1945年5月12日 今帰仁村の住民虐殺、日本軍は住民の「殺害リスト」を持ち歩いていた

 

日本軍の残存兵は、沖縄人のなかから「スパイ」を選び出して殺すことを「整理」すると呼んだ。

 

1945年5月12日、警防団長 謝花喜睦 の虐殺

 

1945年5月12日、今帰仁村で、「あの人ぐらい友軍 (日本軍) に協力した人はいない」といわれていた謝花喜睦さんが惨殺された。

 

海軍基地のあった今帰仁で続いていた一連のスパイ狩り、今帰仁「整理」の犠牲者の二人目だった。

 

『本部半島の北端を占める今帰仁村は、4月1日、米軍上陸と同時に、全村民は、裏手の山の壕に避難した。村役場は、付近の壕に連絡員を置き、各避難所と連絡した。…本部半島地区の、戦闘らしい戦闘は、…4月20日までに終わりを告げた。米軍は、山中の住民に「早く山を降りて、生産に従事せよ」と命じた。

 

5月2日、ついに米軍は、各部落の区長達を玉城区の民家に集め、村の生産と復旧の計画を建てさせ、一日もそれを急ぐようにと命じた。その頃、運天港にいた海軍特殊潜航艇隊の渡辺大尉は、数人の部下と共に、夜になると米軍の目を逃れて、部落へやってきた。山中に匿れている兵隊は、大抵、住民の着物をつけ、藁の帯をしめていた。渡辺は陸戦隊の黒い庇帽を被り、日本刀を吊っていた。彼は村民に、喰物をせびって歩いていた。そして、「米軍に通じる奴は、国賊だ。生かしてはおけぬ」と脅し文句を吐いては、山へ引き上げていった。

 

5月12日の夜だった。警防団長をしていた謝花喜睦の家族は、庭先で、謝花を呼ぶ大尉の部下らしい声をきいた。謝花は誘われるままに連行されていったが、遂に帰らなかった。翌朝彼は、畑の中に死体となって、転がっていた。死体は、日本刀で斬られた痕があった。次いで、村の通訳を務めていた平良幸吉が、同様に、何者かのために斬殺された。戦闘が終わり、ようやく、ホッとした村民にとって山中の日本兵が、今度は、新しい恐怖の的となりはじめた。渡辺は村民の殺害リストを作って持っていた。彼の姿は、米軍と日本軍兵隊との間に板挾みとなって苦しむ住民を尻目に、毎夜のように住民地区へ現れた。

 

終戦も間近い7月16日、同村玉城区出身与那嶺静行と彼の妻と、弟静正が呼び出されて斬殺された。つづいて長田盛徳、玉城長盛の二人が、依然として彼の殺気を帯びた日本刀につけ狙われたが、間もなく米軍の手によって、村民が羽地、久志に収容されたために、二人はやっと難を逃れることができた。渡辺の殺害リストには、5月2日、米軍の命令で開かれた区長会議に連なった人々の名前が並んでいた。』(321-322頁)

 《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 321-322頁より》

 

「あの人ぐらい友軍 (日本軍) に協力した人はいない」

 

戦後まものなくの沖縄戦証言では、人々は日本軍のことを「友軍」と語る。日本軍は「友軍」だと、徹底して刷りこまれたので、身内や近所がスパイとして日本軍に殺されても、自分たちが殺されかねない状況に追い込まれても、それでも日本軍の名称は「友軍」だった。

 

日本軍を「友軍」として呼ぶよう徹底されたが、だからこそ、よけいに、「友軍」を恐れ、「友軍」に追い詰められ、「友軍」に殺されていく沖縄戦の、転倒した皮肉な状況があぶりだされる。

 

北部の宇部部隊はもちろん弱小部隊なので4月17日には完全に敗走し、亜熱帯の山々に潜伏した。食料はない。既に米軍の占領地となった地域で、日本刀を振り回しながら、夜ごとに出没しては食料を求め、スパイの「整理」をはじめた。

 

それで住民は昼間は米軍に占領されていても、夜は「友軍に」狙われ、心底「友軍」の蛮行におびえる、という状態が続くのである。

 

殺害リストを持ち歩く「友軍」

 

沖縄島中北部や離島地域の戦争証言をまとめた『沖縄県史 代10巻』(沖縄県教育委員会編・1974年)には、このような証言が記録されている。

 

宮里 むこうから帰ってきたらですね、(米軍が) 村の有志全部集まれということで、玉城の公民館にですね。百人以上集まったかね。その席上です、アメリカの将校がきて、長田盛徳今帰仁村長に命ずと言ってね、村長に命じたわけ。それからね、友軍にねらわれてね。友軍は山に隠れてますからね。盛徳さんを殺すといってね。長田さんは、兼次校に米軍がいたので、向こうに行っておった。

 与那嶺静光という人、あの人が毎日弁当もって越地まわりしてね、兼次校に長田盛徳さんの弁当もって毎日ー。その人また殺されたですね。長田盛徳さんは、友軍が引き返してくるうちに、裏から逃げて危機一髪で助かったという。

https://www8.cao.go.jp/okinawa/okinawasen/testimony/data/shogen02_05/shogen02_05_2.pdf

 

この5月2日の集会の名簿が、日本軍の殺害リストになったと思われる

 

糸数 そのときはまだ戦争中ですからね、はやかったですよ。

宮里 そのときは久志はまだ全員帰ってこないよ、あのとき。村長選挙もね。久志も一緒に帰ってきてから、村長選挙にしようといっとったんだが、それ待たんでね、すぐ長田さん、村長に選ばれたでしょう。

 

謝花喜睦さんは、あの人ぐらい日本軍 (友軍) に協力した人もいない、と地元の人にもいわれていた。

 

宮里 謝花喜睦さんという渡喜仁の人ですね、殺された。あの人は兵事主任ですね、村の。あの人ぐらい友軍に協力した人はいないんだろうとー。


糸数 あれ、軍関係もたしかしとったから、自分の野菜を持ってきてくれる、バナナを持ってきてくれる、アヒルを殺してくれる、(日本) 軍の将校連中に相当な資材を出してやってるんですがね。最後 (日本兵に) 殺されたですよ。

宮里 長田盛徳さんの隣りであり、友人でですね、与那嶺静光さんが自分のうちで殺されたんです。

 アメリカの将校が村長を命ずるでしょう。やらなければやられるから。当時友軍は全部山ですね。

島袋 あの時集まった、村長命じられた時集まった人、百人ぐらいですね。全部友軍の手帳に載ったそうです。

糸数 も、マブヤマ (宇土部隊) も弱かったので全滅してるんだが、中南部はちょうど激戦中ですからね。そのときにここは後方陣地になっておるときにー。

島袋 ここは休養地になっておったんです。あっちで戦闘して疲れたらこっちで休むという。

 

日本軍のために開設された慰安所が、こんどは占領軍 (米軍) のために性を提供することになる。それをスパイ活動だとして狙う日本軍。

 

糸数 軍と相談して、マブヤマの宇土部隊は弱くてすぐ降参しましたからね、わしらは最後まで山に残っておったんですが。今帰仁「整理」するときですね、そういった連中、戦闘中にもかかわらず、はやアメリカの軍と一緒なってからに、村をつくるとかなんとかいうもんだから、それで全部「整理」するとかいってからに、名簿を持って歩きよったんですよね。それをわたしに見せて、誰々を殺す、みんな殺すといって、手帳にねー。

 あんた方、誤解ですよ。これはね、宮里政安さんは戦前から料亭 (※サカナヤ) をもって、料亭の女をたくさんかかえておるので、そして一般の婦女子が米軍に強姦されて、たいへんなことになるので、それでその女を提供して慰安所をつくって、婦女子を護ろうという精神からでたものであってですね、決してスパイ活動ではない。こんなりっぱな、住民を守ろうとする考え方に対してね、あんた方もうこれ整理するのか、大変ですよといったら、事実か、そうか、スパイでないかっていってね、追及、わしにさんざんしたんですよ。絶対もう。あんまり早かったので。みんなこっちで村民の若いの徴用して、カンパンなんかに行かして仕事させる計画なんかしておったもんだから、みなスパイだといって、今帰仁「整理」するといって、みな犠牲者になっとるわけですよ。

 

島袋 米軍の憲兵隊、今泊の馬場におったんですよ。孫一さんのうちのあたりに上里という店があった。そこが憲兵隊長の事務所だった。

 

糸数 長田盛徳さんもわたしも山から探して歩きよったです。あれが村長なるから、ぼくも役所人だから、役所にでてからどうするかって、ぼく山から探して歩きよったー。今頃なんかでたら、もう友軍は今帰仁「整理する」という計画たててるのに、もうすぐやられると思って、わたし逃げまわって、あれらに会わなかったですよ。あのときなんか、あれらと行動をともにしたらね、すぐやられておるー いくらわたしが山で釈明してもね、きかなかったですね。

 

宮里 気づかなかったらやられていた。こわかったですね。長盛(ママ)さんのときも危機一髪だった。喜睦さんとも知り合いの人ですよ。アクセントで日本兵とわかってすぐ逃げた。

 

糸数 役所に電話ひとつしかないでですね、役所の職員がスパイをその電話でしはせんかといって、拳銃さげて電話口のところにね、ひとりは警戒しどおしですよ、将校が。役所の職員を疑って。そのとき電話は、村には郵便局と役所しかなかったから。湧川に上陸する寸前ですよ。

 

宮里 友軍はこわくて。上陸してからアメリカはね、洗濯物もってくるんですよ。洗濯しなさいといって。これもう、洗濯するの、友軍がみたらね。すぐやられますからね。これもう一番こわかったですよ。

 

糸数 友軍は、敗残兵はずっといたんですよ。

 

島袋 宇土部隊はね、マブヤマにおったわけですから、あの八重岳の下。一、二回ぐらい戦闘したかしらんが、これはもうあれだから、こちらに転戦したわけです。羽地多野に、大宜味、国頭の山に。そしたもんだからアメリカ軍ー。

 

宮里 宇土部隊、海軍ともう最後は宇土部隊と一緒になったわけです。陸軍と海軍とみな一緒になってですね、こっち宇土部隊が全滅したといってー。陸軍はマブヤマ、海軍は運天。白石部隊は潜行艇。

 

糸数 井上部隊はこっちから離れて、泊(那覇)でですね、白兵戦で全滅してるんです。

 

食料収奪と敵前敗走の口実が「スパイ」だった

 

彼らは夜な夜な日本刀をもって現れては、食料を求め、スパイではないかと脅し歩いた。

 

スパイ疑惑、は日本軍の食料徴収のための「口実」でもあったが、

 

日本軍に少ない食糧を供出するために奔走した村の役員すらもスパイリストに書き込まれていた。

 

なぜ、日本軍は自分たちの敗走の原因を「沖縄人スパイ」のせいだ、と思い込むようになったのだろうか。

 

米軍は1944年9月から1945年5月にかけて撮影した空中写真を詳細に解析し、アイスバーグ作戦を立てた。運天港の日本海軍基地はとっくに位置特定されていた。

 

アイスバーグ作戦(沖縄戦)戦術用地図 – 沖縄県公文書館

米軍は沖縄進攻作戦のために1944年9月から1945年5月にかけて撮影した空中写真をもとにこの2万5千分の1の戦術用地図を作成して配布した。1000ヤード四方の攻撃目標明示方眼がオーバープリントされている。地図の裏面には地図と照応する空中写真が印刷されている。

 

旧日本海軍は、今帰仁村の運天港に特殊潜航艇基地を置いていたが、米軍の沖縄島上陸以前の3月28日に米軍の空爆をうけ壊滅していた。

 

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《AIによるカラー処理》

Direct hit on submarine pen at Unten Ko, Ryukyus, by torpedo bomber of VT-83 from the USS ESSEX (CV 9) 28 March 1945.
【和訳】 米軍艦エセックス(CV-9)艦載の雷撃機(VT-83所属)の攻撃が運天港にある潜水艦待避所に命中。
撮影地: 運天港 1945年 3月28日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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 《AI によるカラー処理》

Direct hit on submarine pen at Unten Ko, Ryukyus, by torpedo bomber of VT-83 from the USS ESSEX (CV 9) 28 March 1945.
【和訳】 米軍艦エセックス(CV-9)艦載の雷撃機(VT-83所属)の攻撃が運天港にある潜水艦待避所に命中。
撮影地: 運天港 1945年 3月28日
写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

確実な、寸分たがわぬ攻撃だっだった。

ところが日本軍は沖縄の住民のなかにスパイがいて、軍事機密を米軍に漏らしているに違いないと思い込む。

 

日本軍の通信システムと通信所の場所が細かく特定され、完全に傍受されているなどと考えることすら思考から除外していたのだ。

 

謝花喜睦さんの虐殺

今帰仁村の警防団長をしていた謝花喜睦は、家族と共に米軍に収容されていたところ、二十年五月中旬の夜、海軍部隊の兵隊に呼び出され、連れて行かれたが、その翌日、畑の中に死体となって発見された。運天港に配置されていた日本の海軍部隊は、米軍上陸後は山奥に潜伏していたが、住民が米軍に収容されたあとは、毎晩住民の集落に潜入して食糧を奪っていた。特殊潜航艇隊の渡辺大は、部下と共に集落に潜入しては食糧を略奪して回りながら「米軍と通じる者は殺してやる」とおどしていたので、謝花喜睦を斬ったのは、渡辺大尉の部下ではないかと思うと、住民は話している。

山川泰邦著『秘録沖縄戦記』おきなわ文庫

 

今帰仁を生まれ里にもつ芥川賞作家の目取真俊氏は、それが沖縄人差別に基ずいているという。

 

 沖縄戦の際、運天港には海軍の魚雷艇や特殊潜行艇の基地が置かれた。そのために運天港一帯は米軍の激しい空襲にあっている。海軍は壕を掘って魚雷艇を隠し、木々で偽装していたのだが、米軍の攻撃は正確だった。日本軍は沖縄の住民にスパイがいて、米軍に壕の位置を教えたのだと思いこむ。


 沖縄が近代になって日本に併合されたことや、海外移民が多かったこともあって、日本軍は当初から沖縄の住民に不信感を抱き、厳重な防諜体制を敷いていた。米軍の攻撃により壊滅的な打撃を受け、陸戦へ移行した海軍部隊はその不信感を爆発させ、スパイ容疑で住民虐殺を行っている。


 しかし、スパイというのは日本軍の差別意識と偏見に基づく濡れ衣でしかなかった。米軍は沖縄全土の航空写真撮影をくり返し行い、日本軍の軍事拠点の探索を徹底していた。のみならず、沖縄関係の資料を集め、分析し、ハワイや米国本土に移民していた沖縄人から情報収集も行っている。資料の中には、ペリーが琉球来航時に各地で行った測量調査や港の調査の記録、作成した地図なども含まれていた。そういう事前の調査、情報分析が米軍の攻撃の正確さを生み出していたのだ。日米両軍の差はたんに物量だけにあったのではない。


 ユージン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』(伊藤真/曽田和子訳 講談社学術文庫)を読むと、金武湾(チムワン)、東恩納(ヒザオンナ)沢岻(ダケシ)、与座岳(ユザダケ)、八重瀬岳(ヤエジュダケ)というように、沖縄の地名に当時の米兵の読みが記されている。それを見ると、米兵たちが沖縄の元々の呼び方で地名を呼んでいたのが分かる。ハワイや米国本土にいた沖縄人から情報収集したことの表れであろう。

 

 今帰仁村で日本軍に虐殺された住民のひとりは、私の中学の同級生の祖父である。別のひとりは小学校の先生の兄である。私の父や祖父も日本軍に命を狙われた体験を持ち、日本軍の住民虐殺は私にとって身近な過去の出来事だった。為朝伝説や薩摩侵攻の話と同じように、それは子どもの頃に祖父母や両親から聞かされた話のひとつであり、ヤンバルとよばれる沖縄島北部の村にやってきたヤマトゥの武人・軍人たちの歴史でもあった。

地名と沖縄戦 - 海鳴りの島から

 

今帰仁に海軍の基地があり、

米軍はそれを標的にして運天港を的確に攻撃した。

 

日本軍の惨敗兵は、自分たちの敗北の原因を、地元住民、沖縄人が密告したせいだ、などと狂信的に信じるようになった。

 

沖縄を守る「沖縄守備軍」といいながらも、日本軍にとって住民は食料を奪う対象か、目障りな邪魔者でしかなかった。

 

日本の軍と基地は、

沖縄の住民を守るためにあったのではなかった。

 

74年前もそうだったし

今もそうである。