粟国村『粟国村史』 (1984年) ~ アメリカ軍の粟国上陸と終戦処理

 

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USMC Monograph--OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC

 

 

粟国村史』 (粟国村村史編纂委員/粟国村)

アメリカ軍の粟国上陸と終戦処理

沖縄本島主陣地の崩壊に鑑み予備隊を補強する必要なきを認め、久米島や粟国の周辺離島に目を向け上陸を試みた。機動部隊の艦艇は島を包囲し、正規の戦闘体制で先ず艦砲射撃を行い、艦載機で警戒掃射し、東海岸から戦車で歩兵地上部隊と共に上陸を六月九日午前五時決行した。島に抵抗の部隊が皆無であることを知り、全機動部隊約四万人が上陸して来たのである。不意を打たれた村民は生か死かの混乱状態に陥った。食料も蘇鉄より外なく飢餓寸前のこともあった。米軍は上陸するや要所要所に防御陣地を構築し、住民に安堵の念を与え軍兵占部から軍食糧の米や缶詰を配給する等喧撫工作に主力を注いだ。米軍約六ヶ月駐屯して引揚げた。

 

戦争当時の行政概況と村民の生活

昭和十八年からは、戦時体制が強化され村民の生活は苦しかったので、食糧の確保には苦労した。


昭和十九年十月十日那覇市の空襲以後は、島に帰る人が増えて、昭和十九年の人口が二八〇三人だったのが、終戦後の昭和二十二年の調査では四八四五人に増加していた。
粟国村は昔から米は那覇から移入しているので、非常米として余分に蓄えて置く必要から、那覇市の空襲後は毎月輸送隊の船で配給米を運んで貰ったので、村は助かった。それは何時交通遮断されても困らないようにと配慮したからである。昭和二〇年三月二十三日午前七時突然米軍は粟国村を空襲、村民は無我夢中に家を飛び出し、自然洞窟や墓に避難生活を余儀なくさせられ行政は中断された。

 

空襲中に於ける村の被害状況

三月二十三日死者、浜九名、東三名、西一名。三月二十八日、農協全焼。四月一日、学校全焼。四月二日、陽久丸全焼、家被害なし。
食糧は多量に保管していたので、三月二十四日保管米全部を役場職員、三区長総動員で東部藩の北端にある屋号イジャニシ大屋安里豊造氏宅に移動保管して置いて、毎月配給日と配給場所を決めて、各字区長立会いの上役場職員と農協職員が配給して、食糧には余り不自由はさせなかった。


一番行政上心配したのは、昭和十九年二月最後に微庸人を陽久丸で那覇市に送りだしたが、この徴庸は海軍の山根部隊に配属され飛行場整備に当たった。又先に伊江島に微庸された者と合計すると二百数十名でした。彼等は皆、沖縄戦に巻き込まれ、戦死者七十七名の犠牲者を出したのは、実に国のためとはいえ遺族に対し申し訳ないと思っている。

 


空襲は四月中旬頃からは穏やかになったので、村民は安心して各家庭に帰って生活していた。ところが、六月九日未明突然米軍海兵隊は十数隻の軍艦で島を包囲し、艦砲射撃の掩護下で上空では偵察機で機銃掃射をさして戦車は戦車砲を発射しなが上陸を敢行したのである。

 

当時島では在郷軍人、国防婦人、警防団が駐在巡査を先頭に竹槍訓練をしていたが敵が急に上陸したので不意を打たれ、武器なき住民は抵抗不可能を知り避難壕で状況の推移を見守っていた。

 

当日上陸作戦で艦砲や戦車砲で飛行機による機銃掃射で死傷したのは、浜部落で五十六人、東西部落はいなかった。家屋については三部藩共に家屋の損失はなかったのである。

 

米軍が上陸してから、郵便局長屋宜宗保氏と教員をしていた長女ヨシ子さんも西部落で銃殺され、又東部落では水産学校生小嶺安道君と奥那嶺俊彦君が学生服を着けているのを日本軍と見違えられて銃殺、又吉繁幸氏も防団服を着けていたので軍協力者と見破られ共に銃殺されたのである。何故、無抵抗の良民まで銃殺するかと憤慨もしたが、ただ戦争の悲を感じ残念でした。

 

米軍は上陸すると村民を捕虜し、全部学校裏の東伊久保原に集容され集団生活をさせられていたが、さらに六月十二日には全員浜部落に移動させられた。その理由は羽地村の捕虜収容所に移動の予定であったらしい。携帯品は衣類と味噌だけその他は一切持つ事は出来ないと注意され、村民は移動準備をして待機していたが、七月一日羽地への移動中止という命令が来たとの事で、村民は全員字西・東部落に移動させられた。食糧も不足してきたので各自も家畜を屠殺したり、又軍命により家畜を殺して村民に配給したりしたので村の家畜は全滅状態となった。屠殺された家畜は次の通りである。

豚二〇三頭山羊二四七二匹、牛一二七頭、馬一一四頭。

 

もっとも困った事は、上陸後の米軍は民家の茅葺に放火したり、瓦葺の家屋の柱、床、壁板等を薪に使用するため破壊した。そのために全壊した家三十九戸、半壊家屋二〇二戸。全焼家屋、西三戸、東三戸浜三十三戸でした。

 

四、米軍上陸後の各部隊駐屯状況

米軍駐屯軍本部は粟国村役場隊長ペーイン少佐

部隊名 場所

戦車隊 照喜名原一帯

野砲隊 長作原一帯

陸軍  前原一带

無戦隊 番屋原一帯

軍病院 白洲原一帯

民病院 西部落与那嶺盛雄宅周辺

飛行場 イホーラ原、スカイ原、土倉原、イチュキナ原一帯

コースカー部隊 (施設隊)

食料品置場 ンナグシ原

食料品置き場 南馬場久保一帯

上陸数日後、隊長ペーイン少佐は村長末吉達幸氏と対面して次のように伝達す。

  • 一、伊平屋に上陸したら粟国島には日本兵が四〇〇人駐屯していると聞いたので四万人上陸させた。
  • 二、伊平屋で粟国島の村長名、青年学校の教官名国防婦人会長名警防団長名総べて調査してきた。
  • 三、今後絶えず連絡するから村長の住所を一定すること。
  • 四、行政区を三〇班に区分し班長三〇名、巡査三〇名採用して行政、治安に当たらしめるよう命令。

 

村長末吉氏は早速班を編成し班長三〇名、巡査三〇名を採用して村行政、治安事務に従事させた。

数日後、村長末吉氏は日本兵捜査のため軟禁状態におかれて居た。本部勤務の大尉と村長末吉氏との一門一答が次の通り行なわれた。


マハナでの第一回目尋問

大尉 君は村長としては歳が若過ぎるが日本軍との関係、又は日本政府との関係はないか。
村長 日本軍とも政府とも関係はない。
大尉 君は日本人でないか。又君の妻は日本人ではないか。
村長 私も妻も日本人ではない。二人ともこの島で生まれ、この島で育った者です。
大尉 この島に日本軍は何名いたか。
村長 日本軍は一人もいない。
大尉 君は特殊の任務を持ってはないか。
村長 持ってない。

 

軍本部での第二回目の尋問

大尉 この島に日本軍はいないと言ったが、四〇代前後の男は皆断髪している。又足は巻キハンしている。特に男の子供等は軍服姿をして居る、子供時代から軍事思想を普及させているのか。
足に巻キハンをしているのは、野良仕事に邪魔にならず仕事がやりやすいからだ。子供達の軍装姿の洋服は、那覇の古着商人から一括購入すると、古着の中に混入してくるのでこれを適当に配給しているので別に意味はない。

 

浜部落観音前での第三回目の尋問

大尉 君は日本兵はいないと言ったが証拠品がある。
村長 証拠品とは押入れの中にある銃剣の事ではないか。その銃剣は錆ている。鮪ている銃剣で戦争が出来るはずはない。と云うと、大尉は早足で車から銃剣を取出してきて、村長末吉の前に銃剣を突き出した。
村長 これは日本兵の死体が漂流してきた時に死体は埋めて、銃剣は取って役場の押入れに置いてあったものだと興奮していう。

 

以上、尋問が終わっても村長末吉は、興奮したまま大尉と向かい合って立っていると、最後には大尉もやっと納得し、疑いもようやく晴れた様子でした。その後は、仲良く仕事も相談し合うようになり、事務も遂行する事ができた。

 

事実は航空兵が二人いた。彼等は米軍上陸一週間前に、本部村沖の米艦艇を撃破の目的で沖縄にきたが、機械故障との事で島の北海岸に不時着し救助されて彼等は西部落の宮里和明氏宅に匿い、食糧は西部落民からを供出させて世話していた。しかし、米軍上陸後浜部落への村民移動の際、村民と混えて歩行させたが「色が白い、村民とは違う」と見破られ捕慮にされ、校庭南側の畑に金網で囲いされていたが、その後飛行機で本島に連れだされたとの事である。

 

その翌日、小林という朝鮮人の二世に呼びだされ、ベーイン隊長の前に連れられて行ったら、隊長は苦笑して「もう事は総べて解決した」というだけでした。私は何知らぬ顔をして黙っていたら、隊長は雑談して私を帰しその後は、軍関係は総べて終了した事になった。


私等は八月十五日の終戦は知らなかった。昭和二十一年十月二十三日米軍本部から食糧調査のため、マゥエン中尉と通訳の東條二世(東京の人)が来島した時、マエン中尉が日本は敗けたよと話していたが、私等は信じられない、まさかと思っていた。中尉はガリ版刷りの日本新聞を持ってきて、村長この字が読めますかと見せた。それは、終戦の模様を書いた記事でした。記事の中に日本天皇が云々の記事を書いてある処を指して、君はこの字を知っているか、自分(中尉)は読めるよと自慢していう。中尉は東京に七年間いたとの事で、日本語も充分話せる中尉でした。

 

食糧調査に対し村の要望は、食糧事情については、現在農耕は充分できず食糧は配給米では不足して居たので生活は苦しい。是非増配して貰うよう訴え、尚、元日本兵に徴用に行った者が未だ数名残っているから、早急に帰してもらうよう要望したら、中尉は喜んで引受け、翌月二月分から米は増配され、村民の生活も以前より楽になった。

 

二月十五日コースカー部隊は道具引揚げのため来島したので、この機会を利用して兵舎のコンセット建物トタン葺を学校々舎に払い下げて貰うよう交渉したら、軍も喜んで払い下げてくれた。村民は総動員で運搬して、仮校舎を建て生徒を喜ばしたのである。二月二十一日、日本軍徴用関係者二二四名帰ったが、全員の帰島はできず未だ未帰島者もいたので、幸いに三月十六日石川駐屯軍本部から再び食糧調査のため、アーレン中尉と通訳の金城二世(沖縄の人)来島。食糧調査の結果、食糧事情は未だ悪いので増配は確約するから「公務に働く班長や巡査は現在給料はないので配給物資から少し特配して与えて、生活に支障をきたさないよう働かしなさい」と指示して三月十七日帰隊されたが、配給米は口約通り実施された。十月二十三日浜部落民は、各自の家庭に帰されやっと元通り一家族円満な楽しい生活が出来る状態になったのである。十一月五日、米兵本部も他の部隊と共に引き揚げ、翌年三月十五日にはコースカー部隊(施設部隊)も最後に引き揚げた。島はこれで本当に元の静かな村の姿に戻って村民も喜んだ。

 

昭和二十一年四月一日、軍政府任命により再び村長に末吉達幸氏が就任し行政事務を復活せしめ、七月一日には村政委員十二名選出し委員組織により村予算も決して村政も運営するようになった。

 

昭和二十三年(一九四八年)二月、地方自治法が施行され二月一日村長選挙、二月八日村会議員が選挙され、戦前同様元の行政状態が整ったのである。

 

戦争中に於ける戦死者、陸軍一二三人、海軍二十五人、軍属徴用含む七十七人。

 

 

 

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