シュガーローフ・ヒルの眺望。撮影時、第29海兵連隊は、この丘を攻撃していた。丘の右側に近づく戦車が写っている。(1945年 5月18日)
Sleep no more,
Macbeth does murder sleep.
- もはや眠りはない。マクベスは眠りを殺したのだ -
William Shakespeare, Macbeth, Act 2 Scene 2.
イラク派兵の自衛官自殺率は一般男性のそれより低い !?
戦闘地域に自衛隊員を送りだし、自衛隊の日報をなかったことにする国家。
70年前とほとんど成長していない日本政府の権力体質。
ない、といわれていた軍の日報が次々見つかる問題。
- 自衛隊「ない」はずの日報が次々見つかる問題、何がダメなの? 3つのポイント | ハフポスト NEWS
- すべてウソなんじゃないか──自衛隊日報の調査報道ノンフィクションが暴いた!底なし“隠蔽体質” - 政治・国際 - ニュース|週プレNEWS
- 防衛省が日報を隠蔽してまで秘密にしておきたい「不都合な真実」(半田 滋) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
- 「イラク『日報』問題 深まる疑惑」(時論公論) NHK解説委員室
- 【全文】自衛隊は南スーダンで「戦闘」していたのか。黒塗りの日報、公開します
「米兵と一緒にいたら、殺されてしまう」
これは'05年、札幌市内の山林で、車のなかに練炭を持ちこみ自殺した陸自3佐・A氏が死の前に漏らした言葉だ。
どう考えても普通じゃないなんと自殺者54人! 自衛隊の「異常な仕事」(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
イラク派兵では在職中の自殺者だけで、56人。日報を、なかったこと、あるいは黒塗りにする以外に、政府はこの数字にどう向きあっているのだろうか。
政府は5日の閣議で、2003~14年度の自衛隊員の自殺者数に関する答弁書を決定した。それによると、05、06両年度の自殺者はそれぞれ101人、04年度は100人だった。13年度は82人、14年度は69人となって低下傾向にあるものの、平均的な日本人に比べ自衛隊員の自殺が多い実態が明らかになった。阿部知子氏(民主)の質問主意書に答えた。
自殺者が100人以上の04~06年度は、イラク復興支援特措法に基づき陸上自衛隊がイラク南部に、テロ対策特措法に基づき海上自衛隊がインド洋に派遣されていた時期と重なる。
答弁書が同時に明らかにした10万人当たりの自衛官の自殺者数は、04年度が39.3人、05、06両年度が38.6人。最も低かった14年度の29.1人を除き30人超となり、日本人の成人の平均23.7人(14年)を上回った。
例えば、悪夢のシュガーローフでは、日本軍の「優れた」戦略で米軍を死地に追いやり善戦したなどとと語る者たちがいるが、実際には違う。第32軍は首里の司令部壕の生きた砦として次々と見境なく非力な部隊を送り込んだ。逃げ道を奪われた若者や住民は、手榴弾や急造爆弾を持たされ、異常な白兵戦を強いられた*1。
日本軍は、捕虜の可能性になる者たちを「処分」しながら撤退した。日本の「戦陣訓」は、ジュネーヴ条約で保護され米軍の治療を受ける権利のある兵士や住民が生きのびることを許さなかった。建設大隊の兵士からミノカサ部隊とよばれる地元の防衛隊員、少年兵から少女まで、手榴弾を持ち斬り込み特攻の、死ぬしかない戦争を強いられた。
そして、青酸カリはその後の時代の変化の中で“無残”を表す物質になっていく。日中全面戦争から太平洋戦争に拡大した1941年の1月、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」で知られる「戦陣訓」が制定される。「降伏して敵の捕虜になるよりは、むしろ死を選べ」と兵士に命じる内容で、その精神は国民にも求められていた。
戦時中、民間人に配られた「自決用青酸カリ」致死量の325倍!? 秀才のやさ男が毒殺の「悪魔」に変貌した理由 | 文春オンライン
当時16歳で護郷隊に動員された瑞慶山さんは、後年、こう語っている。戦争はまったく終わっていなかったのだ。
戦争終わって2~3年ぐらいだったですかね。戦のことみんな思い起こしてしまってですね。戦争恐怖症みたいな精神異常者になって、独房にぶち込まれました、あんまり暴れすぎるちゅうことで。戦争ですから暴れるわけですよ。アメリカ兵に追われたとか、どうやるとか、みんな戦争のしぐさしますからね。そうすると、みんな相当悪い精神病になっているから。
かつて「護郷隊」とよばれた少年兵がいた - 「なぜ死ななかったのか」と日本兵は言い放った - Battle of Okinawa
沖縄戦の戦闘疲労症 (battle fatigue)
米軍の対応 - 第82野戦病院
一方で米軍は、第一次世界大戦の経験を踏まえて戦場に専門の精神科医を送り込み、シュガーローフの死闘を展開しながらも、戦闘ストレス反応 CRS あるいは battle fatigue (戦闘疲労症) といわれる状況に追い込まれる兵士たちを、次々と後方の野戦病院に送り対応していた。
海兵隊員の野戦病院への転送が決まると、今度は病院が患者で溢れかえる現場が出てきた。すなわち、「シュガーローフの攻撃、そしてそのから確保に至る十日間の戦闘で、第6海兵師団は、実に2662人の戦死傷者をだし、1289人の戦闘疲労症を出した。(中略) 非戦闘病者はおびただしい数になった。その多くが神経精神病、つまり『戦闘疲労症』であった。この種の患者は、海兵2個師団 ( 第1、第6)で、6315人、陸軍4個師団(第7、第27、第77、第96)で7762人を数えた」という。
《『沖縄戦のトラウマ ~ 心に突き刺す棘』保坂廣志、紫峰出版 (2014) 沖縄戦と米兵の戦闘神経症 (pp. 242-243) 》
米軍がシュガーローフの10日間だけで1289人の戦闘疲労症すさまじい数である。米軍は野戦病院に4~5人の精神科医と精神科を設け、組織的なチームをもって対応にあたっていた。
《参考論文》
2) 精神科医療組織の詳細
第31野戦病院と第69野戦病院には、移動精神科医チームから1人を派遣する。第36野戦病院は、第77師団に分属し、精神科治療を行う。各精神科医療施設には、6人の専門的知識をもつ衛生兵と最小限50床を持つ病棟を完備すること。しかし、この計画は、沖縄戦での多数の精神病患者(psychiatric patient)の発生により、不十分なものだった。その当時、各病院には、200人以上の患者が収容されていたからである。病院内には、レクリエーション施設が設けられ、赤十字職員が配置され、集団療法が行われた。また催眠剤使用よりは、精神療法、集団療法が準備されていた。ここで使用された諸技術については、本報告書の関連箇所で述べることとする。さて、沖縄戦での大量の精神病患者の発生により、精神的患者だけを収容する単独の野戦病院の設置が勧告された。第24師団の軍医であるLawrence A Potter大佐がそれを提案し、第82野戦病院の設立が決まった。
Title: 沖縄戦参戦米兵と戦争神経症 - Moses R. Kaufman Report及び Oscar B. Markey Report の抄訳を通して (保坂, 廣志)
沖縄県公文書館にある米軍の記録写真のなかにも戦闘疲労症に対応する兵士と医師らの姿が記録されている。
Battle fatigue patients at the 82nd Field Hospital. 戦場神経症の患者たち。第82野戦病院にて撮影日: 1945年
兵士は単に手を伸ばしているのではない。神経がひきつり、痙攣し、コップを持つことも難しくなる。痙攣し歩くこともできない。目や表情が制御できなくなる。戦場におくられた精神科医たちは克明に記録し、研究を続けた。米軍は兵士たちに、催眠療法やグループカウンセリングなどの治療を行っていた。
さらに詳しくはこちらを
しかし、日本軍は戦争神経症に対してどのように対応してきたのか。
皇軍には、欧米で問題になっているようなシェルショックというものは「皆無」である、と「学者」が「たのもしい発表」をしている。精神力があれば、シェルショックなど問題にならないといわんばかりだ。
しかし現実はちがった。
先の大戦中、戦場でのストレスなどが原因で精神疾患を発症した兵士たちがいました。しかし、その存在は「皇軍の恥」とされ、ひた隠しにされてきました。
❶ 隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~ 前編
日中戦争から太平洋戦争の時代、精神障害兵士が送られた国府台陸軍病院。ひそかに保管された8002人の「病床日誌(カルテ)」が研究者よって分析され、日本兵の戦時トラウマの全貌が明らかになった。戦場の衝撃に加え、精神主義による制裁や住民への加害の罪悪感が発病につながっていたことが判明した。番組では発病地の多い中国での治安戦の実態を取材。戦後も社会復帰を阻まれた兵士と、その家族の姿をカルテをもとに追跡する
❷ 隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~ 後編
そして・・・
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
- 衆議院議員阿部知子君提出自衛隊員の自殺、殉職等に関する質問に対する答弁書
- 「皇軍には戦争神経症がいない」...大ウソでした - ライブドアニュース
- 岡田靖雄「軍医早尾乕雄の戦場報告」5 年戦争と日本の医学医療年戦争