沖縄県立第三中学校・三中通信隊暗号班 ~ 「重傷者、学生は残れ」敵前に置きざりにされた宇土部隊の学徒たち

 

県立第三中学校 (三中)

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給食室、柔道の稽古、陣地構築の作業...写真に写る戦前の三中生徒たち 学校生活や風景鮮明に - 琉球新報デジタル

 

沖縄県名護市にあった名門県立第三中学校、通称「三中」。その歴史は現在の沖縄県立名護高等学校に受け継がれている。

 

沖縄戦当時、日本軍が校舎を軍事施設として接収したが、米軍もまた接収するとすぐに第87野戦病院として利用した。

 

三中の生徒が学徒兵として召集され戦線に送られていたので、米軍は三中を日本の士官学校とでも思ったのだろうか、写真のキャプションには、三中が日本の士官学校と書かれており、なんとも笑えない悲しい話になっている。

 

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Entrance to the 87th Field Hospital,  most of which is established in a former Japanese Military School.

第87野戦病院玄関。これらの建物のほとんどは日本の士官学校であった。(1945年7月3日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 ※ 米軍が「沖縄県立第三中学校」を「以前の日本軍の学校」と記している点に注意。米軍は三中の学徒が兵士となっていたことを知っていたので、三中を軍事学校と認識したのだろうか。

 

その学び舎に通った学徒たちは日本軍によって戦場へと駆りだされていた。

 

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沖縄県立第三中学校の学徒で「三中通信隊」に分けられたのは下級生の3年生。有線班(15人)、無線班(17人)、暗号班(15人)。

 

旧制中学三年生といえば今の中学三年生と同じ14歳だ。新基地建設が強行されている辺野古でカヌーで抵抗し続ける芥川賞作家目取真俊さんの父親も三中から真部山に動員された。

 

私の父が三中生として真部山に動員されたのは14歳の時だ。学徒隊といい護郷隊といい、14、5歳の少年たちを戦闘に参加させる時点で、すでに日本軍は軍隊の態をなしていないのだ。にもかかわらず、敗北が必至の戦場に少年たちを送り込み、いたずらに死なせ、戦後に及ぶ苦労を負わせたのだ。

6・23沖縄戦慰霊の日/北部の戦場 - 海鳴りの島から

 

以下は琉球新報1984沖縄戦争証言の復刻版。部隊が学徒を敵前に置き去りにしたり、学徒に切り込みをさせたり、負傷兵を置き去りにしながら移動していく様子が語られている。

 

 

沖縄戦から30年後に記録された生々しい証言、ご覧ください。

 

琉球新報『戦禍を掘る』学徒動員・三中通信隊暗号班

 

当初は優越感も、訓練とは名ばかりの壕掘り

 昭和20年1月、3学期が始まるとともに、三中でも他校同様に通信隊が編成された。全員3年生。有線班(15人)、無線班(17人)、暗号班(15人)の編成は、配属将校によって決められ、講堂や武道場に泊まり込み、厳しい訓練が始まった。

 

 暗号班は病気の2人を除き、実際に編成されたのは13人だ。宮崎県で教師をしていたという徳丸春雄中尉の下、長友上等兵が主に指導、後藤1等兵が助手として暗号班の訓練に当たった。

 

 「徳丸中尉はいつも鼻をピーピー鳴らし体の弱そうな人。長友上等兵はムッツリしていて、間違うと『こんなことで弾の下をくぐれると思うか』とよく怒鳴られた。後藤1等兵は、これでよく兵隊が務まるものだと感心するほどのん気な人、学生とも友達のように付き合っていた」と国吉真昭さん(56)=那覇市三原=は言う。

 

 国吉さんは「通信隊入りは特に抵抗なかった。みんな士官学校予科練など軍人志望だったから当然のように受け止めた」と言う。一度、下士官に付き添われて全員で映画を見に行ったことがあったが、隊伍(ご)を組んで名護の街を行進した時、「町の人が尊敬のまなざしで眺めているようで誇らしくもあった」。

 

 暗号班の訓練は、独特の数字の書き方から始まり暗号解読の方法まで厳しかった。しかし、ほかの通信班に対し、一種の優越感もあった。ほかは数字だけしか知らなかったが、暗号班だけは内容を知ることができたからだ。

 

 「それだけに秘密保持については口やかましく言われた。部外との接触は禁止され、米軍の恐ろしさもたたき込まれた。捕虜になった場合、耳をもがれて生きたまま皮をはぐと教えられ恐ろしくなった」と前田泰弘さん(56)=那覇市識名、識名(旧姓大山)盛敏さん(56)=那覇市三原=は振り返る。

 

 1月下旬、三中の武道場での訓練は、八重岳の谷間にあった宇土部隊本部に移された。だが、訓練とは名ばかりで暗号業務に携わることはほとんどなく、兵舎建築のための材木運びや壕掘りが主な任務だった。

 

 壕掘りはつらかった。2人が午前5時から掘り始め朝食後は全員が駆り出されて夜の10時ごろまで続いた。伊豆味の製材所からの材木運びや、あるいは壕の坑木の伐採や運搬などもやらされた。

 

 山中は寒い。軍から支給された毛布2枚に、個人用の1枚を重ねても、なお寒かった。昼の重労働に加え、そまつな食事は食べ盛りの少年たちをまいらせた。「飯ごうのふたに入るほどしかなかった。3年分の食糧は確保していると聞いていたが、貧弱だった」(識名さん)。

 

 前田さんは「下士官当番が楽しみだった」と言う。床の敷き方で口うるさいのには閉口したが、何よりも下士官の残飯が食べられることがうれしかった。また、半ドンだった日曜日には、山中の酒保に行ける楽しみもあった。帰るころには日が暮れるほどの距離だったが、カルピスや汁粉の味につられて欠かすことはできなかった。

 

 重労働と空腹はあったが深い木々の中の生活は、まだ戦場とは程遠かった。3月10日の陸軍記念日には師範学校の東風平恵位教授が来隊、缶詰箱の上に乗り、自ら作曲して初披露の「球7071部隊の歌」を指揮していた。2週間後に沖縄戦が始まることなど予想もつかなかった。ましてや6人の学友を失うことなど…。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月20日掲載

    

秘密厳守で会話禁止 陸軍2等兵を命じられる

 みんなが重労働と空腹を相手に闘っているころ、国吉真昭さんは、ほとんど本部の暗号室に詰めていた。「坑木を運んだ記憶もなくひもじい思いをした記憶もない。夜食の大きなおにぎりがおいしかったことなどがあるだけ」。しかし、将校たちが詰める本部詰めは緊張の毎日だった。おまけに「秘密厳守」だったから他の生徒と業務についての会話も禁じられていた。

 

 「宇土支隊長とすれ違う時、直立不動で敬礼をしたが、『ヤァッ』と威風堂々と答えていた。相撲取りみたいにでっぷり太っていて、本部内では軍服姿を見ることが少なかった。いつも半裸かラフな格好。だが、よく女性が部屋に出入りしているとの話も聞き、軟弱な人間だなとも思った」

 

 通信は数字を配列していった。数種類の乱数表があったが、最初に「どの乱数表の何ページの何行目、何番目から入れとの指示があった」。それに基づいて文章に換えていく。32軍本部とは4桁(けた)、多野岳や恩納岳とは3桁の数字を使用して結んだ。「暗号にも軍暗号、部隊暗号、情報暗号と3種類あって、解読する時にわくわくしたのが情報暗号。戦果報告に使用していたから―」。

 

 3月23日、沖縄戦が始まった。北部も激しい空襲だ。国吉さんは木に登って空を見た。うっそうとした木の間からカーチス1機だけしか見えなかった。「25日ごろには訓練を終え、家に帰れることになっていた。これでもう帰れなくなったと思った」

 

 2、3日後、徳丸春雄中尉は全員を家に帰した。部隊編入のため親の承諾書が必要になったからだ。半強制的な命令だった。

 

   ◇   ◇

 ほとんどが3月末ごろまでに戻って来たが、識名盛敏さんは自宅が勝連にあったため遅れた。4月2日ごろ、部隊に着いた。夜間、歩しょう線があるのを知らず歩いていたら暗闇から「山」「山」との声。

 

 とっさに「川」と答えたが、目の前にいきなり銃剣が突きつけられて来た。合言葉は「山」に「山」。兵隊は不審な顔で尋問し、「なぜ遅くなったか」と問い詰めた。

 

 やっとの思いで事情を説明、通り抜けたが、しばらく行くと、馬に乗った将校が兵隊1人を引き連れて目の前に現れた。また同じような質問だ。訓練の責任者だった長友上等兵の名前を出してやっと「通れ!」と言われた。その人が第2歩兵隊第2大隊長佐藤富雄少佐であることは、襟の階級章で分かった。

 

   ◇   ◇

 全員が宿舎の前に整列する中、徳丸中尉はやや力を込めた口調で全員に告げた。「お前らに陸軍2等兵を命じる」。軍服や軍靴、袴下(こした)、ゲートルなどが支給された。だが、帽子だけは三中の制帽から3本の線をはずしただけだ。三中の制服も彼らの1期先輩からカーキー色に変わっており、制帽といっても戦闘帽になっていた。

 

 沖縄戦が始まってから壕掘りなどの重労働がなくなり、半日交代の暗号室勤務になった。時折2時間の歩しょう任務もあったが、通信の解読と各無線隊との使い走り。「沖縄本島にくまなく日本軍が埋まっているという話を信じきっていた」(前田泰弘さん)という少年たちは、間もなく米軍上陸の報に驚かされる。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月21日掲載

 

米軍が妨害電波「総攻撃」の電文解読できず

 物静かな山中にいて夜間、上空を飛ぶ特攻機の音はさびしく響いてきた。「ブルン、ブルンと悲しそうな音で昼間聞いた米軍機の音とは違った」(前田泰弘さん)。残波岬の南の方の明かりが輝くと特攻機の“戦果”と受け止めた。前田さんは「名護に米軍が上陸した時も、特攻機に撃沈された米艦船の乗組員が泳ぎ着いたと聞かされた」と言うほど、特攻機の“一人一艦”を信じていた。

 

 だが、米軍は確実に進撃していった。通信も妨害電波で受信が困難になっていく。

 

 識名盛敏さんも通信を解読できなかった経験がある。「あとで分かったが、4月8日総攻撃命令だった。妨害電波で途中が欠落した受信となったが、前後の脈絡から判断して解読したが、その時はできなかった。あとで『前任務を続行せよ』との命令があったが、前任務が分からない。その時出ていた『全力をもって名護方面の敵を攻撃せよ』という命令は後で分かった」。

 

   ◇   ◇

 4月8日、部隊本部は八重岳の谷間から西側の真部山に移動する。八重岳の部隊本部に前線から何の情報もないまま、いきなり目前に米軍が現れたこともあってか、移動は急なものだった。

 

 国吉真昭さんは、この日が父親との最期となった。警察官だった父親の名護署勤務で、那覇生まれの国吉さんも三中に入学することになったのだが、そこで国吉さん一家は多くの不幸を体験する。

 

 母親と6人の弟妹は前年、県外に疎開させていた。行きたがらない母親に、当時疎開を勧める警察という立場にある父親は「そういうわけにはいかない」と説得したいきさつがある。そしてまた、国吉さん一家にならって隣近所の人たちまで疎開を決断していった。だが、乗船した船が対馬丸だったことは、父親を深い苦悩へと落としていった。

※ 1944年8月22日 『対馬丸事件』

 

 「父は対馬丸の撃沈を知っていたのだが、私には“秘密保持”の立場から話さなかった。しかし、私はそれとなく知っていたのだが、悩んでいる父を見ると聞くことさえはばかるような雰囲気だった」

 

 国吉さんが寝ている時、同僚の警官らが父親を訪ねて来て、小声で父親を励ましていることもあった。ある夜、酔って帰って来た父親が縁側に寝ころんでいるのを起こしたことがある。その時、父親が縁側にぼう然とした表情で座り、深いため息を一つもらしていたのを国吉さんは今でもはっきり覚えている。

 

 たった一人残った肉親が真部山に移動する日にやって来た。「住民を安全な山中に避難させた」ことを国吉さんに伝えた。父子は多くを語らなかった。息子に対して「無理するなよ」と若い血が無謀な死へ走ることをいさめた。そのあと指揮官の徳丸春雄中尉にも会っていったという。息子が無謀な行動に出ることを制御するため念を押しにいったかもしれない。

 

 父親が、息子と別れての帰り道、我部祖河で戦死したことは戦後知った。「そのころは米軍が上陸していた。もし私に会いに来ないで住民と一緒に行動していれば戦後再会できたのに…」。戦争は国吉さん一家をたった一人にしてしまった。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月24日掲載

 

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1945年 4月10日『米軍、津堅島に上陸』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

 

大統領の死を傍受 暗号班にも出撃命令下る

 八重岳の本部では木造の兵舎内にあった暗号室は、真部岳に移動後は壕内に設けられていた。いつの間にか掘られており、ちょっとのことでは崩れそうもない堅固な壕だった。

 

 「しかし、石油ランプで鼻の穴は真っ黒。砲撃の合間の甲ら干しが楽しみだった」と国吉真昭さんは言う。

 

 ここでも少年たちに伝えられる兵隊たちの話は楽観的なものだった。「ここは苦戦をしているが石川までは日本軍で埋まっている」「皇軍はサンフランシスコに上陸、今ニューヨークを目指して突進中だ」。そんな“情報”の一つ一つに胸を躍らせて聞き入った。

 

 また、無線がルーズベルト大統領の死去を傍受した。その夜、切り込み隊が編成され、米軍のキャンプに「大統領死去」を伝えるビラが大量にまかれたという話も聞いた。「報道管制の下で戦っていた日本だから、それを伝えれば米国の兵隊も戦意喪失するだろうとの判断だったと思う。危険を冒しての切り込み隊だが、情報がオープンの米軍には当然のことながら効果がなかった」(前田泰弘さん)

 

 4月15日、暗号班にも出撃命令が下る。初めての戦闘だ。「訓練の時から暗号班が出るのは最後と教えられていたから、これでダメだと思った」と国吉さんは言う。出陣する時は身震いがしたともいう。

 

 真部山の頂上を目指して登る途中、道端の石に腰掛け、戦闘服に身を包み、軍刀を手にした宇土部隊長を見た。いつも半裸の姿しか見せず、しかも女性が周囲にいる姿しか見てない国吉さんも、この時ばかりは「頼もしい隊長に思えた」と言う。

 

 少年たちに銃はなく数個の手りゅう弾が渡されただけ。明るいうちに頂上に布陣したが、そのまま夜まで待機した。反対の南側のふもとでは戦闘が盛んに行われている。激しい機銃の音が休まず聞こえるし、砲弾がその音に強弱をつけていった。頂上にも時折、砲弾が飛んで来た。松の枝が鋭利な刃物で切ったようにサッと飛んで行く。

 

 夜になっても戦闘を始める気配はない。南側の斜面の木が燃え、照明弾がポンポン上がり、隣の顔まで見える。ふもとでの戦闘は続いている。三中の鉄血勤皇隊員らも加わっているはずだ。だが、その夜は戦うことなく、なぜか全員を引き揚げさせた。

 

 帰る途中、国吉さんは本部半島と伊江島との間に堂々と停泊している米軍艦を見た。「あんな大きな軍艦!」。那覇で生まれ育った国吉さんは、那覇港で海軍の艦船を見たことはあったが、その船はあまりにも大きかった。ほとんど見通しのない兵舎や壕内での生活で、外部を見ることがなかっただけに印象も強烈なものだった。

 

 翌16日、夜明け前に再び暗号班全員に集合命令が出た。中には前夜、出陣から引き揚げ、そのまま暗号任務についたのもいて、一睡もしていない。兵隊8人に三中暗号班が13人。壕の一番奥にある暗号班事務室に集められた。

 

 「本日、敵の総攻撃があり、わが暗号班も出撃する」―徳丸春雄中尉が命令を告げ、自らパインの缶詰を開けて全員に配った。少年たち一人一人に「一生懸命戦ってくれよ」と声をかけた。前田さんはその声がかすれていることに気づいた。生粋の軍人でないこの中尉も迫っている戦闘に恐怖感を隠しきれなかったかもしれない。その夜、真部山の頂上は前日とは一変した展開となった。13人の少年たちの運命も、その夜で決することになった。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月25日掲載

 

敵弾の中、真部山めざす 刀のサヤ持ち突撃

 夜が明けてから全員出撃となったが、壕内に長友兵長と三中暗号班の玉城一昌さんが残された。暗号書を始末するための要員だ。このことは全員に「玉砕する」ことを覚悟させた。兵7人、学生12人の一団は真部山の尾根を目指して進んだ。

 

 米軍の偵察機パイロットの顔が分かるほど低空で飛んで来る。偵察機に誘導されて海上からの砲弾が谷間に間断なく撃ち込まれた。目の前の伊江島は全島が火に燃え、黒煙が上がっている。

 

 時折銃弾が耳元をかすめる中、岩陰を探しながら頂上目指して進んだ。いつの間にか生徒だけが集まり一団となって行動するようになっていた。すでに兵隊たちは先に行き、取り残されている。

 

 「離れて動け!」だれかが叫ぶがまた集まり出す。そんなことを繰り返しているうちに、「やられたア」の声。耳をつんざくような弾の音が連続的に聞こえ、直径15センチほどの穴が周辺にいくつもあいた。

 

 前田泰弘さんは、その時夢中で頂上目指した。ふとわれに返って周囲を見ると岩陰に金城勇さんが座っている。「勇、どうした。やられたのか」と聞いたが、青ざめた表情の彼からは一言もなかった。負傷した様子はなかったが、前田さんの力では動かすこともできなかったので、そのまま残して、また一人で進んだ。

 

 頂上付近で暗号班と合流したが、生徒は島(旧姓・島袋)武久、新城治敏、国吉真康、久場兼吉の4隊員だけとなっていた。大城素傳、■保栄の2人をそれ以来見た者はいない。(■はワ冠に「且」)

 

 米軍は向こう側の斜面を頂上に向かって進んで来る。銃とてない前田さんらは手りゅう弾で応戦した。時間がどれくらいたったかは分からないが、戦況は一目で不利と分かるようになった。斜面を谷間に向かって下りていく兵隊たちが多くなってきたからだ。

 

 とうとう頂上付近に暗号班だけが取り残されたかっこうで戦闘している状況となった。覚悟したかのように徳丸春雄中尉が全員を集め、「全員で突撃する」と告げた。

 

 その時、武器のない前田さんら生徒に渡されたのは軍刀のサヤと肥後の守。竹ヤリさえもない。容赦なく降る米軍の銃弾に対して軍刀のサヤだけを武器に突撃することは、死んでいくことだけしか目的はなかった。

※ 学童用のミニナイフで鉛筆削りや切り出しナイフとして使われていた文房具の一種。

 

 突撃命令までの間も銃弾は襲って来た。突然、三中の同僚の1人が足を血だらけにしてはっている。またほかの2人も手足をやられた。手当てに向かおうとする前田さんに徳丸中尉の声が追って来た。「みんな死ぬんだから手当てはするな」

 

 「そうだ。どうせ死ぬんだ」と自分に言い聞かせるようにした前田さんは、遠く大宜味の方に目をやったが、故郷の山々は見えなかった。

 

 突然、徳丸中尉が立ち上がって「突撃」と叫ぶ。軍刀を振りかざして一気に斜面を駆け下りると、ほかの兵隊たちもそれに続いた。軍刀のサヤを片手にした前田さん、島さんも飛び出そうとした時、ものすごい音の至近弾。黒煙が舞い上がり機銃音がしばらくの間続いた。

 

 やがて何一つ聞こえない静寂。2人は飛び出すきっかけを失ったままぼう然と座り込んでいた。ただ目前に敵が現れた時の恐怖から、自決するための手りゅう弾を握る手だけは力が入っていた。

 

 その後の2人はやっとの思いで本隊に合流した。前田さんは「生粋の軍人で戦闘経験がある指揮官なら、あんな無謀な突撃はやらなかっただろう。教員出身だったから三中生の犠牲に責任を感じて死ぬしかないと判断したと思う」と言う。前田さんは今でも耳元をかすめる銃弾の音をぬぐい去ることはできない。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月26日掲載

 

 負傷者を見捨てる 真部山で生死の間さ迷う

4月17日、八重岳野戦病院からの撤退

 真部山頂上に向かう時、三中の一団から「やられたー」の声を発したのは識名盛敏さんだった。国吉真昭さんが見ると左腕から血が流れている。タオルで止血、そばにいた前田朝善さん、中里(旧姓山城)邦夫さんらの手を借りて、ふもとの野戦病院まで運んだ。

 

しかし、野戦病院には衛生兵が1人しかおらず「本部の野戦病院まで行け」と言う。「担架で運べ」と言い、四方から担げるように防衛隊員を1人つけてくれた。「だが、その防衛隊員は飛行機が来ると担架を放して逃げ出すから、識名君も放り出される。それをなだめたり、すかしたりして運んで行った」と国吉さんは言う。だんだん畑を運ぶ時は識名さんが痛みを訴えるので、体の大きかった国吉さんが背負って運んだ。3時間ほどかかって八重岳谷間の本部まで運ぶと3人は引き揚げた。

 

 「長い間、野戦病院の空き地に放置されたままで、治療などしようとしない。たまらず近くを通る人に『軍医を呼んで下さい』と頼んだら衛生兵が来て止血帯だけ巻いて帰った。このあと三高女の生徒にかつがれてトイレに行ったのは分かるが、そこで失神した」(識名さん)

 

 目がさめた時は看護婦のももを枕に寝ている。もうろうとしながらも、胸元の名札に「白」という1字だけが読めた。壕まで行くとようやく包帯を巻いてくれた。看護婦は夜、砂糖水を運んでくれた。

 

 その晩、看護婦の動きが急にあわただしくなった。親しい者同士が小声で話し合っている。そのうち軍医の声が聞こえる。「日本男児なら切腹して死ね」。それに向かって話しているのは伍長だった。「自分らを見捨てるのか」―泣いている声だ。泣き声はやがて壕内に充満した。本部を撤退、患者を置いていこうとしているのだった。

 

 翌朝、同じ病棟に眠っている曹長は、見おぼえがあった。前日、空き地にほったらかされている識名さんに衛生兵を呼んでくれた人だ。歯にはいっぱい金歯が入っている。礼を言うと、「お前だったか」とうなずいた。腰をやられているとのことだったが、2日目には口を開いたまま死んでいた。

 

4月17日の朝、負傷者以外の姿は壕内になかった。本部に見捨てられた思いが多くの負傷者にあった。「自決しよう。だれか手りゅう弾を持っている者はいないか」と呼ぶ声。識名さんは1個胸元に忍ばせていたが、自決する気にもなれず黙って壕を出た。

 

 病院の倉庫に行くと、食料が豊富にあり驚いた。長い間味わったことのない缶詰を銃剣で突き刺して穴を開け、夢中でほおばった。

 

 2日ほどたったころ、こちらに向かって来る者がいる。両足と片手をやられているのだろうか、片手を支えにシリを地にすりながらやって来る。年老いた顔だが、見たような気もするので話しかけてみた。「お宅の親せきで三中に金城勇というのはいませんか」。

 

 相手は驚き、「おれが金城勇だ。お前は?」と問い返し、「大山だ(識名さんの旧姓)」と答えると、ワアッと泣き崩れた。

 

 「真部山の総攻撃から4日ぐらいしかたってない。戦闘を体験、普通1時間ほどの距離を4日がかりでやって来た。生死をさ迷う間に2人とも顔つきが変わってしまっていたのだろう」

 

 その後2人はまた別れる。米軍が付近に現れて来たからだ。識名さんは必死に逃げた。後方からは機銃掃射のあと、パチパチと火の燃える音、そしてドシーンと壕を爆破する音が聞こえた。走りながら後ろを見ると金城勇さんが避難民に背負われて逃げて行くのが見え安心した。

 

 しかし、その後の金城さんを見た者はいない。識名さんは5月中旬、米軍に収容された。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月27日掲載 

 

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Officers of D-3 collection team unearth important documents in a cave evacuated by the Japs. It once was their Command Post on Motobu Peninsula.
日本軍が撤退した壕で重要文書を発見したD-3収集班の将校。ここはかつて本部半島の日本軍司令部であった。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

「重傷者、学生は残れ」「命令に従わないと切る」

 4月16日、八重岳から多野岳に撤退も、学徒は置き去り

 識名盛敏さんを野戦病院まで運んだ国吉真昭さん、前田朝善さん、中里邦夫さんの3人は、真部山の戦闘に参加するため引き返したが、途中会った兵隊らに「あそこは全滅だから行くな」と止められた。

 

 やむなく暗号室の壕に戻り、しばらく待っていると暗号書処分のため、残されていた玉城一昌さんがやって来る。やがて長友兵長も戻って来たが、ひどくおびえている。「訓練中あれほど厳しかった人が憶病と思えるほど。私らが来るまで暗号書も処分できないくらいだったから…。私らを見て暗号書処分を決心したようだったが、まだ私がガソリンをまいている時に、いきなり火をつけ、危うく大やけどするところだった。それほど落ち着きを失っていた」(国吉さん)。長友兵長はこのあと学生を残して一人で行動した。

 

 八重岳本部まで行くと、そこは人であふれている。宇土部隊ばかりでなく、中南部からの兵がいるし、防衛隊員、避難民もいる。これら集団の中から「読谷を友軍が奪回した」との声が聞こえるし、「間もなく援軍が来る」とも言う。4人はここで前田泰弘さん、島武久さんらと会った。

 

 真部山の敵に夜襲をかけるという情報がもたらされた時、前田さんは「学生のとむらい合戦ができる」と意気込んだ。

 

 だが、事態はそういうふうには展開しなかった。本部前への集合命令があり、行ってみると数百人の兵隊の前で宇土支隊長は期待に反することを言う。「幾多の兵を失い、座して待つより、野岳に撤退して再起を図る」

 

 次の言葉はさらにショックを与えた。「歩ける者は歩き、重傷者は置いとけ。主計と学生も残れ。命令に従わない者は斬る

 

 すでに指揮官を失い、兵はバラバラ、少年たちだけが取り残されたようになっていたが、そのうえ敵が目前に迫っている場所に置き去りにしようとしている。命令通りにすれば米軍の銃弾にやられる。そむけば命令違反で斬られる―途方に暮れた。木の下でぼう然としたまま、隊列を整え去っていく兵隊らを見送らなければならなかった。

 

 いくつかの隊列が目の前を通り過ぎた時、ふと見ると無線機を担いだ一団がある。32軍直轄の通称「軍無線」と呼ばれている一隊だ。それに気づいた時、向こうの方から先に声がした。「おい、みんなこんな所で何をしているんだ」。顔見知りの軍曹だった。

 

 事情を説明すると、「一緒について来い」といとも簡単に言う。鉄かぶとをかぶせたり、無線機や発電機を背負わせて、カムフラージュもした。1人ずつ隊列の間にはさみながら進んだ。陣地入り口には部隊長はじめ将校らが抜刀して、命令違反者を探し出していたが、その軍曹は平然と挙手して進み、見つかることはなかった。

 

 その後、羽地の薬草園付近で米軍の攻撃を受け、一隊は散り散りとなった。軍曹の名前を前田さんは忘れたという。国吉さんは「デキタ軍曹、和田兵長」と記憶している。「薬草園で戦死したかもしれないが、われわれの命の恩人だ」と言う。6人は無事に終戦を迎えることができた。

沖縄県名護市 沖縄武田薬草園跡|NHK 戦争証言アーカイブス

 

   ◇   ◇

 戦後間もなく前田さんは真部山を訪ねたことがある。茂みの中に足を踏み入れた時、斜面に横たわった二つの遺骨があった。1体は他の1体のひざにうずくまるように倒れていた。傍らには眼鏡があり、印鑑もあった。そのままにして引き揚げたが、前田さんは「印鑑には上山とあったから上山軍曹、眼鏡は坂口1等兵のものだったに違いない」と言う。

 

 激しい戦闘の行われた真部山は今、雑木、雑草が生い茂って近づくこともできず、遠くから眺めることしかできない。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月28日掲載

 

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HE DIED AT ”CP”--This slain Jap soldier lies outside the entrance to a mountainside bunker, Jap command post, on Okinawa's Motobu Peninsula, after fighting with the Marines.
本部半島の日本軍指揮所の入り口で最期を遂げた日本兵

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

※ 米軍は入り口の遺体を日本兵と記録しているが、まだ筋肉もなく体格もがっしりとはしていない、小さな少年のように見える。

 

沖縄で、地獄の戦争の只中に押し出され、最終的に学徒兵の半数以上が戦場で命を奪われている、ちょうどその只中、日本政府は、本土で法的に学徒動員を可能にさせる方向に動く。沖縄は本土の試験台でもあったのだろうか。

 

沖縄などの「周縁地」で軍令によっておこなわれた学徒の徴兵は、法的には1945年6月23日の義勇兵役法で合法化される。

 

そして7月8日文部省は東京で表彰式を行い、師範学校や一中の学徒たちを「学生の鑑」として表彰 (1945年7月8日) した。むろん、沖縄から参加できた表彰者など一人もいない。沖縄での学徒の死を本土で讃えることにより、本土でも中学生からの動員を展開しようとしていたのだ。

 

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  1. http://okinawa-senshi.boy.jp/yae.htm
  2. [戦世刻んで 戦後74年]/元宇土部隊 比嘉さん(93)/少年兵 学生服で入隊式/形だけの訓練 実戦配備 | 沖縄タイムス紙面掲載記事 | 沖縄タイムス+プラス
  3. 三中鉄血勤皇隊・三中通信隊 証言1 訓練とは名ばかりの壕掘りが任務 - YouTube

  

この国には、今も強制された死を崇拝する宗教が根を張り、

人権という意識はほとんど定着していないかのように思える。

 

個人よりも組織や国家が優先され、子どもですら守られることがない。

 

こうしたことが、経済格差、非正規雇用拡大、子どもの貧困、難民の入国管理から、児童虐待性的虐待判決、奴隷制のような外国人技能研修制度まで、さまざまな非人道的政策に見え隠れする。

 

日本は、わずか14歳前後の沖縄の学徒兵を戦力として使ったが、

 

軍隊は子どもとして多少は優先的に命を守ってくれたのだろうか、それとも、子どもだからと、彼らの命はまるで虫けらのように利用し軽視されたのだろうか。

 

みなさんはどう思われるだろうか。