沖縄戦証言 久高島編

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

津堅島・久高島(PDF形式:1MB)

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久高のアンマー部隊

知念村久高西銘カメ(四九歳)

陣地構築作業十月空襲のまえから作業隊に徴用されて知念岬の陣地作業に通っていました。五十歳までの男も女も、一班から六班まで舟も割り当てられて、東の浜に七時集合、知念岬のウガン浜に八時について、そうして兵隊さんと共に働くようになったわけです。

久高は昔から女ばかりの島で、男たちは南洋方面に五年も十年も漁業に行っていましたから、島にいる男は五、六名ぐらいしかいませんでしたよ。それで、陣地作業も女ばかりで、私たちが地で知念岬につくと、兵隊さんたちが「おうい、久高のアンマー部隊」と呼んでいました。私は婦人会の会長をやっていましたから、このアンマー(阿母)部隊の責任者もやらされていました。

アンマー部隊は、兵隊が穴を掘れば土を運んで土置場におく、松の木を切れば原野から陣地まで一本ずつ運んだり、石を運んだりして、男に負けない働きをしました。

そうやって、毎日海を渡って陣地作業をしているときに十月空襲がきたわけです。朝からパラパラやられて、このときはサバニ(クリ舟)がやられただけで、私らはティンデルガマにかくれて無事でしたが、それから疎開問題が起こったわけです。

はじめの疎開問題のときは婆さんたちが反対して「なぜあんたたちは行かんで年寄りだけ内地に送って、みんな死なすつもりか」といって、とうとう誰も希望者がでなくなりました。この島は昔から神の島といわれ、軍隊もこない、弾もこない、と安心していたわけです。

十月空襲でいよいよ為も危いとわかって、役場の人とか巡査など来て、黒板に説明を書いて、疎開というのは人間の種を残さんがために日本に送るのだ」といったので、それで婆さんたちも行く気になって、皆んなで島を立退いたわけです。昭和十九年の十二月ごろだったとおぼえています。

しかし、その時からはもう時局ですから、内地には送られないで、本島へ行って、めいめい行くさきをさがしなさいといって、それで久高の人たちは漢那疎開していったわけです。でも、この疎開は年寄りや子供たちだけで、「該当者」は知念岬に残されて、相変らず陣地構築作業をやらされたわけです。「うちなんかは、西銘盤次郎さんの運搬船で家財道具といっしょに安座間口まで渡っていって、そこで疎開と徴用に分けられて「該当者」になったもんだから、しようがなくて、娘ふたりと親戚の者と四名で陣地作業にかよったわけです。

知念岬で宿を借りて、配給は二合ずつありましたが、イモを買ったり、また、情報がいい日はサバニで久高まで渡って、自分の畑からイモや野菜を取ってきて、そうやって食べていたわけです。

うちたちがつくった陣地は知念半島のちょうど先にあって、高射砲をすえつけてありました。当時高の若い者はみんなとられて、五00名ぐらいしかいなくて、そのうち三〇〇名ぐらいはさきに疎開していますので、このアンマー部隊というのはおそらく100名ぐ

らいのものだったと思います。この「部隊」は吉岡という隊長が指揮していましたが、この隊長は戦争で死んだんですが、死ぬとき「天皇陛下をうらむ」といって死んだそうです。

疎開久高島は巡査もいない平和な島で、島でとれるものというと、イモ、麦、大根、豆ぐらいのもんで、米の飯は十八夜におかゆを炊いて食べるだけでした。

男たちはいなくて女だけの島になってしまって、もちろん軍隊もいませんから、こんな島に敵が上陸するとは思いませんでした。それでも防衛隊をつくって、糸数武七さんが隊長で、竹槍訓練、避難訓練なんかもしていました。

ラジオもない電話もない、ランプしたから、本島との連絡は信号旅でやっていました。夜は電燈パチパチとやっていました。島の南の砂山の上に監視小屋をつくって、交替で見張りが立っていましたから、本島の斉場御城の方の部隊から空襲警報の合図があると防衛隊が「空災警報、空襲、報」とメガホンで部落じゅうに触れまわっていました。

こんな島にまさか敵が上陸してくるとは思われませんでしたが、十月空襲で戦さのことがはじめてわかって、それで疎開することになったわけです。

私たちは三月二十三日の戦争がはげしくなるときまで陣地作業をやっていましたが、そのとき、軍から「敵はいよいよ敵前上陸して読谷と港川からはさみうちにくるからもう逃げなさい」という命令がきて、久高の人たちはあっちこっちから集まってきて「どうしたらいいか、どうしたらいいか」と相談して、それでみんなゾロゾロ歩いて佐敷村の方まで行ったわけです。この佐敷のまんなかで防衛隊が見張っていて、通さないんですよ。これは沖縄の防衛隊ですが、「これからは北部には逃がさない。いよいよ戦さが始まるから南部の守りをやりなさい」といって止めているわけです。安座間と手登根の間あたりですよ。

ある青年が私に向って「おかあさん、なんであんたたちは今ごろ村内にのこっていたわけか。もう、戦争ははげしくなるのに、これからは通されない。なんで早く逃げなかったか。おとといまでは自由に通れたのに」といったわけですよ。「では、どうしたならいいですか、防衛隊さん」といったら「みんなひとかたまりに浜の方に座らしておきなさい」というから「なぜですか」ときくと「あんたはアタマがあるから考えなさい」といわれたわけですよ。

そこで私は島の人たちは声の方に待たして、私はアンマー部隊の隊長でもあるし「のこれというならのこりますよ。兵隊さんの手伝いは何をしたらいいですか」といって防衛隊について行ったわけです。「あんたたちは防衛隊といっしょに馬の世話をしなさい」というから「私らは久高の人で、久高には馬はいないから馬の世話はできませんよ」といって、わざと防衛隊からおくれて山の途中まで登っていって、暗くなってから浜の方にひっかえしてきたんですよ。

夜の十時ごろですよ。みんなのところにもどってみると、海はちょうど千潮で、富祖崎から馬天まで弓形に千頼ができているわけです。そこを通れば湾の奥の佐敷は通らんくていいわけです。そこでみんな一列になって、声をださないようにして、千瀬を歩いて馬天の部落まで渡ったわけです。

それから与那原を通って、夜の十時から明け方の四時まで、足が眠れるまでずっと歩き通しですよ。子供をおぶって、鍋をガラガラさせて、ようやく知花までついたわけです。

朝の四時ごろになると、東の方から敵の飛行機がブンブン飛んでくるし、昼間はずっと森のかげ、岩のかげにかくれたりしていきました。子供たちが「カーチャンョー、カーチャンヨー」と泣いている姿はもうどうしようもなかったですよ。

そうやって、石川のさきの岸島まで行ったわけです。尾岳へついたら、屋嘉空襲でボウボウ焼けてしまっているんですよ。空襲は夜も昼もやってきて、疎開の人たちは大騒ぎしているわけですよ。

私らはまた北へ北へと歩いていって、山原(国頭地方)に行けば久高の人たちが集まっていると聞いたもんですから、ずっと行ったら金武の方に島の人たちがいて、各班に分れてやっていましたから私らも金武の開拓地の学校うらにかくれていました。四月十日にはもうアメリカがやってきたんですよ。私らはすぐ捕虜になって、漢那の収容所に送られました。私はそこで一七〇名の班長をやらされました。そこに七か月いました。

私らは捕虜になって、アメリカの配給を受けて作業をやっていましたが、山にはまだ日本兵がかくれていて、夜なかに寝ているとこ、ろに「顔をだせ、顔をだせ」と物をもらいにくるわけです。山の中から出てくる兵隊は色も青ざめて、かわいそうでしたよ。キャベツの芯などもらっていったですよ。アメリカ兵は夜十時まで立っていて、引あげていくもんだから、それから日本兵が山から降りてくるわけです。

その疎開中に、島の人たちがずい分犠牲になりました。読谷にアメリカ軍が上陸して屋嘉まで攻めてきたとき、逃げないと何でもないのに、逃げる者はみんなやられたですよ。いよいよ敵が目の前にきて、自分の壕からとびだして逃げようとすると後からパラパラとやられたわけです。内間カマドさんの家は母子三名全部やられました。夫は八重山でカツオ船にのって離ればなれでした。ブンヅー屋も一家十名ぜんぶやられました。内間ウシさんは六十あまりの婆さんで、足の立たない病気で、この人だけが全員疎開のときただひとり島にのこった人でした。島へ帰ってみると家は焼け落ちて、婆さんは焼け死んでいました。このウシさんの夫は婆さんを島においたまま疎明したわけですが、この婆さんも知念にアメリカ兵が攻めてきたとき安座間で射殺されました。アメリカ兵があらわれると爺さんは蟻をふり上げて向っていったもんだからそれで撃たれたのだそうです。屋嘉でも西銘徳いという爺さんがアメリカ兵の銃剣のまえに空手をかまえて向っていったが、これは相手が心がよくて殺しはしませんでした。

いちばん気の話なのは内間ユキさんのことで、屋嘉にアメリカが攻めてきたとき、みんな散りぢりに石川の山に逃げこんだものですが、ユキさんは乳のみ児をおぶって山の中をさまよっていましたら、乳も出ないので子供は飢え死にし、気もつかないで背中におぶったまま逃げまわっているうちに五、六月だからすぐ腐って、臭いが立ってから気がついて、びっくりしてそのまま投げすてて、母親だけ山を降りてきました。体はふらふらして気狂いみたいになっていました。後で骨をひろいにいったんですが、どうしても見つかりませんでした。

島へ帰る。

戦争が終って、散りぢりになっていた久高の人たちは知念に集まってきて、何名生きのこっているか、久高島はどうなっているか、だんだんわかってきたわけです。そこで取(米軍政府)の方で島を調査して、水に毒ははいってないかどうか、家は何軒のこっているか調べてから島に戻ることになったわけです。島はもとは一三〇軒ばかりありましたが焼けのこっているのはニ三戸だけでした。そこでクジを引いて軍のLST(舟艇)で島へ帰ってきたわけです。21年の四月ごろです。

島へ帰ってくると、水はある家もあるが、食糧は本島から持ってきたものばかりです。そこで区長を責任者にして軍からの配給を分け、漁業班長、農耕班長をきめて、全員所に分れて、家は焼けのこりの家を割り当て、食糧づくりに立ちあがったわけです。農耕班は女だけですから私が班長になりましたが、イモの苗は知念村に行って各部落からカズラをもらってきて植付けしました。班ごとに分れて、畑は戦車に敷きならされて見分けもできないから最初はみんな共同作業で復興させたわけです。時計もないから畑の畔に線香を立てて、この燃えるのをみての段どりをしました。植えつけて4か月半、初めてのイモがとれて、大人が2斤、子供は年齢によって分配しました。こうして、やっと昔の久高島にかえったわけです。

 

島を追われて

知念村久高○○ウシ(三九歳)

十・十空襲のとき島には男が十名ぐらいしかいませんでした。軍からは、この島に敵潜水艦がくるから見張りをしろといわれて、女たちだけ六班に分れて、嘲から弁当をもって見張り小屋に詰めていました。

女たちが竹槍をもって潜水艦の見張りをやるというから、私は腹が立って、「こんな竹槍をもって何をするか?タコをとるか、魚をとるか?潜水艦が大砲をうってきたらどうするね」と区長さんに言ってやりましたよ。」私の夫は南洋(パラオ)に行って九年ぐらい分れていました。家族は八歳、十一歳、十六歳の子供と七六歳のお婆さんをかかえていたから、男まさりに意地をもたんといかんと張りつめていました。

島には兵隊はこないが、津堅(島)に陣地を作るというので、久高まで木材の伐採にきたことはあります。私らも宿を貸したり、次きだしをしたり、女ばかりで労務に出たこともあります。私の家にはャナブの木の立派な屋数林があったがこれも二十本あまり倒されてしまいました。

十・十空襲のあと、十二日から四日間、知念村に全員避難移動したことはありますが、これはすぐ帰ってきたわけで、いよいよ島から立退き命令がでて、じゅうが立ち退いていったのは昭和二十年の一月七日だったと思います。これは永命ですから反対はできんわけです。

島を立退くとき、荷物は一人あたり五十六ときめられていました。私は蒲団、銀、鎌、ヘラ、砂糖、イモ澱物、味噌など持っていきました。その道具で疎開先の盛で開塾をして、イモのかずらを植えたわけですが、このかずらが首をもたげたころにアメリカがやってきたわけです。

私らは知念の安座間に渡って、そこからすぐ屋嘉に疎開させられた組です。費用の馬車を何台も並べて、小さい子供はおんぶして、足の弱い年寄りは馬車にのせて、雨が降っているのに、ずっと歩き続けて、二日間で屋端まで歩きました。「県庁ではあっちこっちに出張所をおいて、始人会の人たちが炊きだしをしてくれて、また、学校では先生に引率された生徒たちが次の学校のところまで荷物を込んでくれたりして、とにかく疎開は無事にできたわけです。村からも引率の職員をつけてくれたが、これは戦さが始まるとどこかへ逃げてしまって、後で会ったら、「まだ生きていたか」、こうですよ。村長もシマ(村)に隠れていて、私らが帰ってきても「元気だったか」という一言もない。とにかく村は無責任だったです。

屋嘉へ着くと、久品の区長さんが知人を集めて、「これからはさが終るまでは強く意地を者って、屋嘉の人たちと一致協力して兵隊さんたちと共に働いてね」と話してくれました。それからは私ら婦人は薪取りや炊事で軍に協力して、その働きで軍から米の配給がありました。区長さんは日本が勝っつもりで言ったんでしょうが、私にはもう先は見えていました。軍はしまいには配給どころか、兵隊が私らのところに物もらいにくるようになってきましたから、私は、「この戦争はもう勝つはずはないさ。こっちはあんな速い速い東の島から子供たちをひきつれてきたのにね。あんたたちまでこっちの食い物を乞うて食べたら、私たちは誰が守ってくるね、兵隊さん」こうってやりましたよ。

私らも日本が勝つようにと東にも西にも手を合わせて拝みをしてきましたが、兵隊が住民の食概をあさるようではもう誰の味方かわからない。「これでは日本は負けるね」と言ったら、兵隊は「日本が負けたらどうなるか」というから「負けたらふらはさっさと手をあげて降参するさ」と答えると、兵隊はこわい顔をして「誰が教えたか」ときくから、「誰がも救えない。おばさんはちゃんとわかっているさ。神さまが教えてくれるさ」と言ってやりましたよ。私は久高の神人ですからね。

三月一日の空襲のときは屋城にいました。疎開者は空家に分散していましたが、軍が防空壕を掘ってあって、その中にかくれました。

戦さがパチパチはじまると、私は壕から出て民家にいっていたんだが、鍋を一つ持ってドブの中にとびこんで、頭に鍋をかぶって火をしのいだものですよ。空襲が終って、田んぼの水で体を洗って、ようやく山の壕までたどりつくと、子供らがワーワー泣いていました。

この空襲で家も荷物もぜんぶ焼けてしまって、それからは山の中の壕住いをやっていました。そんな戦さの中にも軍の飯炊きをやっていたわけですが、ある日、新をとって山から降りてくると、もう

そこまでアメリカが攻めてきていて、ピリンパランと英語が聞えるから、びっくりして、その夜から山脈の北の方へ、芸、金武、決那、辺野古の方へ逃げていったわけです。四月から六月半ばまで、ずっと逃げどおしでしたよ。

久高の人たちは、アメリカが攻めてきたときすぐ捕まって収容所にいれられたのもいましたが、半分ぐらい、三〇名ぐらいは逃げだして、それからずっと山のなかをさまよって苦労したわけです。そのころからは耳からも何の命令もなくて、ただちりちりばらばらに食い物をあさって逃げたわけです、なかには、山原のずっとはずれの奥まで逃げたのもいました。

山原には段々畑が多いから、そこを、人が通ったあとからまた掘りにいって、あっちこっちからひげいもを集めて食べていました。山の中からヨモギだとか草の葉を摘んできてこれも食べました。自分ひとりだったらいつ死んでもかまわないが、子供のいのちを守るので期がいっぱいで、自分は食べなくても子供には一口でも二口でもやろうと思いますが、自分もべないと子供も心配だからと、そんなものを食べて生きていました。人間はどうやってでも生きていけるんだなと思いましたよ。お金はもっていたが何の使いみちもありませんでした。一日一食しか食べないのがあたりまえの状態でした。

辺野古の海端についたのは夜で、罪は殺て夜しか歩けないから、武暗開の中でようやく若穴を見つけて、そこで寝たわけですが、円い石を枕に寝たつもりだったら、切になってそれが人間の頭だとわかってびっくりしたものです。そこはムラ塞(部落の風邪路)で骨がごろごろしているわけです。それでもこの頃は神経が何も職じなくて、私は手を合わせて、「戦さ世に追われて私らは辺野古のご先祖の基にはいっております。私らを許して健康を見守ってください。わが沖縄から一日も早く戦争を終らしてください」、そう拝んでから、また近くの岩穴に移って、そとで一か月ばかりいました。

辺野古の海端はスヌイ(もずく)がとれて、これが何よりのごちそうで、海草などを煮てたべました。鍋もいつの間にかなくしてしまったので、死んだ兵隊の鉄かぶとをひろってきて、潮水で炊いて食べました。

それから、大浦、塩陽を点々として、東村の江、新川の海岸に海人(漁師)の隠れ場になっているガマがあって、そこに何十人といっしょになって、海草を食べながら隠れていたわけですが、そこではじめてアメリカ兵に捕まりました。目の前の海にアメリカの飛行機が墜落してきて、これを助けに沖の軍艦からボートがやってきて、このボートにみつかってしまったわけです。私らがガマの中にかくれていると、「出てきなさい。出てきなさい」というから、私らは手をあげて出て行ったですよ。「沖縄人かジャパニーか」ときくから、お婆さんが手のハジチ(入墨)を見せて、「おきなわ、おきなわ」と言ったら、アメリカ兵はおとなしく、お菓子とかマッチとかをくれようとするが、私らは初めてみるアメリカ兵がこわくて、お英子には毒がはっていると思って、初めはみんな捨ててしまいました。

そのときは、若い連中はみんな山の中に逃げていましたが、私らも、ボートに乗せようとするから、軍艦につれていかれて強姦されるのだと思って、すきをみて私ら家次は山に逃げこんでしまいました。

それからがまた山の中をさまよって苦労しました。とにかく山の奥へ奥へと向って、名も知らないところを歩きまわりました。山道では地元の男が金をとって道案内をやっていました。どこまでつれていけば何十円というふうに山道を逝ってにげていましたが、どこまで行けば安全というあてはありませんでした。

そのうち、知念あたりは安全だという噂があったので、そこで南の方へ向うことにしたわけです。人芯までくると、そこから舟があるというので、サバニを自分らで洲いで屋嘉まで戻りました。はじめは高離(宮城高)へまっすぐ渡ろうとしたのですが、ある人が属品の壕の中に純物をかくしてあるから取りに行きたいというと、それで屋婦の浜に舟を寄せたわけです。母は女たちが自分でこしらえた幅で酒いで、食べ物は畑から盗んだ豆阿豆(大豆)を蒸して、それを一粒一粒噛みながら、やっと屋島までは着いたわけです。

屋嘉の浜にあがると、向うからゴーッと戦車が押し寄せてきて、おし潰されると思って、逃げだして、また石川岳の方にかくれたわけです。

石川岳にかくれていると、食い物はないしねらももう長くはないものと覚悟していました。食べ物といえばカタツムリだけでした。その頃、金武には収容所ができていて、そこから女たちがいも掘り班でやってきたのにぶっつかりました。「おばさんたちはどこの人ですか」ときくから、「叔たちは久面からだけど、どうしたらいいかね」と言ったら、「私たちと一緒にいもを掘りなさい。いっしょに収容所に行こう」とさそいました。

どうしようかと考えていると、竣さんが「あんたたちだけ行って、殺されなさい。私はのこるよ」と反対するので、その時はそのまま山にいました。

私らが捕虜になったのは高江洲(具志川村)ですが、そこまで逃げたときには、もうどこもかもアメリカ兵がいっぱいになって、そこがそのまま収容所になっていました。私は空家にかくれているところを、銃剣を突きつけられて捕まったわけです。

収容所にはいると、こんどはジャパニー(日本兵)がこわくなりました。夜中にしのびこんできて「食べるものはないか」といってくるんですよ。「あんたたちのおかげで、こんな哀れな目にあったんだよ。こんなにして、食い物もなくなって、どうして戦争が勝てるか」と言ってやりました。その兵隊は「おばさん、心配はいらん。かならず勝つから」とまだ言って、白いタスキをかけて、肉弾戦に行くのだといっていました。

防衛隊

知念村久高安泉松雄(四三歳)

十・十空襲十月空襲のとき私は国民学校の校長をやっておりましたが、朝六時ごろ、歯ブラシをくわえて庭に立っていましたら、東の方からたくさんのグラマンの編隊が飛んできました。みんな、友軍機だと思って「バンザイ、バンザイ」とやっていましたら、施隊は久高と津堅島の間を通って、中城秒あたりから本島へ向って降下していって、桃谷飛行場あたりに黒い地があがりました。平安座島、那湖方面も空襲されて、斉戒警報が鳴ったもんだから、それからが島じゅう大あわてです。第一波は久面は皿り過ぎてしまいましたが、すぐにこっちにもやってきました。

私は急いで学校へ重要獄を取りに行って、そこで第一回の空襲を受けたわけです。四、五機のグラマンが学校をねらって機銃抑射をやってきました。外がプスンプスンと飛んできました。この久高の第一回の空段が朝の七時ごろです。

替類をかかえて家の方へ心っていくと、家族はぜんぶ逃げていました。私は豚小屋に替旗をかくしておいたんですが、そこにまた第二波がやってきました。の人たちはすでにあっちこっちにある白然洞和に避難していましたので、私もそこへ逃げようとすると診城所(現在)のところの福木のところでまた機銃抑をやられたわけです。グラマンは三機編隊で、何度もくりかえしやってきて、おもに浜のサバニ(小舟)や、ちょうどそこに着いていた山原(国頭地方)の薪船をねらっているようでした。

国民学校には生徒が百十何名かいましたがそれぞれ家族と一緒に蛾にかくれて、人命の被害はまったくなかったです。初めての空でびっくりしてしまい、この地にもいよいよ敵がおし寄せてくることが尖感でわかったものですから、外からの疎開勧告には誰も希望者がなかったのに、空腹のあと、川の命令で国頭へ疎開となったときには、これには誰もさからいませんでした。

防衛隊

私は、昭和二十年三月八日付で、疎開さきの知念で、防衛隊にとられました。球部隊(独混第四十四師団)の美田進隊非上大隊防衛中隊に入隊して、井上大隊の本部付きになりました。知念国民学校に集められて形ばかりの訓練を受けましたが、ほとんど、壕堀り、―林運城、雑役などやらされていました。この球部隊というのは、本土からきた現役兵と、沖縄の予備役と、それに防衛隊で編成されているもので、弱い部隊ですよ。にわか仕込みで訓練に明け暮れていたわけです。

ところが、五月上旬ごろ、いよいよ前線にもっていかれることになったんです。最初は私らは壷屋(那潮市内)の壊にいたわけですが、このとき、敵は東側の西原、幸地と西側の補然・内間の線まで戦車隊を進めてきているというので、私らは屋の媒をでて、首里坂下から金城町の下を通って、退玉森の裏の大名(南風原村)の塚にはいったわけです。

第二大隊はそこを根拠にして運玉森の滅戦地に出たわけです。首里防衛線の第一線ですからね、すごい激戦で、私らの隊で十分間で何十名という負傷者がでるありさまでした。ここでは球部隊と石部隊(第六二師団)が一緒で、一寸きざみの戦闘でした。水をのむのも、ハンカチを泥水に浸してこれを絞って飲んで、そうして五日聞闘っていました。戦闘の途中から、どうしたわけか、今度は安里(旧真和志村)の後のブタノール会社の近くに移動させられて、ここで五月四日の総攻服ですよ。安対方面(西海岸)の第一線にまたんだわけです。ここも激戦で、英田部隊の知念村の人たちはここで

5)ここまっ!!et]16F....みんなやられたわけです。私もここで、天久線の夜間行動中に、伝令をやらされて、そのときに限をやられたわけです。

壺屋の埃に移されて治療していたわけですが、三日目ぐらいでしたか、敵の戦車隊は崇元寺あたりまで進出してきて、昼やってきて夜はひっかえしていきます。席の壕からはすぐそこでしょう、そこで、独歩思者は歩かされ、重傷者は幹部だけタンカで運んで、のこりは自決するように言われて、から撤退したわけです。南風原陸軍病院から糸数(玉城村)の野戦病院に行って手当てを受け、それから知念まで来たわけですが、そのときは部隊は艦砲に追われてちりちりになっていました。

帰島

知念の蝶には傷病兵だけ残されていて食格はありましたから、ここにしばらく居りました。食物は傷病兵の係がいて、これが分配していました。そのうち、佐奴(柳の北側)までアメリカ兵が来ているというので、知念もいよいよ危いし、そこで夜間行動で久高島に渡ってきたわけです。

そのころは軍の指揮系統はもうないですから、知念に逃げかえってきた久高の防衛隊や義勇隊の巡目を集めて、皆で相談して、久高も危いとは言われていましたが、どうせここから南部へ逃げるよりも、死ぬなら高で死のうということになって、母を集めたわけです。

そのとき集まったのは三二名、男も女も一緒でした。久高のサバニはみんな知念の海岸にもってきてあったから、これをさがしてきて、私らの舟には七名、知念の浜から想いで宮へついたわけです。

舟はみんなで四災ありました。知念と安座間から出ています。他の防衛隊員は舟をかっぱらって國頭方面に逃げるのもいましたが、戦後、平安座島にはサバニがたくさん集まっていたとききましたから、国頭までは行けなかったんでしょうね。私らは、とにかく、島で死のうとばかし考えていたから、舟に乗れない連中までも、泳いで獲っているのもいます。みんな法人(漁師)ですから潮の流れに乗れば泳いでもこれますよ。なかには、摩文仁あたりから島づたいに知念までたどりついて、そこから久高まで泳ぎついたのもいます。

このとき、アメリカの艦隊は中城湾をふさぐようにして並んでいて、掃海艇が島のまわりをウロウロしていましたから、夜間行動で舟をこぐといっても、稲は舟端につけないで、音を立てないように沿いできたものです。

島に帰ってきたのは六月はじめどろでしたが、心はもちろん無人の島で、家はほとんど焼けてしまい、島じゅう戦車のキャタピラで荒らされていました。家は艦砲や逃夷弾で燃えたのもありましたが後で火をつけたものでしょう。焼けのこった家も、柱など切りとられてみるかげもありませんでした。学校の東も西も敷きならされて野球場になっていました。戦車は西側の砂浜から上陸して、東側にまわって島を一周していました。兵舎はなかったが見張所みたいなものが一つありました。米軍はいちど上陸してから勝述の方に移動していったものと思います。その後は、勝述の方から、ときどき巡視艇が見まわりにくるぐらいでした。

島へ帰ってからは、私らは、めいめい山の中の自然洞短にかくれていました。私はウブンジ山にいましたが、海岸に出て魚を取った

り、流れついたものを拾って食べたりしました。アメリカの艦隊がすてたものが流れついて、カンヅメとかブドウ酒の将など流れてきてごちそうしましたよ。家も山とか男とかいましたが私らは食べませんでした。畑にはいもがありましたからそれを掘ってきて、家畜はかえって知念方面から川で取りにくる者がいたぐらいです。

この島から摩文仁はよく見えるから、戦争のなりゆきはよくわかりました。六月になると洲の艦から摩文仁に向ってさかんに艦砲を浴びせているのが見えました。あるとき、友軍の飛行機が飛んできて、中城湾の敵艦隊に体当りしていきましたが、これは船には当らず目の前の海に落ちてしまいましたよ。

私らは食梱には不自由しないで穴森しをしていましたが、七月上旬ごろ捕虜になりました。勝速から巡視艇がきて十、二十名ぐらいのアメリカ兵が上陸してきましたが、これに見つけられて、「出てとい、出てこい」と呼ばれて、城抗してもムダだと思ったからみんな捕虜になりました。私らは、はぬぎすてて、フィッシュメン(漁師)だと言いましたから、武の収容所につれていかれても民個人扱いでありましたよ。

昭和二十年の十一月三十日に収容所から解放されて、それから知念に送られ、やっと品へ帰れたのは二十一年の六月になってからで

した。

久高の犠牲者この戦争で島でもたくさんの作者がでましたよ。家族のなかで犠牲者がでなかったという家はほんのわずかです。防衛隊や義勇隊に取られて弾にあたって死んだのから、国頭へ疎開して栄塗失調やマラリアで死んだのが多いです。「私の記憶で、死んだ数は、男十三名、女二四名、子供が二七名、合計六四名になります。当時、島の人口は四六七名でしたから、一割以上が死んだことになります。

《資料》身上申告書

現住所知念村字久高一二一

安泉松雄(明治三六年十月二十日)復員時の所属部隊球部隊美田速隊井上大隊防衛中隊個有名

防衛隊陸軍歩兵役種

第一種国民兵入隊(応召年月日)昭和二十年三月八日傷病(受傷年月日)昭和二十年五月十八日同上場所

真和志村安里傷病名

右腕骨折、左眼負傷受傷病の状況と経過受傷後治療せしもその効なく左眼視力衰う。

行動

防衛召集令状を受け、昭和二十年三月八日知念村知念国民学校に集合、同日英田連隊井上大隊防衛中隊に入隊。井上大隊の本部付となる。壕堀り、植林運搬、雑役に従事。五月上旬ごろ運玉森の前線の戦ムに参加し、六日後安里方面の前線に移動して浦深方面の米軍と磁戦す。この間において負傷したため後方の野戦病院に送られ、五月下旬ごろ戦局不利のため術生兵概田兵長の指獄のもとに

後方の知念村台上の壊に移動し、六月中旬ごろ部隊は解散状態になり、知念村字久高において米軍に収容せられ、金武村の収容所に入所、同年十一月三十日、同収容所から解放され帰郷す。以上

-南洋移民

知念村久山糸数平七(四三)

:久高島は昔から男は海で働いて女が応を守っていたから、戦争中ち男たちはほとんど南洋に行っていました。昭和六年からパラオへ漁業移民がはじまって、久高の明だけで八〇名から一00名ぐらいいました。向うの海は良い施で、カツオ漁でずい分稼いで、局は仕送りで豊かになっていました。はじめは無独で行って、二、三年して家族を呼び寄せてしていましたが、戦争が近くなって女子供はまた島に引揚げさせました。

いよいよ敵が迫ってきて、パラオの輸送船は港の中で潜水艦にやられて全滅してしまいました。それで私らは現地召集を受けて兵隊になったわけですが、幼もない力もないというありさまで、竹槍をもって戦えといわれました。・パラオには久高の人で船主がいて、漁船だけで五〇ぐらいあり

ました。私は二五他船に四十名ぐらい乗って渡ったわけです。点は「目分の船でとって、南典水産という内地人の加工工場にすぐ売りつけました。-久高の人で軍のタンク(燃料タンク)の請負いをやっている人が