琉球新報『戦禍を掘る』神谷金栄さん証言 ~ 防衛隊員と少年兵

 

防衛隊員として米軍上陸の直前に召集された神谷金栄さんは、少年兵と共に捕虜となり、デテコイ役を務める。沖縄出身者の兵士の捕虜の多くがそうであったように、ハワイの捕虜収容所に移送された。その後、エンジェル島の捕虜収容所に送られ、再び屋嘉収容所に移送されている。日本軍の捕虜収容所での虐待問題がアメリカでも大きく問題となる一方で、アメリカの捕虜収容所は捕虜の保護をさだめたジュネーヴ条約にそった捕虜収容所運営を続けていた。

 

《AIによるカラー処理》Two Jap soldiers are captured in a cave, trying to dig their way out of other side of cave.They are dirty and muddy, and seem stunned by capture.

洞窟の反対側へ出ようと掘っていたところを捕らえられた二人の日本兵。二人とも泥まみれで、海兵隊員を前に呆然自失となっている。(1945年6月9日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

琉球新報『戦禍を掘る』 神谷金栄さん

「生きた心地せず」~ 顔半分写っているのが私

 「顔半分写っているのが私です」と指さした。神谷金栄さん(56)=宜野湾市愛知=は「これが沖縄戦だ」(大田昌秀編著)に掲載された自分と少年兵の写真を手に、当時を語り始めた。

 

 神谷さんは防衛隊員として昭和20年3月、東風平で山1207部隊に入隊した。主な任務は弾薬運搬。東風平の部隊から、首里に重砲弾を運び、帰りは野戦病院のあったチンバルモー(東風平)に負傷兵を運んだ。

 

 「昼は危ないので、夜、行動しますが、文字通り“爆弾”を抱えてますから、毎日大変でした」。弾を背にかつぎ、サトウキビ畑に身を隠しながら、首里に向かった。

 

 戦火が激しくなるにつれ、日本軍はじりじりと追い詰められ、各部隊は南下を始めた。神谷さんの部隊も、糸満の新垣まで後退した。そのころには兵もバラバラ。神谷さんは軍曹以下7人の班と行動をともにした。まず、壕を確保しなければならなかった。そこで、軍曹は「軍命」ということで、民間壕に入った。「中には民間人が15人ぐらいいました。軍命といわれ、住民はしぶしぶ出ていきました。朝だったと思います」

 

 空にはとんぼと呼ばれる米偵察機が飛んでいた。その日の夕方、神谷さんが水をくむため壕近くの井戸に行くと、そこにおじいさんと娘らしき2人が死んでいた。「顔に見覚えありました。壕にいた民間人に違いありません」

 

 その民間壕に神谷さんは入れてもらえなかった。「軍曹に『ほかの壕を探せ』と言われて、仕方ないので、石をつみ、しゃがんで1人身を隠せる程度の囲いをつくりました。その時には、写真の少年兵もいました」

 

 手製囲いの天井にはふとんを使った、という。こんな囲いで夕立のような砲弾が防げるはずはなかった。

 

 「それで、写真後方にあったひめゆりの塔近くの壕に入ったわけです。その壕には、民間人や負傷兵がたくさんいました」。入ったその日に米軍が“馬乗り”、3日後にはガス弾が投げこまれた。「もうだめだと思いました。どうせ死ぬなら、外でいい空気でもすってから、と思い、天井にあいていた小さな穴から、抜け出しました」。穴から顔を出すと、外には銃口を向けた米兵が10人ほど立っていた。少年兵も神谷さんに続いて出てきたため、同じく銃口を向けられた。写真はその時、写されたもの。写真に写る2人の服が、所々白いのはガス弾のため、だと言う。

 

 「生きた心地がしなかった。写真を撮られたのも、全然覚えていない」

 

(「戦火を掘る」取材班)1984年1月13日掲載

 

壕に投降呼び掛け ~ 気楽なハワイの捕虜生活

 少年兵はその場で米兵に連れていかれた。「名前さえも聞かなかった。私より二つほど下と思った」

 

 神谷さんだけ銃口の前に残された。数時間が過ぎた後、やってきた2世に「壕の中にはまだ人がいますか。この壕はやがて米軍が爆破します。中にいる人に早く壕から出るよう、呼び掛けてもらえぬか」と頼まれた。神谷さんは中に入り、その旨を伝えた。「反応は半信半疑の様子だった。でも、私でさえ、そう思っていたから仕方なかった。それでも2、30人の民間人は投降に応じました」。が、民間人を連れ、外に出ると、待っていたのは、米兵の銃口。「それを見て、彼らは壕の中へ逆戻り。私は2世に、米兵は隠れてもらうようにお願いして、再度、説得しました」。それで、やっと投降した、という。

 

 壕の中には、まだ、日本兵が残っていた。もう1度入ったが、投降を聞くはずもなかった。「きさまはスパイだ」と刀を抜いた。「壕が狭かったので、刀を振り回せなかった。一目散で逃げました」

 

 投降の呼び掛けは、2世とともに4日間続いた。いくつもの壕を回った。何人もの民間人がそれに応じ、収容所に運ばれた。「でも、後で分かったんですが、その近くで私の両親や兄弟、いとこらが亡くなっていたんです。妙な因果ですね」

 

 その後、神谷さんは金武の屋嘉収容所に連れていかれたが、そこで数日すごしただけで、やがてハワイに移された。「ずいぶん長い船での移動だった」。ハワイでの捕虜生活は沖縄よりはるかに恵まれていた。「3度の食事におかわりが自由。それだけで満足しました。沖縄の人もたくさんいました」

 

 2カ月ほど過ごして後、サンフランシスコを経て、「エンジリ島」(エンジェル島)の収容所に移った。そこは元々、米国の刑務所があった島という。神谷さんが入所した所は、イタリア人の収容所跡だったらしい。

 

 「そこでも気楽な生活だった。労務は一切なし。何もせず、食事だけ食べる毎日でした。パイプを作りましたが、ひまつぶし程度。沖縄での生活から比べると天国でした。沖縄の人も何人かいて、話すことはいつも古里のことだけ。それに、肉親の身が心配で、毎日沖縄のことを考えていました」

 

 半年後、屋嘉収容所に戻り、そこで復員した。

 

 「ほかにも、いろんなことがありました。手足をもがれた人も見ました。戦争体験者はだれでもそうだと思いますが、戦争の話はしたくないもの。しかし、後世に伝えなくてはならないものでもあります。二度と同じ体験を子や孫に味わせないために」

 

 現在、米国保管の沖縄戦フィルムを買い取る運動が行われている。その「一フィート運動」に神谷さんは貯金から15万円を寄付した。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年1月17日掲載

 

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