沖縄県史第10巻の渡嘉敷編を読んだ最初の頃、驚いたのが、住民虐殺や朝鮮人軍夫虐殺をした当人の証言がしっかりと記録されている、という事だった。しかも、悪びれた罪悪感を微塵も感じさせず、実名で、処刑されても当然という持論を滔滔と述べている。
証言には、殺害された女性が知念氏の顔見知りであり、伊江島住民がいた収容所に決死隊として潜り込んだ知念氏をかくまい、食事の世話をしてくれたことも語られている。『県史』の記録者に語った時は戦後二十年以上経っていると思うが、そういう女性を殺害したことへの罪の意識や後ろめたさは証言から感じられない。むしろ後半に語られている自己肯定の論理と心情は、今もまったく同じだろうというのが傍聴しての私の印象だ。
沖縄戦における日本軍の住民虐殺について書かれた文献は数多い。しかし、殺害した当事者が証言した例は限られている。ましてや、殺害の様子を元日本兵の肉声で聞く機会は滅多にないだろう。そういう意味では貴重な体験だったのだが、同時にそれは苦々しい体験でもあった。殺害の様子を淡々と語る知念氏の後ろ姿を見ながら肌寒さを覚えた。
渡嘉敷島の赤松隊長の下で副隊長として従軍していた知念朝睦さんが、ご逝去されたことです。知念さんは私の最初の県議選挙の際にも、80歳台というご高齢にも関わらず、ご支援を戴き、様々なことを御指南戴いたご縁もありました。
米軍は、集団自決のあった場所を慰霊碑ごと造成し、渡嘉敷にホークミサイルサイトを建設した。その関連で知念氏は何度か渡嘉敷に来島する。対米軍との戦争で住民を虐殺した本人が、今度は米軍基地建設のために島を使う。
沖縄戦は終わっていない。なぜなら、戦争中相手国と戦うのではなく、自国の国民を処刑した罪の贖罪ができていないからである。戦後、軍需産業のゼネコンに就職した知念元副官は、米軍ミサイル基地建設関連の仕事で、渡嘉敷島にたびたび来た。そこで、島民は、あなたは知念さんではないかと尋ねたが、本人は「違います」と答えたそうである。