万座毛とチャコ・クリフの距離 ~ サミュエル・サンドバル ~ 沖縄戦と海兵隊ナバホ・コードトーカーズ

 

沖縄戦に従軍したナバホ・コードトーカーの一人、サミュエル・サンドバル (Samuel Sandoval) が、2022年7月31日に亡くなった。98歳だった。

 

コードトーカーとは

寄宿舎学校制度と同化政策

同化政策は支配と戦争の道具である。戦争はつねに周縁に追いやった者たちを砦として利用する。彼らから言葉や誇りや名前、選ぶ権利すら奪っておいて、戦場では前線に送り出す。

 

学生時代、ニューメキシコ州で世話になったコロラド・アパッチのおじいさんは、リアルに寄宿舎学校制度というアメリカの先住民に対する同化政策と組織的自動虐待とを経験してきた世代だった。

学校でアパッチの言語を喋ると、いつもベルトや物差しで叩かれたり、腕をつねられたりした。うがいをしろとか、口を石鹸で洗ってこいとか。しゃべるなと。英語でしゃべれとあれら学校のシスターたちは。

 

近年、米国やカナダの先住民寄宿舎学校の跡地から夥しい数の子どもたちの遺骨が発見されニュースとなっていたことを記憶されている方もいるだろう。

… (先住民) 寄宿学校は子どもたちを強制的に移住させることで、先住民の文化的同化を進め、領地を取り上げる目的で運営された。1819年から1969年までの150年間で、連邦政府が資金面などで支援をした寄宿学校は計37州で408校あり、本土のほかにもアラスカ州で21校、ハワイ州で7校あった。約半数は、宗教団体も運営に携わっていたという。これらの学校では同化政策を進めるため、子どもを英語名に改名したり、先住民の言語使用を禁じたり、軍事的な訓練を行わせたりした。ルールに従わない場合は独房への収容や体罰食事を与えないなどの罰を使ったという。

米先住民の寄宿学校で「500人超死亡」 英語名に改名、体罰も:朝日新聞デジタル

 

子どもたちは言葉を奪われ、髪を切られ、白人のようになることを叩きこまれた。

【訳】先住民の子供たちは家族や家から引き離され、寄宿学校に送られた。

Finding Information on Native American Boarding Schools Difficult Task

 

長年にわたるアメリカの残虐な同化政策は、先住民の言語を「絶滅危機言語」に追い込んだ。

 

リザベーションから戦地へ

ところが戦争になると、政府は絶滅危機言語*1 にまで追い込んだその言葉を、こんどは戦争のため、お国のため、と利用する。軍が辺境のリザベーション (先住民居留地) までやってきて、ナバホ語が使える青年をかき集め、彼らを「コードトーカー」として訓練し前線に送りこむ。差別的な州法で選挙権もないというのに。

 

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【意訳】パールハーバー奇襲攻撃のあと、ナバホの居留地中に新兵募集センターが急いで設置され、米軍は多くのナバホの青年を募集した。1926年の Indian Citizenship Act で先住民はやっと「アメリカの市民」になったばかりであるが、選挙が州で管理されていたので、ほとんどの先住民にはまだ選挙権もなかった

Navajo Code Talkers Museum, NM.

 

先住民の言語を米軍の暗号として使うことによって、暗号解読はトリプルで難しくなる。第一に、先住民の絶滅危惧言語を知る人物はほとんどいない。第二に、文字を使用しない言語であるため記録されることが難しい。第三、例えば「戦車」など軍事用語を先住民の「亀」という言葉で示すなど一定の暗号表を構築し、軍事的に利用する、このため、暗号解読にたどり着くのは至難の業である。

 

【訳】ナバホとホピは、日本との戦争で太平洋戦線に派遣された。コマンチはヨーロッパ戦線でドイツ軍と戦い、メスワキ北アフリカでドイツ軍と戦った。他の部族のコードトーカーは、ヨーロッパ、太平洋、北アフリカなどのさまざまな場所で戦った。

Chapter 4: Code Talking - Native Words, Native Warriors - National Museum of the American Indian

 

先住民の言葉は文字を使わないオーラル言語である。

【訳】コードトーカーは、海兵隊が太平洋で行ったすべての攻撃に参加し、日本軍の動き、戦場での戦術、および戦争の最終的な結果に重要なその他の通信において何千ものメッセージを正確に送信した。当時、文字をもたないナバホ語に由来する米軍のコードは、日本軍の暗号研究者を混乱させ、米国が戦争に勝利するのに貢献したと考えられている。

Navajo Code Talker Samuel Sandoval dies; 3 left from group | Kingman Daily Miner | Kingman, AZ

 

先住民は暗号機そのもので、米軍は暗号システムが敵に漏洩しないよう、コードトーカーにはボディーガードをつけた。それはコードトーカーの命を守るためではなく、暗号を守るためであり、捕虜になるときには彼らを殺すという密命も帯びていた。

【訳】暗号システムは見事に機能した。硫黄島の戦いの最初の48時間だけで、ナバホは800通の通信をエラーなしで送信および解読した。太平洋戦線における先住民の海兵隊の存在は、彼らが明らかに (日本人と同じ) アジア人に見え、(言葉もそのように) 聞こえたため、いくつかトラブルを引き起こした。コードトーカーは、仲間の兵士に日本兵と間違われることが一度ならずあった。

Code Talkers' Story Pops Up Everywhere - The New York Times

 

沖縄戦のコードトーカーズ

米軍の秘密兵器として

沖縄戦でも多くのコードトーカーが活躍したが、階級も低く、彼らの存在自体が米軍の暗号という最重要機密事項であるため、沖縄戦コードトーカーの写真記録にかんしていえば現時点で私が知りえているだけで4枚しかない。

 

その一枚がこれである。

米国海兵隊: Private First Class Samuel Sandoval, of full blooded Navajo indian extraction, relaxes under the Tori Gate in a former Jap park and surveys the scenic beauties of Okinawa.
【和訳】 かつて公園だったところの鳥居の下にたたずむサンドバル一等兵。彼は生粋のナバホインディアン     1945年 4月14日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

サミュエル・サンドバルについて

先住民コードトーカーとして

コードトーカーはそれ自身がアメリカの最重要秘密兵器であったため、米軍記録写真は極めて少なく、また上記の写真にもただ単に、サミュエル・サンドバルについて、「生粋のナバホ」としか書かれていない。

 

コードトーカーを戦後も使用する可能性があるとして、先住民兵士には退役後も厳しく語ることを禁じられ、また軍内でも正当に評価されることがなかった。コードトーカーについての機密が解除されたのは1968年である。

 

2001年、ブッシュ大統領はは、暗号を作成したナバホのオリジナル・コードトーカー29人に議会名誉黄金勲章を、また従軍したその他のナバホ族コードトーカーたちに議会名誉銀勲章を贈った*2

 

【和訳】卒業後、サンドバルは 1943年3月26日に海兵隊に入隊した。彼はカリフォルニア州サンディエゴの海兵隊新兵訓練所で基本的な訓練を完了したが、そこは1942年9月に29人のオリジナル・コードトーカーが到着したところだった。サンドバルはキャンプ・ペンドルトンで20週間過ごし、そこでナバホ・コードを記憶した。第二次世界大戦中に従軍した418人のコードトーカーのひとりとして、サンドバルは813語のナバホコードを駆使し、南太平洋戦域での軍事暗号通信をおこなった。

#VeteranOfTheDay Marine Corps Veteran Samuel Sandoval

 

1922 年にニューメキシコ州ナギージで生まれたサンドヴァルは、ナアシュテジ ディネエ (ズニ) と、トゥワシュチー (赤い頬の人々) とのあいだに生まれました。彼の母方の祖父は Tsenabahiłnii (スリープロックの人々) であり、彼の父方の祖父は Taneeszahnii (バッドランズの人々) でした。

ICT News: Life of Navajo Code Talker Samuel Sandoval remembered and honored by the Navajo people

 

サンドヴァルは18歳でアメリ海兵隊に入隊した。ナバホ・ネーションから同時期に入隊した60人全員が一緒にサンディエゴで軍事訓練を受け、次にカリフォルニア州オーシャンサイドのキャンプ・ペンドルトンに移される。そこはナバホ・コードトーカーの最初の29人 (Original 29) がナバホコードを作成している場所であった。

サンドバル氏によると、コードを作成するのは大変な作業でしたが、彼の時代には、60 人のナバホ海兵隊員が約 600 のナバホ語コード ワードを完成させることができました。訓練が終わるまでに、サンドバルは、すべての暗号語を暗記しなければならないと言いました。展開時に辞書を持ち歩くことはありません。

Navajo Code Talker Samuel F. Sandoval talks about his service

 

ドイツのエニグマ暗号機械のようではなく、コードトーカーズはそれ自身が暗号装置であった。

 

サンドバルの海兵隊における兵役は 1943年から1945年まで続いた。ガダルカナル島、ブーゲンビル、グアム、ペリリュー、そして沖縄。沖縄で他のナバホ・コードトーカーが伝えてきた日本軍降伏の知らせを上官に伝えたのも彼だった。

 

終戦後、サンドバルは沖縄からそのまま中国へと送られた。そこで帰国の知らせを受ける。

 

サンドバルは、米国に戻ったとき、コードトーカーとしての彼の奉仕について一言も言わないように言われた。「司令官は『除隊後は話してはいけない』と言いました」とサンドバルは言い、一枚の紙を渡され、点線に署名するよう求められた。

サインする前に、サンドバルは最初にそれを読んでもいいかと尋ねた。「文字の読み方を知っていてよかった」とサンドバルは言った。その書類は彼をさらに4年間再入隊させるものだった。彼は署名せずに紙を司令官に返し、「私は家に帰ります」と言った。サンドヴァルは 1946 年 1 月 26 日に除隊した。 

Navajo Code Talker Samuel F. Sandoval talks about his service

 

サンドバルの戦後 - PDSD と向き合う

彼の家族は、1930 年代の連邦政府のナバホ家畜削減プログラムのせいですべての家畜を失った。… 家畜がいなければ、生活ができない。… サンドバルのドキュメンタリーによると、サンドバルは測量を学び、地元の石油会社の測量員として働いた。… この間、サンドヴァルは戦争による精神的および感情面での傷によって引き起こされる問題に悩まされた。

 

ぐっすり眠れる夜もあったが、別の夜には悪夢に悩まされたとドキュメンタリーは述べている。そのため、サンドバルは対処法としてアルコールに依存したが、それはもう一つの問題を引き起こすだけだった。

 

彼は薬物乱用カウンセリングの証明書を取得するために大学に戻り、その後ファーミントン地区でカウンセラーとして働いた後、1970年代後半に自分のクリニックを開いた。

 

 

世紀の終わりごろになって、やっと先住民コードトーカーズの存在に光が充てられるようになる。多くのコードトーカーズが亡くなっていく中、1982年にレーガン大統領が8月14日を全国コード トーカーの日と宣言し、以降、遅まきながら議会メダルを授与された。

 

2022年7月31日、サンドバル死亡のニュースは全米のメディアが報じた。

第二次世界大戦中に母国語に基づいたコードを使用してメッセージを送信した最後のナバホ コード トーカーの 1 人であるサミュエル サンドバルが亡くなりました。サンドバルは金曜日遅くにニューメキシコ州シップロックの病院で死亡した、と彼の妻であるマルラは土曜日にAP通信に語った. 彼は98歳でした。何百人ものナバホ族が広大なナバホ族から採用され、米国海兵隊のコード トーカーとして勤務しました。現在生きているのは、ピーター マクドナルド、ジョン キンセル シニア、トーマス H. ビゲイの 3 人だけです。

Navajo Code Talker Samuel Sandoval has died at age 98 : NPR

 

万座毛とチャコ・クリフの距離

鳥居の場所はどこなのか

いったいこの鳥居のある絶壁はどこなのか。

公文書館は、これを伊江島であるとしているが・・・。

Navajo Code Talker PFC Samuel Sandoval relaxes under a Torii gate in Ie Shima, Okinawa, April 14, 1945 (National Archives Identifier 100385967)【訳】1945年4月14日沖縄県伊江島の鳥居の下でくつろぐナバホ族のコード トーカー PFC サミュエル サンドバル (国立公文書館識別子 100385967)

Navajo Code Talker: Adolph Nagurski – Pieces of History

 

しかし米軍の伊江島上陸は1945年4月16日である。米海軍は4月13日から14日にかけて水中爆破大隊が伊江島の全海岸を偵察して回っている*3 が、明らかに偵察中とは考えられない。

 

鳥居の左の柱の欠け (砲弾の跡) を見たことがある気がして、西原町の神社あたりを探していたのだが、ビューワーの方から万座毛の鳥居に似てるような? と教えていただきました。*4

 

1964年11月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

サンドバルの生まれ里、先住民保留地はニューメキシコのナギージ、先住民プエブロの聖地と古い遺跡群で有名なチャコ文化国立歴史公園の土地だ。見直すと、万座毛と似ているといえなくもない。というか、確かに似ている。

 

世界遺産 チャコ文化|ホットホリデー

 

その時代、リザベーションは一連の「インディアン戦争」とよばれているものの後に先住民を収容した収容所そのものだった。金網のない収容所。そこから出ることもままならなかった。今は先住民国家 (ネイション) とよばれ自治も認められているが、かつては違った。コロラド・アパッチのじいさんは、リズから出て、広い世界が見たくて大陸横断バス・グレイハウンズの運転手になった、といっていた。サンドバルが少年だった時代は、連邦政府に放牧の家畜まで制限され貧困にあえいだ時代だった。

 

クリフのうえに吹き渡る風、リザベーションから遠く離れて、サンドバルが万座毛で思いをはせていたのは、きっと故郷の風景だったに違いない。

 

R.I.P. Samuel Sandoval

 

 

 

 

youtu.be

 

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*1:Endangered languges: 言語の同化政策は、実際には1990年のアメリカ先住民言語法 (native american languages act of 1990) で、連邦政府先住民族が自分たちの言語を使用し、発展させていく権利と自由を保証するまで続く。

*2:ナバホ族の「コードトーカー」が死去、97歳 2次大戦に従軍 - CNN.co.jp

*3: 米陸軍公刊史書から引用「この空襲や、海上からの砲撃が行われている間に、海軍の水中爆破隊は、4月の13日と14日の両日、日中、伊江島の全海岸を偵察した。西海岸の偵察では、爆破隊は日本軍の射撃をほとんど受けることがなかった。この爆破隊の偵察のおかげで伊江島に関する報告、あるいは海岸後方の地形に関する報告を得ることができた。」《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 147頁》

*4:この場をお借りして 沖縄戦、78年前の今日 投稿に 万座毛の鳥居に似てるような? と連絡くださった @MONOGALITH_AR さんありがとうございます。

大きく砲弾で削られた鳥居に見覚えがあり探していたが、

万座毛だった。なるほど !

鳥居は鉄筋コンクリート造りで高さ約3メートルだった。沖縄戦の砲撃で傷付いたまま、最後は77年の台風で折れ果てた。

万座毛の鳥居 復元検討 恩納村、地元の要望強く - 琉球新報

 

日本軍は同化政策として支配地に神社と鳥居を建てまくったが、それでも沖縄戦の後半、本土に撤収したうえ沖縄人が「スパイ」をしていると主張した航空参謀は、沖縄に「神社少なし」と報告している。同化のためにまだまだ神社が足りないというのだろう。

 

万座毛の鳥居が台風で折れたというのは、台風で万座毛が元の姿に戻ったということである。

 

「神社」化された聖地を、できるだけ元の姿に戻す努力をしていくことは大切であるとおもう。