

 おじの勤める高嶺の製糖工場を目指して、阿波根玲子さんは祖母とともに豊見城嘉数を後にした。梅雨のさ中のぬかるみの道を、年寄りと2人で行くのは楽ではない。「ほとんど食糧しか持たなかったが、きつくて豚油などは『後で取りに来るサー』と捨てた。祖母は『役ン立タン(役立たず)』と怒ったが仕方がなかった」。昼は動けなかったから2晩かかったが、道は避難民があふれていた。

 

 高嶺の製糖工場の前方の丘にヨの字型に掘られた壕があった。「そこは製糖工場社員の家族200人ぐらいが入っていた。そこには、おじ夫婦、いとこ夫婦とその息子、娘が入っていた」。壕に入って間もなく不幸が襲ってきた。

 

 壕の前を小川が流れていたが、そこは輜重(しちょう)兵が馬を浴びせる場所でもあった。その日、馬を浴びせていた兵隊が阿波根さんらの入っている壕に駆け込んで来る。米軍機に発見されたのだ。間もなく入り口に黄りん弾が落とされ、奥の方へと燃え広がって来る。

 

 「私は無我夢中で他の入り口へと逃げた。中にいると焼け死ぬと思ったから外に飛び出そうとしたが、そこに立っている人が『敵機に見つかる』と出してくれない。そのまま気絶した」と阿波根さん。

 

 気がついた時には民家に運ばれていた。「同じ家にいる戦車隊の人が『こいつ生きている』と話していたのはおぼえている」。2日たったことは分かったが、どうして運ばれて来たのかも分からない。他の人たちがどうなったかも知らない。いとこ嫁と娘を残して亡くなったのを知らされたのは戦後のことだ。

 

 「あの時は自分を置いて祖母もおじもみんな逃げていったと思い情けなくなってきた。食糧もないし頼れる人もいない。死んだ方がいいと思いながら、あてもなくさまよった」

 

 どこへ行けば安全なのか分からない。人の流れは南へ向かって行く。だが、南から北を目指す人もいた。分からないまま南へ進んだ。

 

 糸満の真栄里あたりだったろうか。暗い夜道を時おり照明弾が、多くの死体をくっきりと浮かび上がらせた。その中に白く浮き彫りにされたものがあった。「よく見ると女性の真っ裸の死体。道の真ん中でなぜか衣服をまとってなかった。爆風で飛ばされたのか、白い裸体だけが印象的だった」

 

 名城にさしかかった時、クバ笠をかぶった男がテンビン棒をかつぎ座ったままで死んでいるのを見た。その隣には男の妻が倒れている。長い髪を後ろにたばね、短めのスソの着物姿だったから近くの農家の夫婦だったかもしれない。血を流さないまま死んでいた。

 

 阿波根さんがその夫婦に気づいたのは赤ん坊の泣き声がしたからだ。砲弾の音にかき消されながらも精いっぱいの声をはり上げている。倒れている女の乳房をまさぐり続け、また声を大きく泣いた。幼い唇が母親の胸に触れることはなかった。胸がしめつけられる思いだったが阿波根さんにはどうすることもなかった。「この子も親のあとを追うのだろうか」と思うと戦争への怒りがこみ上げてきた。

 

 阿波根さんが負傷したのは摩文仁の海岸近くの岩陰でだ。球部隊本部にいたおばと会うことができ、そのまま合流したのだが、壕の中でじっとしている毎日だった。

 

 そこへ突然、機銃掃射の銃弾。左耳の後ろに一つは入り、左肩から手にかけて真っ赤に染まった。もう一つは片ヒザを立てて座っていた阿波根さんの左の足を突き抜き、隣に座っていた識名という女性のヒザに入った。ヒザの負傷に気づいたのは足がはれてモンペがきつくなってからだ。「私は貫通したが隣の人はモウカン(盲貫銃創)で助からなかった」と阿波根さんは言う。

 

 だが、左耳の後ろに入った弾は取り除かねばならない。現在の健児之塔裏の壕に運ばれ手術を受けた。「ろうそくの火の下で麻酔もないままの手術。10人ぐらいの人に押さえつけられてやったが、痛さにたまらず大声をはり上げた。と殺される豚の声より大きかったのではないか」と言う。

 

 「部隊解散後は岩の間に隠れて暮らした。米軍に収容されたのは7月10日ごろ。銃弾の貫通した足は今でも不自由だ。女だからひざまずくことができないのがつらい。琴も習いたいし三味線も習いたいが…」―傷跡は今でも消えることはない。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年8月3日掲載

 

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